第二十七話 聖女の微笑み
廊下が、静まった。
足音が聞こえたわけではない。気配が変わったのだ。昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り終えた直後、本館へつながる渡り廊下に、ひとつの沈黙が降りた。
数人の生徒が、足を止めた。白亜の聖域——学園では「聖域」と呼ばれる組織の会員たちだった。深雪を聖女のように崇める人々の集まりであり、その影響力は生徒会に次ぐとされている。
深雪が、廊下の向こうから歩いてきた。
スノーホワイトのサマーブレザーに、同じ色のケープ。六月の陽射しが窓から差し込み、純白の銀髪を透かしている。ケープの縁を飾るラベンダーパープルの万華鏡刺繍が、光を受けるたびに微かに揺れた。フロントの二連ゴールドチェーンが、歩幅に合わせて静かに弧を描く。
本来、ケープは行事用の儀礼装である。入学式、卒業式、式典。一年のうち数えるほどしか纏わない、聖カレイド学園の格式を象る装い。日常的に着用する生徒は少ない。聖域の幹部である使徒や上級会員である信徒の一部が、ケープを纏うことはあったが、聖域の大半を占める一般会員の巡礼者は、深雪と同じ装いをすることを畏れとして自ら控えていた。
深雪は毎日纏っていた。同じケープを纏う者たちの中でさえ、深雪だけが違って見えた。白いケープは儀礼ではなく、深雪そのものだった。むしろケープのない深雪を想像できる者のほうが少なかった。
歩幅が、均一だった。一歩ごとにプリーツスカートの裾が同じ角度で揺れ、足音は等間隔に廊下の石材を踏んでいる。
深雪の半歩後ろにもう一人。
白瀬 聖。白亜の聖域の代表で使徒。淡い栗色の髪が、開け放たれた窓からの風に、一房だけ頬にかかった。ピンクブラウンの瞳が、細縁の眼鏡越しに廊下の先を見ている。ラベンダーパープルのベストをブレザーの下にきっちりと着込み、プラチナゴールドのリボンは左右対称に、一ミリの緩みもなく結ばれていた。穏やかで、隙がなかった。
足を止めていた生徒の一人が、隣の生徒の袖を掴んだ。
「深雪様が……」
囁きは、それだけだった。それだけで十分だった。廊下にいた生徒たちが、自然と道を開けていく。命令ではない。圧力でもない。ただ、深雪の歩幅を乱す者が、この学園にはいなかった。
渡り廊下の中央で、深雪の足がほんの一瞬だけ止まった。
向かいから、一人の生徒が歩いてきたからだった。
プラチナシルバーのハーフアップ。シワのないサマーブレザーの胸元に、特注の銀色ブローチが、六月の光を静かに弾いている。深いアイスブルーの瞳が、深雪を一度だけ捉え、そのまま通り過ぎた。
西園寺 玲。前生徒会長。白亜の聖域にただ一人の法王。
すれ違う一秒の間に、二人の間を通った空気は、廊下のどの空気とも違っていた。足を止めていた生徒たちの誰もが、そこに言葉があったことに気づいた。けれど何が交わされたのかは、誰にもわからなかった。
深雪は再び歩き出した。微笑みは、一度も崩れなかった。
*
放課後の図書館の一角に、深雪と聖だけがいた。
深雪が文芸部の原稿の束をめくっている。指先の動きは丁寧で、紙の端を折ることがない。一枚一枚を、同じ速度で確認していく。
「聖、三年二組の合評原稿、こちらでよろしいですか」
「ええ。小春さんが整理してくれたの。部数も確認済みよ」
深雪が頷いた。
聖が窓際の椅子に腰を下ろし、聖域の会報「白亜通信Compassion of Snow」、通称CSの次号に寄せられた原稿の束を開いた。寄稿の下読みだった。文芸部員でもある巡礼者たちの原稿を、掲載前に聖が一度通す。毎月八十ページの品質を保つための、静かな作業だった。
沈黙が、図書館に落ちた。
穏やかな沈黙だった。原稿を繰る指の音が、二人分、六月の午後に落ちている。
窓の外で、初等部の校庭から歓声が上がった。深雪が顔を上げた。窓の向こうには、放課後の陽射しと、遠くの校門に向かって歩く生徒たちの影が見えていた。
「聖」
「なに」
「廊下で皆さんが、道を開けてくださるでしょう。ありがたいことだと思います。けれど」
深雪は原稿を閉じた。穏やかな微笑みのまま、窓の外を見ていた。
「あの方々は、私の何を見ているのでしょうね」
聖は答えなかった。原稿から目を上げもしなかった。ただ、ページを繰る指が、少しだけ止まった。
問いの形をした独白だった。聖はそれを知っていた。
深雪はそれ以上何も言わなかった。原稿の束を揃え、文芸部で使用している棚に戻した。指先が棚の奥行きを確かめるように動き、原稿が一ミリも傾かない位置に収まった。
聖が、原稿の束を閉じた。
「深雪。CSの次号、深雪の寄稿エッセイの締め切り、今週の金曜でいい?」
「ええ」
深雪が微笑んだ。
*
図書館を出たのは、五時を過ぎた頃だった。
聖は校門の方へ向かった。「また明日」とだけ言って、淡い栗色のサイドテールが、夕陽の中に溶けていった。
深雪は、廊下に残った。
本館の渡り廊下。昼間、生徒たちが道を開けた、あの場所だった。今は誰もいない。窓から差し込む西日が、廊下の石材を橙色に染めている。朝の光が白く透かしていたケープを、夕暮れの光が温かく染めていた。同じ白が、時間の色を吸って変わっていく。
深雪は、窓辺に立った。
校庭に、もう人影はなかった。遠くの校門が夕陽に沈み、聖カレイド学園の一日が終わろうとしていた。
微笑みを、解いた。
唇の形が変わったのではない。目の奥にあった光の質が、ひとつだけ、静かに消えた。維持していた表情筋のうち、ほんの一箇所だけが、力を失った。
一日中、一ミリも崩れなかった姿勢が、誰もいなくなって初めて、ほんの少しだけ重力に従った。
窓の外を見ていた。六花円舞曲のある方角を。兄さんが帰ってくる時間には、まだ早い。夕食の支度は帰ってからでも間に合う。
廊下を歩けば道が開く。名前を呼ばれれば、微笑みを返す。白いケープを纏い、一歩の乱れもなく歩く。
それは深雪が選んだことだった。兄さんにふさわしい自分でいるために。毎朝ケープの留め具に指をかけるとき、深雪はいつも同じことを思っていた。
——けれど。
聖域のみんなが見ている深雪と、兄さんが見ている深雪は、同じだろうか。
白湯の回数を覚えている自分を、兄さんは知っている。箸の速度を数えている自分を、兄さんは受け入れてくれた。あの白い部屋に入って、「落ち着く」と言ってくれた。
聖域のみんなは、その深雪を知らない。
「……兄さんだけが、私の本当を見ている、もっとこれからも……」
声に、なっていた。
呟きは、誰もいない廊下の石材に落ちて、消えた。窓の外で、夕暮れの最後の光がケープの縁を橙に染め、それからゆっくりと、薄闇に変わっていった。
深雪はケープの留め具に指をかけた。アグラフの冷たさが、指先に触れた。
微笑みが、戻った。
目の奥の光も、背筋の角度も、歩幅の均一さも。すべてが、元に戻った。帰路につく深雪の足音は、昼間と同じ間隔で、廊下に落ちていった。
夕暮れの渡り廊下に残ったのは、足音ではなく——声に出してしまった一言の残響だけだった。




