第三十二話 工程表の余白
朝の事務所は、まだ静かだった。
二華が鞄にタブレットを入れ、留め金を閉じた。
「いってらっしゃい、二華さん。……皆さんに、よろしくお伝えください」
二凛が玄関口で少しだけ身を乗り出して言った。
「本日の現地の天気は曇り、午後から晴れ。換気扇清掃には適した湿度です」
アイが端末から目を上げずに添えた。
「ありがとうございます」
二華はヒールの音を立てて、事務所の扉を開けた。
昨日の夕方、じゅんが言った。二華の目をまっすぐに見て、微笑んで——「明日、みんなをよろしく」。
二華は目を伏せた。
「……承知いたしました」
*
六花円舞曲の門を、八時三十五分にくぐった。
玄関で靴を揃えていると、廊下の奥から足音が近づいてきた。美空だった。手にはノートを持っている。
「おはようございます、二華さん。お待ちしておりました」
「おはようございます、美空さん。本日はお世話になります」
二華はタブレットを開いた。画面には、色分けされた工程表が表示されている。縦軸に場所、横軸に時間。四社の業者名と作業内容が、三十分刻みで並んでいた。
「九時から消防設備の点検が入ります。火災報知器のテストで警報音が鳴りますので、先にお伝えしておきたいのですが」
「分かりました」
「それからもう一つ。九時半から十時半頃まで、一階の水が止まります。深雪さんに、キッチンでお水をお使いになる場合は、先にお済ませください、と。それと、十時からガスが止まりますので、午前中にお飲み物などのご用意がありましたら、九時半までにお願いいたします」
美空のペンが止まった。ノートに書き込もうとしていた手が、一瞬だけ宙に浮いた。
「……承知しました」
美空はペンを動かした。
*
二華は、氷華の部屋のドアの前で、一度だけノックした。
「氷華さん。葛城です。十時五分に、消防点検で警報音が鳴ります。一分ほどで終わりますので」
三秒ほど、間があった。ドアが薄く開いた。
毛布を肩にかけた氷華が、隙間からこちらを見ている。銀色の髪が片方だけ跳ねていた。
「……わかった。十時五分」
時刻を復唱した。
ドアが、静かに閉じた。
二華は小さく頭を下げて、廊下を戻った。
*
九時。消防設備の点検業者が到着した。
二華は玄関で名刺を受け取り、作業範囲と所要時間を確認した。続いてタブレットの画面を見せた。
「一階から順にお願いします。九時半から空調と給排水が入りますので、一階の点検は九時二十五分までに完了していただけますか」
業者の担当者が、工程表を覗き込んだ。
「……ずいぶん細かいスケジュールですね」
「お住まいの皆さんに、できるだけご不便をおかけしないようにご協力をお願いいたします」
声は穏やかだった。けれど工程表の精度は、穏やかさとは別の場所にあった。
九時半。空調メンテナンスと給排水管検査の業者が、同時に到着した。
二華は玄関と廊下を往復しながら、二社を同時に受け入れた。空調は三階から、給排水は一階から。
「空調は、三階から二階、一階の順でお願いします。給排水は一階を十時半までに終えて、二階に上がっていただけますか」
タブレットを一度も操作しなかった。画面は開いていた。けれど二華は業者の顔を見ていた。工程表は頭の中にある。画面は業者に見せるためのものだった。
リビングのソファで、陽花がこちらを見ていた。
「はなちゃん、何してるの?」
「お家の点検ですよ、陽花さん。今日は業者さんがたくさんいらっしゃいますから、私のそばにいてくださいね」
「わかった!」
陽花がソファから飛び降りた。白いリストバンドが手首で揺れている。二華の後ろについて、業者の出入りを目を丸くして眺めている。
