第三十話 誰かを守れる人に
水曜日の放課後は、雨だった。
バトントワリング部の練習を終え、体育館の更衣室で着替えた。後輩たちに「おつかれー!」と手を振り、昇降口で傘を開く。梅雨の風が湿った空気ごとスカートを叩いた。日曜日からずっと降っている。
商店街を傘を差して歩いた。八百屋の軒先から、おかみさんが手を振った。陽花は「こんにちはー!」と手を振り返した。全力で。練習のあとは体が温かくて、声がよく出る。包丁屋の前を通り、和菓子屋の角を曲がる。いつもの帰り道だった。
雨脚が強くなった。風も出てきた。傘が煽られて、制服の肩が濡れる。
シャッターの下りた店の軒先に駆け込んだ。傘をたたんで、息をついた。
女の子がいた。
小さかった。陽花の腰より低い。五つくらい。ピンクのレインコートを着ているが、フードは脱げて、髪が濡れていた。傘を持っていなかった。軒先の壁に背中をつけて、両手で自分の腕を抱え、口をきゅっと結んで、涙が頬を伝っていた。声は出ていなかった。
陽花は、女の子の前にしゃがんでいた。膝が冷たいタイルに触れた。
「大丈夫?」
女の子が顔を上げた。目が合った。
泣き方が、変わった。声のない涙から、声のある泣き方に。我慢していたものが、陽花の顔を見た瞬間にほどけたように、小さな口が開いて、しゃくりあげ始めた。
「……お姉ちゃん、だれ?」
「私は陽花だよ。ひまり」
女の子の唇が震えた。「おかあさんが、いない」。声が、やっと言葉になった。
「お買い物してたの?」
こくり、と小さな頭が動いた。
「一緒にいたのに……」
もう一度、涙が顎から落ちた。
「はぐれちゃったんだね。大丈夫だよ。お姉ちゃんがいるから」
女の子が陽花の顔を見ていた。泣きながら、でも、目を逸らさなかった。
陽花は手を差し出した。白いリストバンドが、雨に濡れていた。
小さな手が伸びてきた。指が触れた。冷たかった。雨の中でどれくらい立っていたのだろう。陽花の手が女の子の手を包んだ。ゆっくりと。指先に力が入りすぎないように。壊さないように。大きな手ではない。でも、この手よりは大きい。
「ねえ、ちょっと見ててね」
陽花は片手で鞄を開き、バトンケースからバトンを一本取り出した。軒先の幅は狭い。大きな技はできない。
指先で回した。小さく。手首だけで。バトンが銀色の円を描く。軒先の端から吹き込んだ雨粒が、回転する金属に弾かれた。小さな水しぶきが散って、女の子の頬のあたりに届いた。
泣き声が、止まった。
「……きらきら」
女の子が言った。涙で濡れた目に、銀色の線が映っている。
「もう一回やるね」
もう一回、回した。今度は少しだけ速く。水しぶきが細かくなって、光に透けた。女の子が笑った。小さく、ほんの少しだけ。
陽花も笑った。
「よし。お母さん、探しに行こう。一緒に歩ける?」
女の子の手を握ったまま、立ち上がった。バトンを鞄に戻す。傘を開いて、女の子の上に差しかけた。軒先を出ると、雨が陽花の肩と髪に落ちた。
*
商店街の通りを、二人で歩いていた。傘は女の子の方に傾けている。陽花の制服は、もう背中まで濡れていた。ツインテールから水が垂れ、スカートの裾が足に張りつく。
「お姉ちゃん、ぬれてるよ」
「平気平気! 雨って気持ちいいんだよ」
嘘ではなかった。嘘ではないが、少し寒かった。
商店街の角を曲がったところで、傘が、上から現れた。
陽花の頭の上に、雨が落ちなくなった。
「陽花」
じゅんの声だった。
見上げた。じゅんが傘を差しかけていた。スーツの肩に雨粒がいくつか落ちている。傘を陽花の側に傾けた分、じゅんの右肩が濡れ始めていた。
「お兄ちゃん!」
「びしょ濡れだな」
「うん。でもね、この子が——」
女の子がじゅんを見上げている。大きな人。知らない人。繋いだ手が、きゅっと陽花の指を握り直した。
