第三十一話 相合傘の季節
金曜日の放課後。IT研究会の部室で、月詠は端末の画面を閉じた。
「景乃さん、ひとつ伺いたいのですが」
九条 景乃が端末から顔を上げた。眼鏡の奥の瞳が、月詠をまっすぐに捉える。
「はい、月詠さん」
「兄さまの本日のご帰宅は、何時頃になるかしら」
景乃は端末に目を落とさなかった。
「十七時二十分頃かと」
「事務所から歩いて?」
「そうですね」
「雨は、いつ頃から?」
「十六時五十分を過ぎた頃には降り始めるかと」
月詠の指が、膝の上で小さく動いた。商店街から六花円舞曲まで十分。十七時十分に兄さまが商店街を通る。十六時五十分過ぎに雨が降り始める。
「ちょうどいいですわね」
*
二日前の夕食の席で、陽花が言った。
「今日ねー、お兄ちゃんが傘に入れてくれたの!」
食卓が一瞬だけ凍った。じゅんは箸を動かしたまま「たまたま通りかかったんだよ」と答えた。
月詠は味噌汁の椀を口に運びながら、陽花の言葉を噛み砕いていた。
待ち伏せ。商店街。雨。傘。
策が、静かに組み上がっていった。
*
月詠は鞄を確かめた。折りたたみ傘は鞄の底にある。これは、存在しない傘だ。
校門を出る手前で、美空姉さまが折りたたみ傘を鞄に入れるのが見えた。月詠は少し距離を取って、別の道を選んだ。
八百屋の二軒先に、シャッターの下りた店がある。軒が深い。ここで待つ。
最初の雨粒が肩に落ちた。
傘は、出さない。
姫カットの髪が湿っていく。ケープの肩に染みが広がる。冷たかった。制服の生地が肌に貼りつく。
十七時十九分。
商店街の北口の方から、紺色の傘が近づいてきた。
月詠は軒下から一歩出た。
じゅんの足が止まった。
「月詠?」
「……あら、兄さま。奇遇ですわね」
「傘は?」
「うっかり忘れてしまいましたの」
じゅんが傘を月詠の方へ傾けた。右肩に雨が落ち始める。
「一緒に帰ろうか」
傘の下に入った。じゅんの体温が近かった。
「兄さま、ありがとうござい——」
「あーーー! つくつく!」
背後から、声が飛んできた。
陽花だった。傘を差して、制服のまま。バトンケースの入った鞄を揺らしながら、駆けてくる。
「つくつく、濡れてる! 大丈夫?」
「陽花さん、わたくしは——」
「ねえ、私の傘に入りなよ! お兄ちゃんの傘が窮屈になっちゃうから!」
陽花が月詠の隣に並び、透明な大きめの傘を差しかけた。
月詠の唇が開きかけて、閉じた。
「……ありがとうございます、陽花さん」
「じゃあお兄ちゃん、つくつくは私が連れてくね!」
じゅんが小さく笑った。「頼むよ」。紺色の傘が、月詠から離れていった。
三人で歩いた。じゅんが先を歩き、陽花と月詠が透明な傘の下に並ぶ。
「つくつく、今日の夕ごはん何かなー」
「……さあ。深雪姉さまに伺わないと」
「肉じゃががいいなー。あ、カレーもいい!」
月詠は鞄を握り直した。透明な傘の向こうに、じゅんの背中が見えている。紺色の傘が、梅雨の空気の中で揺れていた。
玄関に入った。
靴を脱ぎ、鞄を下ろした。ケープの端から水滴が落ちた。
じゅんが廊下の奥から戻ってきた。手にタオルを一枚。
「月詠」
タオルが、頭の上に載せられた。
じゅんの手が、タオル越しに髪を拭いた。姫カットが崩れることを厭わない手つきだった。
「風邪ひかないようにね」
タオルの隙間から、じゅんの顔が見えた。目が合った。呼吸が止まった。
扇子が、指から滑り落ちた。
小さな音を立てて、玄関のタイルの上に転がった。拾おうとする手が、途中で止まっている。
じゅんが腰を屈めて、扇子を拾い上げた。タオルで軽く水気を拭いてから、月詠の手に戻した。
「大事な扇子だよ」
「……ありがとうございます、兄さま」
陽花が横で靴を脱ぎながら、月詠のケープの裾を引っ張った。「つくつく、背中も濡れてるよ」。じゅんがもう一枚タオルを持ってきた。
*
自室のドアを閉めた。
間接照明が、和モダンの部屋を静かに照らしている。
ベッドの端に座り、背筋を伸ばした。タオルはまだ肩にかけたままだった。
——構想に問題はありませんでしたわ。変数を……制御しきれなかっただけ。なのに、またも結果は望外。
窓の外を見た。雨はまだ降っている。
ふと、景乃さんの顔が浮かんだ。
端末を見なかった。一秒も迷わなかった。兄さまの帰宅の時刻も、帰宅のルートも。
聖さんの顔が浮かんだ。舞さんの顔が浮かんだ。
——姉さま方のそばで、まるで……。
「……この学園、少し出来すぎていませんこと?」
小さな声だった。誰にも向けていない。
髪に触れると、じゅんの匂いが残っている気がした。目を閉じた。
窓の外で、雨が降り続けていた。




