第三十三話 聖カレイド学園取材ノート、学園の噂
放課後の放送室は、雨の音に包まれていた。
柚木 すず(ゆずき すず)は、取材ノートの白いページを睨んでいた。ペンの尻で頬を突く。七不思議の放送から、もう二か月が経っている。あの放送は学園中で話題になったが、すずの中では「やりきった」という充足と、「次は?」という飢えが同居していた。
窓の外で、六月の雨が校舎を洗っている。梅雨の放課後は静かだ。部活の声も遠くなり、放送室には機材の微かな唸りと、雨粒がガラスを叩く音だけが残っている。
コンコン、と控えめなノックが二つ。
「すずちゃん、お邪魔してもいいですか?」
一ノ瀬 小春だった。鞄を肩にかけて、片手にコンビニの袋を提げている。
「小春ちゃん! もちろん、入って入って」
小春が扉を開けると、その後ろからもう一人、書類の束を抱えた榊原 真緒が顔を覗かせた。
「柚木さん、ごきげんよう。生徒会、今日は早く終わったので……寄っても大丈夫ですか」
「真緒先輩も! 嬉しい、どうぞどうぞ」
小春がコンビニの袋からシュークリームを三つ取り出した。真緒が自販機で買ってきたお茶のペットボトルを並べる。放送室の折りたたみテーブルに、ささやかなおやつが揃った。
「小春ちゃん、いつも三つ買ってくるよね」
「雨の日の放課後は、だいたい集まるので」
小春が当たり前のように微笑んだ。七不思議の取材で一緒に走り回って以来、三人はときどきこうして放送室に集まるようになっていた。きっかけはすずの「またなにか面白い話ない?」という一言だった。小春は文芸部と寮の、真緒は生徒会の、すずは放送室と校内の——それぞれ違う場所で拾った話が、ここで合流する。
「——で、最近なにかあった?」
すずがシュークリームを頬張りながら切り出した。
*
最初に口を開いたのは、すずだった。
「じゃあまず、私から一個。九条 景乃さんのこと」
「IT研究会の会長さんですか?」小春が首を傾げた。
「そう。高等部二年の。普段は眼鏡かけてて、パソコン室にこもってるイメージでしょ? この前、クラスの子が、渡り廊下で見かけたらしいの。雨に濡れちゃったみたいで、眼鏡を外して、髪を整えてて——」
すずが両手で自分の顔の横を押さえるような仕草をした。
「——めちゃくちゃ美形だったって話」
真緒がお茶を吹きかけた。
「す、すみません。続けてください」
「瞳がすっごく綺麗で、顔立ちが整ってて。でも景乃さん、すぐに眼鏡を戻して、何事もなかったみたいに歩いていったらしいの」
小春が「それ、もったいないですね」と小さく笑った。
「もったいないよね! でもなんか、わざと隠してる感じがするかも。あの眼鏡、度が入ってるのかな。それとも——」
すずはノートの端に「九条 景乃 眼鏡の秘密」と書いて、星印をつけた。
「まあ、これは不思議っていうか、発見って感じだけど」
空気が軽いうちに、次の話が来た。
*
「あの、じゃあ私も一つ」
小春が、シュークリームのクリームを唇の端につけたまま、少し声を落とした。
「白瀬先輩のことなんですけど——」
すずのペンが止まった。白瀬 聖。文芸部の副部長であり、白亜の聖域の使徒。転入してすぐに聖域の代表に就任したこと自体が、学園では静かな驚きをもって受け止められている。
「先月、放課後に正門の前を通ったんです。車が一台停まっていて、中から大人の方が二人、降りてきたみたいで。スーツ姿だったと思うんですけど、遠かったのではっきりとは——」
「先生じゃなくて?」
「たぶん、違うと思います。学園の方にはない雰囲気で……。白瀬先輩に名刺みたいなものを差し出して、頭を下げていたように見えたんです」
真緒が眉を寄せた。「大人が、高校生に?」
「はい。白瀬先輩はいつもの穏やかな笑顔で何か話していて、二人はずっと——なんだか腰が低くて。片方の人がお辞儀したとき、上着の裏側が何か光ったような気がしたんですけど、見間違いかもしれません」
「光った……?」
「距離があったので、自信はないんです」小春は静かに首を振った。「ただ、白瀬先輩が全然動じていなかったのだけは、はっきり覚えていて。穏やかな雰囲気のまま、車に一緒に乗って行ってしまわれました」