リビングの奥では、月詠が一人掛けソファに座り、文庫本を開いていた。ページを繰る手は動いているが、視線の端が、時おり二華の方を向いた。
十時。ガス設備の点検業者が来た。四社目。
玄関にはたくさんの安全靴が並んでいる。二華は、キッチンへ案内した。
「給湯器の点検をお願いします。ガスの元栓は九時五十五分に閉めてあります」
「もう閉めてあるんですか」
「はい。お茶の準備を終えられましたので」
ダイニングのテーブルには、人数分の冷たい麦茶が並んでいた。深雪が用意したものだった。氷が少しだけ溶け始めている。
十時五分。警報音が鳴った。
短く、二回。消防業者が報知器のテストボタンを押した音だった。
*
十一時四十分。空調業者が一階に降りてきた。
「ブレーカーを一度落とします」
「三分だけお待ちください」
二華がキッチンへ向かった。ガス業者が給湯器の再点火テストを行っている。点火と同時にブレーカーを落とすと、換気扇の連動が切れる。
タブレットに目を落とした。一瞥。
「給排水の二階の作業はあと何分ほどですか」
階段の上から声が返った。「もうすぐ終わります」
「増圧ポンプの点検もお願いしてあります。型番はテラル NX-VFC253-0.75D、前回点検は十一月です」
階段の上で、一拍の沈黙があった。
「……確認します」
二華はキッチンに戻った。
「ガスの再点火は完了されましたか」
「はい、問題ありません」
「ありがとうございます。——ブレーカーをどうぞ」
三分だった。ガスの再点火と空調のブレーカー操作の間に、三分の余白を作っただけだった。二華は何も説明しなかった。なぜ三分なのか。なぜこの順序なのか。業者は聞かなかった。指示が正確だったからだ。
美空がダイニングの椅子に座ったまま、ノートのペンを止めていた。
書くことが、追いつかない。
陽花が美空の横で麦茶を飲みながら、二華の背中を見ていた。
「はなちゃん、すごいねー。みんないっぺんに来てるのに、全然あわてないんだね」
「段取りさえ組んでおけば、慌てることはありませんよ」
二華は微笑んだ。タブレットを置き、キッチンの換気扇のカバーに指をかけた。ネジを二本外し、フィルターを引き出す。手袋をはめ、スーツの袖を三つ折りにしてから、ファンの羽根を薬液に漬け込み、一枚ずつ丁寧に拭き始めた。
迷いがなかった。ファンの形状を知っている手つきだった。
リビングの一人掛けソファで、月詠の文庫本が閉じた。
増圧ポンプの型番を、淀みなく伝える声。月詠はあのとき、ページから目を上げていた。
今は、キッチンを見ている。換気扇のファンを拭く二華の手元を、文庫本を膝に置いたまま見ていた。
十二時半。給排水業者の高圧洗浄が、予定より延びた。
排水管の汚れが想定以上だった。業者が二華に声をかけた。「あと十分ほどかかりそうです」
「他はすでに完了しています。お時間は十分にありますので、丁寧にお願いします」
換気扇のファンをカバーに戻し、ネジを二本締める。手袋を外し、袖を戻す。一連の動作に、一つも余計な動きがなかった。
二華はタブレットの画面を指先で二度触った。工程表の色が一つ動いた。工程表の再構成に、五秒しかかからなかった。
月詠は文庫本を開き直した。ページの上に視線を落としたが、活字は追っていなかった。
*
十三時。
最後の業者が玄関を出た。四社分の安全靴が消えた玄関のたたきを、二華が一度だけ見下ろした。
大浴場の点検が残っている。
二華はスリッパを脱ぎ、大浴場のタイルに素足で立った。排水口のカバーを外し、排水トラップの状態を確認する。タイルの目地に沿って指を滑らせ、鏡の固定金具に手をかけ、換気ダクトの接続部を覗き込んだ。
排水口まわりのシーリングを指で押した。東側の一箇所、わずかに弾力が落ちている。タブレットを開き、一行打った。