「お母さんとはぐれちゃったんだって」
じゅんは腰を落として、女の子の目線に合わせた。
「そうか。探しに行こう」
声は静かだった。怖がらせない声だった。女の子がじゅんの顔を見て、それから陽花の顔を見た。陽花が笑った。女の子は小さく頷いた。
三人で歩いた。じゅんの傘の下に陽花と女の子。陽花の傘は女の子が片手で握っている。使わなくても、持っているだけで安心するらしかった。
女の子は陽花の手を繋いだまま、もう泣いていなかった。時おり陽花の顔を見上げ、それからじゅんの方をちらりと見る。じゅんは何も言わず、傘を二人の側へ傾けたまま歩いていた。右肩のスーツの色が、左より濃くなっていた。
商店街の中ほどにある交番で、巡査が迷子の届けを確認した。二十分ほど前に、母親から届けが出ていた。連絡を入れてもらい、陽花は女の子と並んで椅子に座った。女の子は陽花の手を離さなかった。じゅんは入口の近くに立って、静かに待っていた。
七分ほどで、母親が来た。走ってきた。
「——あかり!」
「おかあさん!」
陽花の指が一本ずつ解けて、小さな手が離れていった。さっきまで冷たかった手が、少しだけ温かくなっていた。母親が女の子を抱き上げた。強く。レインコートのフードを直して、頬に顔を寄せていた。
母親が振り返った。
「ありがとうございます。本当に——」
声が詰まっていた。何度も頭を下げた。陽花は両手を振って「よかったです、ほんとに」と言った。笑っていた。笑いながら、視界がにじんだ。
母親の腕の中で笑っている女の子の輪郭がぼやけた。泣いているのではなかった。ただ、安堵が目の奥から静かに溢れて、景色が水の膜を一枚通したように揺れていた。
女の子が母親の腕の中から、陽花に手を振った。小さな手だった。さっき、陽花が包んでいた手。
陽花は手を振り返した。大きく。いつもの、全力の手の振り方で。
「……よかった」
小さな声だった。さっきの「よかったです」とは違う声だった。誰にも向けていない声だった。
じゅんが隣に立っていた。
*
交番を出ると、雨は少し弱まっていた。
じゅんが傘を差した。陽花の分も。陽花は自分の傘を持っていたが、たたんで鞄にぶら下げていた。じゅんの傘の下にいる方が、よかった。
「お兄ちゃん、あの子、笑ってたね。最後」
「ああ」
「最初はすっごく泣いてたの。声も出ないくらい。でも、バトン回したら、笑ったんだよ」
「そうか」
じゅんが歩きながら、ハンカチを取り出した。陽花の肩にかけた。白いハンカチが濡れた制服の上に載った。小さくて、肩は覆いきれない。でも、首筋に垂れていた水が止まった。
じゅんは陽花の歩く速度に合わせていた。いつもより少し遅い。
「お兄ちゃん」
「ん」
「私ね、いつもお兄ちゃんに守ってもらってるでしょ」
陽花は前を向いたまま続けた。
「だから——私も、誰かを守れる人になりたいの」
じゅんの足が、止まった。
半歩、陽花が先に出た。傘の端から、雨粒が一つ、陽花の肩に落ちた。
濡れた制服の背中が見えた。ツインテールから水が垂れている。バトンケースの入った鞄が揺れている。さっき小さな手を包んでいた手が、スカートの横で軽く握られている。
——お兄ちゃん、私、ちょっとだけ、大きくなれたかな。
じゅんが歩き出した。半歩を詰めて、傘を陽花の頭の上に戻した。
「陽花、あの子のお姉ちゃんみたいだったな」
陽花が振り向いた。目の端が、まだ少しだけ赤かった。
「えへへ」
それだけだった。
二人で歩いた。商店街の端が近づいていた。街灯の並びが途切れ、住宅街に続く道。
じゅんが、ふと顔を上げた。
「見回りか……」
一瞬だけ、目を細めた。商店街の角の方へ視線を向けて、すぐに戻した。
陽花は、じゅんの傘の下で、小さく鼻歌を歌い始めていた。
雨の向こうに、六花円舞曲の灯りが見えた。