すずはノートに書いた。ペンの動きが少しだけ慎重になっていた。
「——小春ちゃん、それ、寮でも話題になってる?」
「いえ。見たのは私だけだと思います。白瀬先輩には聞けなくて……」
すずは「白瀬 聖 大人がぺこぺこ」と書いて、下線を引いた。
*
「あと、これ、寮の子から聞いた話なんですけど」
小春が、少しだけ表情を和らげて続けた。白瀬の話とは違う、軽い驚きの温度だった。
「尊みの守り手の亜麻柳 舞先輩、放課後に、後ろから野球のボールが飛んできたことがあったらしくて」
「後ろから?」
「はい。逸れ球でかなりのスピードだったみたいで。普通、気づかないですよね。でも舞先輩、振り向きもしないで、手刀でパンって叩き落としたって」
すずがペンを止めた。「……振り向かないで?」
「見てた子が、一瞬何が起きたかわからなかったって言ってました。ボールが地面に転がってて、舞先輩はそのまま『あちゃ~、やっちゃった』って言いながら、のんびり歩いてたって」
「舞先輩って、普段は眠そうにしてるよね」
「はい。でも、あの一瞬だけ別の人みたいだったって」
すずは「亜麻柳 舞 手刀で逸れ球撃墜」と書いて、首を傾げた。運動神経、で片付けていいのかどうか。
「——盛ってるかもしれないですけど」小春が小さく付け足した。
*
「また、寮の話で思い出しました」
小春が、お茶を一口飲んでから続けた。
「先日、寮に忍び込もうとした人がいたらしいんです。深夜、一階の窓から」
「えっ、怖い」すずが身を乗り出した。
「私は寝ていたので、翌朝になって知ったんですけど。朝、正門のところに警察の方が来ていて。それが——」
小春の声が、少し不思議そうな色を帯びた。
「その人が、異常に怯えていたんです」
「怯える? 捕まったからじゃなくて?」
「それが、警察の方にではなくて、寮の方を振り返って怯えていたんです。『もう決して近づきません』って、泣きそうな声で。警察の方が『落ち着いてください』って宥めていたくらいで」
真緒がペットボトルのキャップを回す手を止めた。
「……寮母の睦美さん?」
「え、でも、あの『ゆるふわむーちゃん』だよ」
「睦美さんは、朝ごはんの準備をしながら『あらあら、不審者がいたんですって、怖いわね~、みんなも気をつけてね~』っていつもの笑顔でした」
すずは「むーちゃん ゆるふわの裏側?」とノートに書いて、その横に「???」と添えた。
「ゆるふわの人が怖かったら、漫画みたいだね……」
すずが呟いたが、笑い声にはならなかった。
*
「じゃあ、次は私の番ですね」
真緒が書類の束を脇にどけて、少し姿勢を正した。生徒会会計の顔が、ほんの一瞬だけ覗いた。
「成瀬先生のことなんですけど」
成瀬 正義。音楽教諭にして、生徒会顧問。就任一年目。すずも真緒も、学園の中で何度も顔を合わせている人物だった。
「西園寺理事長の付き添いで、よく外出されてるみたいなんです」
「付き添い?」
「はい。理事長が外部の方と会うとき、成瀬先生が一緒に車に乗っていくのを何回か見た人がいて。私自身は二回、一緒の車から降りてくるのを見ました。一年目の先生が理事長と同じ車に乗るって、普通はないと思うんですけど」
すずがペンを構えた。「先輩、他に何か気づいたことは?」
「いつもどおりの柔らかい雰囲気なんだけど、理事長と並んで歩いていても、不思議なくらい違和感がなくて」
「……音楽の先生ですよね?」すずが念を押した。
「音楽の先生です。ピアノもヴァイオリンも素晴らしいです。でも——」
真緒が、少し言葉を選ぶような間を置いた。
「——先生にかかると、まるで熟達した指揮者がオーケストラを組み上げるみたいだって、吹奏楽部の子は言ってました。人もお金もスケジュールも、いつのまにか全部が一つの形に整っていく感じで。会計をやっていると数字で気づくんですけど、成瀬先生が関わった案件は、なんだか、きれいなんです。音楽教師では、ちょっともったいないくらい」
すずはノートに「成瀬先生、理事長と懇意」と書いた。
*
「先輩、もっとありますか?」
