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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第二十八話 いつかケープを纏うとき

 新館二階の廊下を、一ノいちのせ 小春こはるは歩いていた。


 金曜日の放課後。「白亜通信Compassion of Snow」、CSの七月号の校正が今日の予定だった。腕に抱えたクリアファイルの中に、先週受け取った原稿の束が入っている。誤字の確認、ページ番号の統一、寄稿エッセイの文字数チェック。八十ページの大冊を毎月仕上げるCSの校正は、信徒レジデントの仕事の中でも重い部類に入る。


 前を歩く使徒アポストルの一人、柊木ひいらぎ 詩乃しのの背中に、ケープが揺れていた。ラベンダーパープルの万華鏡刺繍が、廊下の光を受けて淡く動く。詩乃は園芸部の活動を終えたあとだった。それでもケープの白は汚れていない。


 小春は信徒レジデントだが、ケープを着けていない。着けたいと思ったことはある。信徒レジデントの二割ほどがケープを纏っている。深雪先輩に倣って。深雪先輩のそばにいる証として。


 けれど小春は、自分にはまだ早い気がしていた。ケープを纏う人たちの歩き方を、小春は知っていた。詩乃先輩の楚々とした歩幅。琴音先輩の柔らかくも隙のない背筋。あの人たちの纏い方には、覚悟がある。深雪先輩への崇拝を、背中に引き受ける覚悟。小春にはまだ、その重さを背負える自信がなかった。


 聖域の活動拠点、通称「白の社交室」が近づいてきた。元は大会議室だが、花壇管理や図書館管理、初等部児童への学習支援、学園行事の支援、校外での奉仕活動などが評価され、使用が認められている。扉は開いていた。中からレイアウトを確認している声が聞こえる。CS編集責任者、男子で唯一の使徒アポストルである篠宮しのみや とおる。「この見開き、余白が三ミリ足りない」——八十ページの品質にこだわりを持つ透の声は、いつも通り静かで、いつも通り容赦がなかった。


 小春が「白の社交室」に入ろうとしたとき、隣の小部屋のドアが開いた。


 白灯はくとうの間。白瀬 聖、柊木 詩乃、結城ゆうき 琴音ことねの三人の使徒アポストルが交替で開くカウンセリングの場。今日は聖の担当日だった。


 出てきたのは、中等部の女子生徒だった。


 泣いていた。けれど、笑っていた。目元が赤く、鼻の頭も赤い。それなのに口元が緩んでいて、一歩ごとに背中から何かが抜け落ちていくような歩き方をしていた。小春とすれ違うとき、その生徒は小さく頭を下げて、廊下の向こうへ消えていった。


 「白灯の間」のことは、小春も知っていた。聖先輩の担当日だけ予約が半年先まで埋まっていること。出てくる人がみな穏やかな顔をしていること。数字としては知っていた。けれど、泣きながら笑う顔を至近距離で見たのは、今日が初めてだった。聞くのと見るのとでは、違った。


 「白灯の間」のドアが閉まる前に、中が一瞬だけ見えた。聖先輩が椅子に座っていた。淡い栗色のサイドテール。細縁の眼鏡。穏やかな横顔。ケープは着けていない。聖域の代表でありながら、聖はケープを纏わない。その理由を小春は聞いたことがなかった。


 何も特別なことはしていないように見えた。ただ座って、話を聞いていただけのはずだった。


 それだけで、人が泣きながら笑って出てくる。


 知っていたはずだった。けれど今日のこれは、知っていたものとは違った。




          *




 校正作業は、「白の社交室」で進んでいた。


 透がレイアウトの最終調整を続けている。詩乃がケープの裾を椅子の背にかけ、来月の奉仕活動の計画書を書いていた。小春は窓際の席で、原稿の誤字リストを作っていた。


 「白灯の間」を終えた聖が戻ってきたのは、十五分ほど後だった。手元にマグカップを持っている。「白灯の間」のあとは、いつもこうだった。一杯分の間を置いてから、通常の作業に戻る。


「お疲れさまです、聖先輩」


「お疲れさま、小春さん。校正、進んでる?」


「はい。誤字は三箇所、ページ番号のずれが一箇所です」


「ありがとう。丁寧ね」


 聖が隣の席に座った。マグカップを置き、名簿を開く。来月の活動配置。聖の字は小さくて整っていた。


 聖が、ペンを止めた。


「小春さん。今日は少し、いつもと違うかしら」


 小春は顔を上げた。聖先輩の鋭さは知っていた。信徒として一年近く、そばで作業をしてきた。聖先輩が人の機微を読み取ることは、小春にとって日常だった。


 けれど、今日は自分に向いた。


「……わかりますか」


「少し嫌なことがあった?」


 昨日、友人と些細なことで言い合いになった。誰にも言っていない。顔に出していないつもりだった。聖先輩が他の人の感情を読むのを何度も見てきた。それでも、自分が対象になると違う。他人事として見る鋭さと、自分に刺さる鋭さは別のものだった。


「大丈夫。小春さんは、ちゃんと向き合える人だから」


 それだけだった。深追いしない。いつもそうだった。いつもそうだと知っていて、それでも心臓が少しだけ速くなった。



 「白の社交室」のドアが、開いた。


 空気が変わった。


 この感覚も、小春は知っていた。集会で、玲が壇上に立つときの空気。けれど集会の壇上と、三メートル先では、距離が違った。


 プラチナシルバーのハーフアップが、廊下の光を受けて白く輝いていた。シワのないサマーブレザー。銀色ブローチ。深いアイスブルーの瞳が、「白の社交室」の中を一度だけ見渡した。


