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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: 葛城 二華


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第三十四話 『兄さん』

 笹は、朝のうちに庭に立っていた。


 七月七日。休日の朝。六花円舞曲りっかワルツの庭の石畳の脇に、高さ二メートルほどの笹が据えてある。根元には水を張ったバケツ。葉先はまだ青く、朝の光を受けて揺れていた。


 深雪がキッチンの窓から庭を見たとき、じゅんはもう笹の傾きを直し終えたところだった。


「兄さん、早いですね」


「せっかくだからね」


「短冊と筆ペンは、昨日のうちに買ってあります。色は七色です」


「さすがだな」


「……いつものことです」


 六時半を過ぎると、階段に足音が混ざり始めた。


 最初に庭を覗いたのは氷華だった。毛布を肩にかけたまま、窓の向こうの笹を見て、「……たなばた」と短く言った。


 陽花がリビングに駆け込んできたのは、その三分後だった。


「うわー! お兄ちゃん、笹! 笹だ!」


「おはよう、陽花。短冊、書くかい」


「書く!」


 美空が「陽花、まず座りなさい」と声を投げた。月詠が三階から降りてくる足音が、静かに階段を刻んでいる。夏凪はダイニングの椅子に座ったまま、窓の向こうの笹を一度だけ見て、コーヒーカップに視線を戻した。



          *



 朝食の後、ダイニングのテーブルに短冊と折り紙が広げられた。


 七色の短冊。黒の筆ペンが三本と、金の筆ペンが一本。深雪が色ごとに揃えて並べている。


「二枚ずつ、お好きな色でどうぞ。飾りも作りましょう」


 陽花が折り紙で、吹き流しを次々に折っていく。形は少し歪んでいるが、手は止まらない。氷華はじゅんの隣で網飾りに鋏を入れていた。広げるたびに小さく頷く。美空は織姫彦星を、月詠は紙衣を整えている。夏凪は手を出さずにコーヒーを飲んでいた。深雪が輪飾りの糊づけをしている横で、じゅんが折り紙を一枚取り、不器用な鶴を折った。


「……兄さん、それは鶴ですか」


「鶴のつもりだよ」


「飾りましょう」


 深雪が笑った。


 飾りがひと通り揃ったところで、短冊に移った。


 陽花が一番に手を伸ばす。黄色い短冊を二枚取り、筆ペンを握った。じゅんの方をまっすぐ見て、一枚目に「大きくなる」と大きな字で書いた。迷わなかった。二枚目もじゅんの横顔を見ながら、「お兄ちゃんとずっと元気」。書き終えて、二枚を胸の前に掲げた。


「できた!」


 美空は白い短冊を選んだ。一枚目、「今年度の行事が滞りなく」。筆の運びが均等で、美しい。二枚目に移るとき、一瞬だけ視線がじゅんの方へ向いた。文字が、一枚目より小さい。書き終えると、すぐに裏返してテーブルに伏せた。


 氷華は薄紫の短冊を二枚、じゅんの隣で書いた。隣にいるのだから、視線を向ける必要もなかった。一枚目。「ずっととなり」。二枚目。「いつもとなり」。二枚を見比べて、小さく頷いた。


 月詠は藍色の短冊を一枚取り、扇子の陰からじゅんを一度だけ見た。「星合の夜に」とだけ書いた。筆を置き、もう一枚を手に取った。そちらは書き終えた瞬間に四つに折りたたみ、袖の中に滑り込ませた。


 夏凪は黒い短冊を選び、金の筆ペンを取った。一枚目に「負けない」と四文字。目線だけが一瞬、じゅんの背中をかすめた。二枚目を取り、筆を握り直した。筆先が短冊に触れ——四文字で、手が止まった。数秒。そのまま折りたたんだ。


 深雪は最後だった。


 薄紅色の短冊を二枚。一枚目に「家族の食卓が続きますように」と書いた。筆の速度は一定で、文字の大きさも揃っていた。


 二枚目を手に取り、間を置いて書いた。じゅんの方を見なかった。


 折りたたんだ。


 筆ペンを元の位置に戻し、短冊の端を揃えた。いつもの深雪の所作だった。


 じゅんは緑の短冊を一枚だけ書いた。「みんなが笑っていられますように」。



          *



 庭の笹に、短冊と飾りが揺れ始めた。


 吹き流しと網飾りの間に、色とりどりの短冊が並ぶ。一枚目は全員が表に向けて飾った。二枚目は、それぞれの方法で笹に結ばれていった。折りたたんだもの、裏を向けたもの、奥に差し込んだもの。じゅんの不器用な鶴が、枝の先で傾いている。