「あります」真緒が苦笑した。「生徒会は噂の宝庫ですから」
真緒は続けた。
「朝日先生——体育の朝日 陽太先生なんですけど。通学路で飛び出した子供を庇って、トラックにぶつかったことがあるらしいんです」
「えっ」小春が息を呑んだ。
「子供は無傷で、朝日先生は病院に運ばれたそうです。でも——翌日、普通に体育の授業をしていたらしいです」
放送室が、一瞬、静まった。
「——翌日?」すずが聞き返した。
「朝日先生は、怪我や病気で授業を休んだことがないことで有名ですし、現に、これまで休んだことも包帯姿だったこともありません。『大丈夫なんですか』って聞いたら、『子供も運転手さんも怪我はないよ!』って、笑ってたという話すらあります」
「かなり盛ってますよね。でも確かに朝日先生が休んだのは聞いたことがないですね」
すずはペンを止めて、真緒の顔を見た。真緒は事実だけを述べる表情をしていた。会計の癖なのかもしれない。数字と同じように、感情を混ぜずに報告する。
ノートに「朝日先生、頑丈ですませていいか」と書いた。
*
「あと、もう一つ。うちのクラスの子から聞いた話なんですけど」
真緒が、今度は少しだけ声のトーンを変えた。困惑のような、信じきれないような。
「学園の近くの駅前で、あまりたちのよくない他校の男子が何人か固まって騒いでたことがあったらしくて。女子にちょっかいを出してたのかな、詳しくは知らないんですけど。そしたら——和服の女の人が近づいてきて」
「和服?」
「すごく綺麗な人だったって。で、その人が何か言ったら、男子たち全員が腰を抜かして。二人くらいは漏らしてたって」
すずのペンが宙で止まった。小春が目を見開いた。
「——それ、誰?」
「だから、クラスの子も遠くから見てただけで、はっきりわからないんです。ただ、椿さんに似てたって。でもあの椿さんが怯えさせるって、ちょっと想像つかないでしょう? 清楚でお淑やかを絵に描いたような人だから」
「これも盛ってるよね」
「たぶんね。別人じゃないかな」
真緒もすずも、半分笑いながら言った。
でも、ノートには「龍崎 椿 不良を泣かす?」と書いた。すずは書きながら、もう一つのことを思い出していた。
*
「……真緒先輩、鳳凰寺先輩のことなんですけど」
「奏音さん?」
「先週、渡り廊下で聞こえたんです。生活指導の先生と奏音先輩が話してて。最初は先生の方が強い口調だったんですけど、奏音先輩がよくわからない難しい言葉を使い始めたら、だんだん先生の声が小さくなっていって」
「難しい言葉?」
「うん、法律っぽい……のかな? よくわからなかったんだけど、聞いたことのない硬い言い回しで。最後は先生の方が『確認不足でした、すみません』って謝ってた」
真緒が顎に手を当てた。「あの人も、普段の感じからは想像できないところがありますよね。ギャルなのに」
「うちの学園、なんかすごい人が多いかも」
すずは「鳳凰寺 奏音 難しい言葉のギャル」と書き足して、星をつけた。
*
シュークリームがなくなり、お茶も半分ほど減った頃、話の流れが少し緩んだ。
すずは回転椅子に背を預けて、天井を見上げた。
「あ、そうだ。もう一個あった。小さい話なんだけど」
「はい?」
「校長先生ね。さぼってる生徒がいると、音もなく後ろにいるの」
真緒が頷いた。「ああ、それ。生徒会でも有名です。足音が全然しないんですよね。気づいたら真後ろに立ってて」
「しかも怒らないんだよね。満面の笑顔で、『風邪をひかないようにね』とか、『無理はしなくていいからね』とか、優しいことしか言わないの」
小春が口元を押さえて笑った。「それ、逆に怖くないですか?」
「怖いよ! 音もなく後ろにいて、にこにこしながら体を気遣ってくるの。もう校長先生の笑顔がトラウマだって言ってた」
すずはノートに書いたが、これはメモ程度に留めた。
ノートをぱらぱらとめくった。前のページ。そのまた前のページ。七不思議を集めたときのメモが並んでいる。
指が止まった。
ページの隅に、小さな文字で書かれた一行があった。
──(メモ:この学園、大きな事故が一度もない?)