 西園寺さいおんじ れい。ケープは着けていない。専用の階級で聖域に迎えられた法王ポープもまた、ケープを纏わない人だった。


 立ち姿だけで、部屋の空気がすべて玲の方を向いた。実際の身長よりずっと大きく見えた。透のペンが止まっていた。詩乃の背筋が伸びていた。


「聖さん。CSの七月号、六ページの企画、確認しました。問題ありません」


「ありがとうございます、玲さん」


 それだけだった。玲の視線が小春の上を一瞬だけ通り過ぎた。プラチナシルバーの髪が翻り、ドアが閉まった。十秒もなかった。


 小春は息を吐いた。止めていたことに、今気づいた。


 知っていた。法王ポープの格を。けれど三メートルの格は、知っていたものとは別だった。




          *




 校正の終わりに、聖が言った。


「小春さん、深雪の寄稿エッセイの原稿、図書館で受け取ってきてもらえる?」


 新館を出て、本館を抜け、図書館へ向かった。渡り廊下を歩きながら、小春はいつもの距離を感じていた。「白の社交室」は新館にある。深雪先輩は、大抵、図書館にいる。聖域には関わるのは、招待されたときだけ。二百五十人が深雪先輩を崇めているのに、深雪先輩自身は、その場所にほとんどいない。聖先輩だけが、両方で深雪先輩のそばにいる。文芸部員として図書館には毎日のように通っていたけれど、CSの校正を手に聖域の側から図書館へ向かう道は、いつもの道と少しだけ違って感じられた。


 図書館の文芸部の一角に、深雪がいた。


 窓際の席。白いケープ。銀髪。六月の西日が横顔を淡く照らしている。文芸部員としてこの姿を何度も見てきた。何度見ても、同じ感覚があった。空気の温度が一度下がるような、静かな冷たさ。


「深雪先輩、失礼します。CSの寄稿エッセイの原稿をいただきに来ました」


 深雪が顔を上げた。微笑んだ。


「小春さん、ありがとうございます。こちらです」


 丁寧な文字が連なる原稿を受け取った。表紙に目が行った。タイトルは「朝の食卓」。


「読んでみますか」


 深雪が言った。小春の視線に気づいたのだろう。穏やかな声だった。


「……いいんですか」


「校正の方に読んでいただけるのは、ありがたいことです」


 小春は原稿を開いた。家族の朝食の風景を描いた短い随筆だった。白湯の湯気、新聞を繰る音、窓から差し込む朝の光。柔らかな文体の中に、ひとつだけ繰り返される言葉があった。「兄」。


「……素敵なご家族ですね。深雪先輩のお兄様は、じゅん先生ですよね。どんな方なんですか」


 自然に出た言葉だった。深雪先輩が読ませてくれたのだから、感想を述べるのは自然なことだと思った。


 深雪の微笑みは崩れなかった。


「優しい人ですよ。白湯を飲んで、新聞を読んで。でも、とても深く、はかりしれない人です」


 声は穏やかだった。


 けれど。


 小春は文芸部員として、信徒レジデントとして、深雪先輩の微笑みをずっと見てきた。廊下で巡礼者ピルグリムに向ける微笑み。文芸部で原稿を読むときの微笑み。聖先輩と並んで歩くときの微笑み。全部知っているつもりだった。


 今の微笑みは、その全部と違っていた。


 何が違うのか、小春にはわからなかった。唇の形は同じだった。声も同じだった。何も変わっていないはずだった。それなのに、さっきまで向かいに座っていた深雪先輩と、今ここにいる深雪先輩が、同じ人に見えなかった。


 目だった。目の奥にある何かが、別のものに入れ替わった気がした。温度が上がったのか、下がったのか、それすらわからない。「兄」と口にした瞬間から、同じ椅子に座っているのに、深雪先輩がどこか別の場所にいるような感覚があった。


「……素敵なお兄様なんですね」


「ええ。とても」


 深雪はそれ以上何も言わなかった。微笑みは元に戻っていた。




          *




 図書館を出たのは、五時半を過ぎた頃だった。


 夕陽の渡り廊下を歩きながら、小春は今日見たものを思い返していた。「白灯の間」を出てきた生徒の顔。聖先輩の「何かあった?」。玲先輩の十秒。深雪先輩の目。


 聖先輩の洞察力は知っていた。玲先輩の格は知っていた。どちらも、知っていたものの奥にもう一段深い場所があった。けれど深雪先輩の目だけは、知っていたものの延長ではなかった。まったく別のものだった。


 帰り際、深雪が小春にかけた声を思い出した。


「小春さん、校正、いつもありがとうございます。来月もよろしくお願いしますね」


 穏やかで、完璧な微笑み。あの微笑みが、廊下で巡礼者ピルグリムたちに向けるものと同じだったのか、違ったのか。小春にはわからなかった。


 渡り廊下の窓に、自分の姿が映った。ケープのない肩。詩乃先輩や琴音先輩のように、ケープを纏う日が来るのだろうか。今日見たものを言葉にできるようになったら、そのとき初めて、あの白い布を背負えるのかもしれない。


 わからないまま、小春は歩いていた。ただ、来月のCSも自分が校正したい、とだけ思っていた。

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