 月詠が、扇子を開いた。


「……お気づきですこと?」


 沈黙が降りた。


「みんな、願いは同じかもしれません」


 夏凪がコーヒーカップを持ったまま顔を背けた。美空が眼鏡の位置を直した。月詠の扇子が口元を隠した。


「えっ、みんなもお兄ちゃんのこと書いたの!?」


 陽花が声を上げた。


「あなたの『大きくなる』は?」


 美空が聞いた。


「えっ……お兄ちゃんと一緒にいるためだよ……?」


 首を傾げた。当然のように。


 じゅんは笹の前に立ったまま、小さく笑った。


「みんな、ありがとう」


 六人が、同時に黙った。



          *



 午後。


 深雪はキッチンで麦茶を準備していた。氷を入れたガラスのピッチャーに、朝から水出ししていた麦茶を注ぐ。七人分のグラスを盆に載せる。


 庭で、風が笹を大きく揺らした。枝先から一枚、短冊が落ちた。


 じゅんが笹の傍にいた。石畳の上に、薄紅色の紙。四つに折りたたまれている。


 じゅんが拾い上げた。


 開いた。


 三文字だけだった。


 『兄さん』


 じゅんの指が、短冊の縁で止まった。


 三秒。


 短冊を元のように折りたたみ、笹の枝の奥——深雪が選んだ場所に、結び直した。


 深雪の手が止まっていた。


 キッチンから、じゅんの手の動きが見えた。薄紅色の紙が笹に戻されるのが見えた。


 呼吸が、一拍分長くなった。


 盆の上のグラスが、かすかに鳴った。


 じゅんが振り返り、目が合った。


 深雪は微笑んでいた。いつもと同じ微笑みだった。


 七夕の風が、二人の間を通り過ぎた。



 リビングに麦茶を運んだとき、月詠が扇子を膝の上に置いた。


「さて」


 涼やかな声だった。


「先ほど、兄さまが庭で何かを拾っていらっしゃいましたわね」


 姉妹の視線が、じゅんに集まった。


「短冊が一枚、風で落ちていたから戻しただけだよ」


「……その短冊が、どなたのものか。ご覧になりましたのでしょう?」


 じゅんが笑った。「さあ」とだけ返した。


「推理しましょう」


 月詠が扇子を開いた。


「風で落ちたということは、端の枝に飾った短冊。折り目のある紙は風の抵抗が大きく、開いた短冊より落ちやすい。つまり、折って端に飾った方ですわ」


 夏凪の指が、カップの縁で止まった。


「わたくしではありませんわ。わたくしの二枚目は、笹の一番奥に差し込んでおりますもの」


 月詠の視線が巡った。


「氷華姉さまは」


「……隠してない」


 二枚とも開いたまま。


「陽花さんは」


「あたしも全部見えるとこに飾ったよ! 見られても平気だもん!」


「美空姉さまは」


「……わたしの二枚目は内側に折りましたが、真ん中の枝に結んであります」


「では——」


 月詠の視線が夏凪に向いた。


「夏凪姉さま。姉さまの二枚目は、端の枝でしたわね」


 夏凪の耳が赤くなった。


「違うわよ。あれは、書きかけで——」


「書きかけ?」


 扇子がわずかに開きかけて、閉じた。


「姉さま、何を書きかけて止められたのかしら」


「関係ないでしょう!」


 カップがテーブルに置かれた。音が少し強かった。


 月詠は微笑んだまま、それ以上は追及しなかった。


 深雪はリビングの隅に立っていた。グラスを一つずつ姉妹の前に置いている。手の動きは、いつもと同じだった。


「もういいじゃん、お兄ちゃん、誰のか教えて!」


 陽花が身を乗り出した。


「さあ、誰のだろうな」


 じゅんが笑った。


 推理大会は、結論の出ないまま、麦茶の氷が溶ける音に呑まれていった。



          *



 夕食の後、姉妹たちが一人ずつ部屋に戻っていった。


 陽花が「おやすみー、お兄ちゃん!」と手を振り、氷華がじゅんの袖を一度引いてから階段を上がった。美空が本を閉じ、月詠が「おやすみなさいませ」と扇子を畳んだ。夏凪が最後にリビングの明かりを一つ消した。


 深雪は、庭にいた。


 夕食の片づけを終えた後、そのまま出ていた。夜の笹は昼とは違っていた。短冊の色は闇に沈み、紙の白さだけが浮かんでいる。飾りが夜風に揺れて、かすかに音を立てていた。


 縁側に、足音がした。


「深雪」


 じゅんだった。庭に降りて、笹の前に並んだ。


 夜風が、笹の葉を一枚だけ揺らした。


「——笹、きれいに飾れたな」


 深雪の指先が、袖の内側で止まった。


「……ありがとうございます。兄さんが笹を立ててくださったから」


「みんなが書いてくれたからだよ」


 深雪は微笑んでいた。いつもと同じ微笑みだった。


「そろそろ中に入るか」


「兄さん。私は、もう少し夜風にあたります」


 じゅんが深雪を見た。


「……あまり遅くなるなよ」


「はい」


 足音が遠ざかった。リビングの引き戸が閉まり、家の中の明かりが一つ減った。


 庭に、深雪だけが残った。


 笹の枝に手を添えた。薄紅色の短冊が、夜風に小さく揺れている。折りたたまれたまま。結び目は、しっかりしていた。じゅんが結び直したのだから。


 ——見てくれていた。


 深雪は目を閉じた。


 夜風が笹の葉を鳴らし、短冊の紙が擦れる音がした。その音の中に、深雪の息が一つだけ混じった。


 目を開けると、星が見えた。笹の葉の隙間に、天の川が光っていた。



          *



 朝霧探偵事務所の窓際に、小さな笹が置かれていた。高さは三十センチほど。短冊が三枚、静かに揺れている。


 筆跡は、三つとも違っていた。けれど、みんな同じ方角を向いていた。

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