第二十九話 六花calmato(りっかカルマート)
雨が、朝から降っていた。
六月も終わりに近い日曜日。六花円舞曲のリビングには、行き場を失った気配が、ゆるやかに沈んでいた。
夏凪がソファの端で雑誌を開いていた。モデル仲間から勧められたファッション誌。ページをめくる指は規則正しいが、視線は活字を追っていなかった。窓を打つ雨音が、読む速度をゆるやかに溶かしている。
美空がダイニングテーブルで課題の問題集を広げていた。ペンが等間隔に動いている。リビングにみんながいるとき、美空の姿勢は自然と正される。会長でなくても、この家の秩序は美空が担っていた。
深雪はキッチンの入口に近い椅子に座り、文庫本を開いていた。栞の位置は朝からほとんど動いていない。
「つくつくー、ボウルとって!」
キッチンから、陽花の声が弾けた。
「陽花さん、泡立て器はそちらではなく、こちらですわ」
「えー、でもこっちの方が大きいよ?」
「大きければよいというものではありませんの。生地が飛び散りますわ」
月詠の声は落ち着いていた。陽花との掛け合いに、いつもの鋭さはない。キッチンに立つときの月詠は、少しだけ角が丸くなる。
雨の日曜日。外に出られない午後。陽花が「お菓子つくろ!」と言い出したのは昼食のあとだった。月詠が冷蔵庫の中身を確認し、「マドレーヌなら材料が揃いますわ」と応じた。二人はエプロンをつけてキッチンに消え、それからずっと、粉と卵と砂糖の気配がリビングに漂い続けている。
じゅんはソファの中央にいた。読みかけの文庫本を手に持っている。ページは進んでいたが、時おりキッチンからの声に顔を上げた。
袖に、重さが触れた。
氷華が、いつの間にか隣にいた。ソファの端に身を預けるように沈み込み、じゅんの左腕に自分の腕を重ねていた。
毛布を一枚、膝にかけている。オーバーサイズのニットの袖が指先まで余っていた。六月でも、氷華は寒がりだった。梅雨の湿気は冷えを含む。雨の日は、特に。
「……雨」
一語だけだった。理由でも報告でもない。ただ、そこにある事実を声にしただけだった。隣に座る理由を説明する代わりに、雨音を指さすように。
青みがかった銀色が、窓からの灰色の光を静かに映していた。
「……よく降るな」
じゅんが返すと、肩がほんの少しだけ沈み、じゅんの側へ傾いた。
*
キッチンから、オーブンの予熱を知らせる電子音が鳴った。
「つくつくー、入れていい?」
「温度を確認してからですわ。百八十度、焼き時間は十八分です」
陽花と月詠の声が遠くなった。オーブンの扉が閉まる音。タイマーを設定するボタンの音。それから、型の片付けと天板の洗い物。
リビングは、静かだった。
夏凪は雑誌のページを閉じ、目を伏せていた。眠っているわけではない。ただ、雨音を聞いている。美空のペンの音が、一段ゆるやかになった。深雪の文庫本のページが、長い間めくられていない。
甘い匂いが、キッチンからリビングへゆっくりと漂い始めた。バターと卵が焼ける匂い。梅雨の湿った空気の中に、温かい甘さが溶けていく。
氷華の重さが、変わった。
動いたのではない。力が抜けたのだ。じゅんの左腕に重ねていた腕が、わずかに重くなる。肩がもう少しだけ深く傾き、氷華の体の軸が、じゅんの側へ移っていた。重力が氷華をじゅんに預けている。
読みかけの本を、空いている右手でテーブルに置いた。音を立てないように。
雨音と、遠くのオーブンの低い唸りと、甘い匂い。氷華の呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。吸って、吐いて。吸って、吐いて。間隔が長くなる。
じゅんの呼気で、氷華の前髪がわずかに揺れる。
二人の呼吸が、雨音の中で静かに重なっていた。
氷華の指が、じゅんの袖を掴んでいた。いつ掴んだのか、じゅんにもわからない。親指と人差し指と中指で、袖の布地をそっと挟んでいる。
その指が、一本ずつ、力を失っていった。
中指が先に緩んだ。人差し指が続いた。親指だけが最後まで残り、それも、やがて布の上に落ちた。指は開いたまま、じゅんの袖の上にあった。離れなかった。握ることをやめた手が、それでもそこにある。
氷華の寝息が、小さく聞こえた。
じゅんは動かなかった。
左腕に氷華の体温がある。銀色の髪が肩にかかっている。甘い匂いと雨音が部屋を満たしている。右手は自由だった。本を取ることも、飲み物を取ることもできた。けれど、そのままでいることを、選んだ。
深雪がソファの前に立っていた。文庫本は椅子の上に閉じたまま残っている。両手に、薄いブランケットを一枚持っていた。
深雪は氷華の肩からブランケットをかけた。丁寧に、端を揃えて。氷華の背中から膝までを覆い、じゅんの腕のあたりまで届かせた。ただし、じゅんの側の端は、少しだけ短かった。氷華が寄りかかっている面の上に、布が足りない。