陽花が脱衣所から顔を覗かせた。
「はなちゃん、何見てるの?」
「ここのゴムが少しだけ痩せているので、記録しておきますね」
「ゴム?」
「次に、直してもらう場所です」
陽花は「ふうん」と頷いて、隣にしゃがみ込んだ。二華が指で示した目地を、同じように指で押してみている。
「……わかんない」
「それで大丈夫ですよ。気づいた人が記録しておけば、あとは業者さんが直してくれますから」
二華は陽花の頭に軽く手を添えた。
十三時二十分。すべてが終わった。
リビングに、静けさが戻っていた。業者の足音も、機械の駆動音も消えている。窓の外は曇り空から薄日に変わりかけていた。
美空が立ち上がった。
「二華さん、本日は本当にありがとうございました」
深く、頭を下げた。
「お一人で四社の対応と設備の確認を——私には、ここまでの段取りは組めません」
「いえ。美空さんが姉妹の皆さんへの連絡を引き受けてくださったおかげです。助かりました」
「二華さん、お昼はいかがですか。深雪姉さんがお食事を用意しています」
ダイニングからは、出汁の匂いが漂い始めていた。下ごしらえは、断水とガスの停止を縫うように、午前中に終えている。業者の撤収時間に合わせたように、仕上がりが揃っている。
「……いただきます」
テーブルには、冷やしうどんと天ぷらの小鉢が並んでいた。梅雨の合間の献立だった。
陽花が二華の隣に座った。美空が向かいに座った。深雪が静かに配膳を終え、席についた。氷華が階段を降りてきた。リビングの空気を一度吸って、首を小さく傾げた。
「……さわやか」
それだけ言って、席についた。毛布はない。
月詠が文庫本を閉じ、テーブルに移った。
陽花が天ぷらを頬張りながら話していた。業者さんの安全靴がかっこよかったこと、警報音が意外と短かったこと、はなちゃんの手袋が白くてきれいだったこと。美空が時おり「陽花、口に物を入れたまま喋らないの」と釘を刺した。深雪は黙って箸を運んでいたが、ときおり二華の所作に視線を向けていた。
陽花の声。美空の仕切り。深雪の手際。氷華の沈黙。月詠の、文庫本をテーブルの端に置いた指先。——この食卓の空気を、二華は感じていた。
箸を動かした。うどんは冷たく、出汁は深かった。
食後、二華はダイニングの椅子に座ったまま、タブレットを開いた。
工程表。四社の完了報告書。異常箇所の有無。増圧ポンプの状態。換気扇の分解清掃完了。大浴場のシーリング劣化一箇所。次回点検推奨日。
すべてが一画面に収まっている。末尾に一行、添えた。
「皆さん、お元気です」
送信した。
二十秒ほどで、通知が鳴った。
じゅんからの返信。文面は短かった。
「いつもありがとう、二華」
タブレットを持つ指の力が、一瞬だけ、緩んだ。画面の中の文字は動かない。いつもありがとう。声ではなく文字だった。声ではないのに、指先がまだ少し温かい。
二華はタブレットを閉じた。
「ごちそうさまでした。それでは、失礼いたします」
陽花が二華の腕にしがみついた。
「はなちゃん、またきてね!」
「ええ、また」
二華は陽花の頭に軽く手を添えた。
玄関で靴を履いていると、夏凪が帰ってきた。仕事帰りだった。ベルの車が門の前に停まっている。
夏凪はリビングに入った。
「……さわやかね」
氷華と同じ言葉だった。
二華が六花円舞曲の門を出た。
月詠は自室の窓から、タイトボブの後ろ姿を見ていた。
扇子を膝の上に置いたまま、窓枠に指をかけている。
二華の前職は、公務員と聞いている。
——公務員ですか、はてさて……。
月詠は扇子を一度だけ、指先で回した。
薄日がカーテンの隙間から差し込んでいる。六月の光は、まだ夏には遠い。
窓の外で、二華の姿が商店街の方へ消えた。