あの日、真緒先輩と立ち話をした時に書いたメモだった。深掘りしないまま、次の不思議を探しに行ってしまった。
「……真緒先輩」
「はい?」
「前にも聞いたんですけど、この学園って、大きな事故が一度もないって話。あれ、やっぱり本当ですか」
真緒が頷いた。「本当です。書類を遡れる範囲で、保険の支払い記録を確認したんですけど、骨折以上の怪我の報告が一件もないんです。十年以上」
「十年……」
「体育祭も文化祭も、毎年やってるのに。行事のたびに数百人が動くのに。ゼロです」
小春が、少しだけ首を傾けた。「……不思議ですね。確率的にも」
三人は黙った。雨の音が、放送室のガラスを叩いていた。
すずがノートを閉じた。
開いた。
もう一度閉じた。
「——ねえ」
声が出た。笑いながらだった。
「この学園さ、面白すぎない?」
軽い声だった。深刻にするつもりはなかった。ただ、ノートに並んだ言葉を眺めていたら、口からこぼれた。
成瀬先生の不思議な立場。白瀬先輩の謎の来客。舞先輩の手刀。朝日先生の人間離れした頑丈さ。駅前の和服美人。景乃さんの隠された顔。校長の気配のなさ。寮の安全。事故ゼロ。
——どれも確かめようがない。盛ってるのかもしれない。でも、話が多すぎる。
小春が、お茶のペットボトルを両手で包みながら、静かに頷いた。
「……確かに」
真緒が、書類の角を指先で整えた。
「でも、居心地はいいんですよね」
三人の目が合った。
「——まあ、楽しいからいっか!」
すずが先に笑った。小春が柔らかく笑った。真緒が力を抜いて笑った。
放送室の窓を打つ雨の音が、少しだけ穏やかになった気がした。
*
真緒が「そろそろ帰りますね」と立ち上がりかけた時、すずが「あ、待って」と声を上げた。
「もう一個だけ。これは、噂というか——謎なんだけど」
「まだあるんですか」真緒が苦笑して座り直した。
「東雲 晶先輩。究極生命体を研究しているという噂の科学部の部長。あの人、なんか——『ジュンサン』っていう生命体を研究してるらしいんです」
小春と真緒が、同時にきょとんとした。
「ジュンサン?」
「そう。科学部の子に聞いたの。晶先輩が時々、ものすごい集中力で何かのデータを見てて。研究ノートの表紙に『ジュンサン観測記録』って書いてあったって。出現場所とか生態データとか反応速度とか、何かの生き物の研究みたいなんだけど、誰も知らないんだって」
「究極生命体……」真緒が呟いた。「新種の微生物とかですかね」
「わかんない。でも晶先輩、すっごく楽しそうにデータを取ってるらしくて。目がキラキラして、普段の無表情が嘘みたいに生き生きしてるって。しかも、話もしてるらしいです」
「話?」
「うん。ジュンサンとときどき会話してるんだって」
真緒が眉を寄せた。「……微生物なのに?」
「晶先輩ですから」
小春が静かに頷いた。すずも真緒も、それで納得してしまった。
「——まあ、科学部だし、研究熱心なんでしょうね」
「だね。じゃあ今日の収穫はこれくらいかな」
すずはノートを閉じて、伸びをした。
窓の外で、雨脚が少しだけ弱まっていた。空の端に、わずかに明るい場所がある。梅雨の合間の、束の間の光。
「また来てね、二人とも。放送室、いつでも開けとくから」
「はい。お菓子を持ってきますね」小春が微笑んだ。
「私は数字しか持ってこれませんけど」真緒が書類を抱え直して笑った。
三人が放送室を出ると、廊下はもう薄暗くなっていた。雨の匂いが、開いた窓から流れ込んでくる。
すずは鍵を閉めながら、ふと思った。
七不思議の「次」、ずっと探していた。今日、たくさん見つかった——でも、すぐには使えない。そのまま放送には乗せられない。
だけど。
すずはノートを胸に抱え直した。
スクープの種として、とっておこう。いつか使える形で、いつか届けられる日が来るかもしれない。放送委員は、ネタを腐らせない。温めるのだ。
ノートの最後のページに、すずは一行だけ書き足した。
──この学園、面白すぎる。でも、居心地はいい。
ペンを挟んでノートを閉じた。雨の中を、傘を差して帰路についた。