「……風邪を引きますよ」
声は静かだった。氷華に向けた言葉か、じゅんに向けた言葉かは、わからなかった。
深雪は微笑んでいた。手は優しかった。ブランケットの端を直す指先は、昨夜の夕食を盛り付けるときと同じ丁寧さだった。
微笑みはそのまま。唇の形も変わらない。けれど目の奥にある温度が、氷華の寝顔を見下ろした一瞬だけ、下がったように見えた。
深雪はそれ以上何も言わず、元の椅子に戻った。文庫本を開き直した。栞の位置は変わっていなかった。
雨は降り続いていた。
*
「——できたよー!」
キッチンから、陽花の声が弾けた。
氷華の睫毛が、かすかに震えた。
意識が、遠くから戻ってくる。雨音。甘い匂い。じゅんの腕の温度。ブランケットの重み——かけられた覚えはない。深雪の匂いがした。
氷華はゆっくりと目を開けた。
視界が滲んでいた。リビングの灰色の光。窓に当たる雨粒。その向こうに、庭の植え込みと、濡れた塀が見える。
雨が、少しだけ弱まっていた。
庭の植え込みの向こう。塀の上のあたりに、気配を感じた。影というほどのものではない。空気の揺れ、とも違う。雨粒の落ち方が、一箇所だけ、ほんの一瞬、乱れたような——。
目を凝らした。もう、何もなかった。塀の上には雨が降っているだけだった。
「……誰か、いた?」
氷華の声は、まだ眠りの中にあった。小さな声だった。
「どうだろう。気のせいかも」
じゅんは窓の外を見なかった。氷華の声にだけ答えた。
雨音が、二人の間に戻った。
キッチンから足音が近づいてきた。月詠がリビングの入口に現れた。エプロンをつけたまま。
月詠の目が、ソファを見た。
じゅんの左腕に寄りかかる氷華。ブランケット。開いたままの指が、じゅんの袖の上にある。
一拍、間があった。
「皆さま、お茶の時間ですわ。ダイニングへどうぞ」
声は涼やかだった。
「今日のマドレーヌは、陽花さんとわたくしの合作です。ですから——」
月詠の視線が、もう一度、氷華に向いた。
「今日は、わたくしと陽花さんが、兄さまの隣をいただきますわ」
夏凪が雑誌から目を上げた。美空のペンが止まった。深雪の文庫本のページが、半分めくれかけたまま止まった。
氷華が、身を起こした。
ゆっくりと。じゅんの腕から体重を戻し、背もたれに背中を預ける。ブランケットが膝の上にずれ落ちた。銀色の髪が一房、頬にかかっている。
じゅんが左腕を動かした。氷華の体温が離れた跡に、空気がわずかに冷たかった。
「行こうか」
笑いながら、言った。左手を開いたり閉じたりしている。
「……うん」
氷華はじゅんを見た。視線を逸らさなかった。
陽花がキッチンから大皿を抱えて出てきた。
「みんなー! あったかいうちに食べよ!」
笑顔だった。エプロンに粉がついている。マドレーヌの山が、湯気を立てていた。
全員がダイニングへ向かった。美空が問題集を閉じ、夏凪がソファから立ち上がり、深雪が文庫本を棚に戻す。
氷華がブランケットを丁寧にたたみ、ソファの肘掛けの上に置く。
ダイニングのテーブルに、陽花がマドレーヌの大皿を置いた。月詠が紅茶のポットを運んでいる。皿と人数分のカップが並んでいく。
じゅんが椅子を引いた。いつもの席。
月詠が、じゅんの右隣の椅子に手をかけた。「こちらですわ」と目で陽花に合図を送る。陽花が左隣に回り込もうとしている。
氷華がダイニングに入ってきた。
じゅんを見た。左隣。陽花が椅子を引こうとしている。右隣。月詠がもう座りかけている。
氷華は、じゅんの向かい側の席の、椅子を引いた。何も言わず、座った。
ダイニングが、一瞬だけ、止まった。
「ひょかたん、はい!」
陽花だけが止まらなかった。マドレーヌを一つ、小皿に取り、氷華の前に差し出した。焼きたての、いい匂いがした。
氷華は受け取った。猫舌だから、すぐには食べない。指先でそっと触れて、温度を確かめた。
「陽花、月詠、ありがとう。おいしそうだな」
じゅんの声が、テーブルに温かさを落とした。陽花が「えへへ!」と笑い、月詠が「当然ですわ」と紅茶を注いだ。
じゅんがマドレーヌを一つ取った。自分の皿には置かなかった。手の中で少しだけ持って、それから、氷華の小皿にそっと載せた。陽花が渡した一つの隣に、もう一つ。
「食べごろだよ」
氷華は、一口かじった。
「……おいしい」
——ずっと、この場所にいられたら。
雨が、まだ降っていた。リビングの窓を打つ音が、ダイニングまで届いている。マドレーヌの甘い匂いと、紅茶の湯気と、陽花の笑い声が混ざり合っていた。
氷華は食べながら、窓の方を一度だけ見た。雨は元の強さに戻っていた。さっきの気配は、もうどこにもなかった。
テーブルの上で、陽花が月詠に「つくつく、あとで型洗うの手伝って!」と言い、月詠が「使ったのは陽花さんですわ」と返している。じゅんが笑っている。
氷華は、マドレーヌの残りを口に運んだ。




