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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第二十六話 ここにいてください

 昼休みの終わりに、深雪は鞄を閉じた。


 早退届は、四限の終わりに担任へ出してある。文芸部の原稿は昨夜のうちに仕上げてあった。


 廊下に出ると、白瀬しらせ ひじりが並んだ。


「深雪、帰るの?」

「ええ。少し、用事ができまして」

「では、私も。先生には、あとで伝えてもらいましょう」


 深雪は足を止めなかった。聖の申し出を断りもしなかった。二人は同じクラスだった。聖は、気づくとそこにいる人だった。


「兄さんの体調が、少し気になるんです」


 深雪が、昇降口の靴箱に手を伸ばしながら言った。


「朝、気づいたの?」


「昨日の夕食の頃から。白湯を飲む回数が一回多かったんです」


 聖は何も言わなかった。靴を履き替える深雪の横顔を、静かに見ていた。


「今朝は、お箸を運ぶ間隔が、いつもより長かったですから」


 深雪は微笑んだ。穏やかな微笑みだった。


「早めに、お夕食の支度をしておこうと思いまして」


 白いケープの裾が、深雪の歩幅に合わせて揺れた。



 六花円舞曲に着いたのは、一時半を過ぎた頃だった。


 深雪はキッチンに立った。エプロンを結び、冷蔵庫を開ける。手羽元、生姜、長葱、棗。薬膳の煮込みを中心にした、滋養のある夕食の支度だった。昨夜のうちに手羽元の下処理は済ませてある。鍋に水を張り、手羽元を入れた。


 聖はリビングのソファに座り、文庫本を開いていた。キッチンから規則正しい包丁の音が聞こえている。深雪の呼吸のように、一定の間隔で。




          *




 二時半、玄関の鍵が開いた。


 深雪の手が止まった。


「——ただいま」


 じゅんの声だった。帰宅の予定は六時のはずだった。


 深雪はエプロンの裾を一度だけ直し、キッチンの入口に立った。


「おかえりなさい、兄さん。お早いですね」


 じゅんがリビングに入ってきた。ジャケットを脱ぐ動作が、いつもより遅い。聖がソファから立ち上がり、軽く会釈した。


「聖さんも?」


「深雪と一緒に、少し早めに失礼しました」


 じゅんは聖に頷き返してから、キッチンの方を見た。鍋から立つ湯気。まな板の上に並んだ野菜。夕食には早い時間に、夕食の支度が進んでいる。


 深雪が手の甲をじゅんの額に当てた。


「三十七度二分くらいですね」


「大丈夫だよ」


「兄さんの平熱は三十六度四分です。高いですよ」


 じゅんは深雪の指先を見て、少し笑った。


「深雪、早退したのかい」


「はい。昨日のお夕食のとき、白湯をいつもより一杯多く召し上がっていましたから」


 じゅんの笑みが、少しだけ変わった。


「今朝も、お箸を運ぶ間隔がいつもより長かったんです。二口目と三口目の間が特に」


 深雪はもう笑っていなかった。


「それだけで、早退を」


「それだけで十分です、兄さん」


 深雪の声は静かだった。静かで、揺るぎがなかった。


「たまご酒をお作りしますね。少しソファでお待ちになっていてください」


 深雪がキッチンに戻った。じゅんの体調に合わせた最適解を、深雪は常に頭の中に持っていた。


 聖が、文庫本を閉じた。


「深雪、煮込みの火は私が」


 深雪の手が、一瞬だけ止まった。鍋の方を見た。弱火の煮込み。灰汁はもう引き終えている。かき混ぜる段階ではない。


「……お願いします、聖。味付けは、あとで私がしますね」


「ええ」


 たまご酒が仕上がった。深雪は椀を盆に載せ、じゅんの前に立った。


「兄さん、こちらへ」


 じゅんを理由なく自室に呼ばない。これは、姉妹のルールの一つだった。じゅん自身も、陽花の夜の様子見を除けば、姉妹の部屋には踏み込まないようにしていた。年頃の妹たちへの、兄としての節度だった。


「お約束でした。私の部屋で、お茶をお出しすると」


 じゅんは覚えていた。あの夜の会話を。


「今日は理由がございます。看病です」


 深雪の声は穏やかだった。穏やかで、隙がなかった。




          *




 深雪が、自室の扉を開けた。


 白かった。


 カーテンの隙間から午後の光が差し、部屋全体が淡い乳白色に沈んでいる。壁も、ベッドカバーも、本棚の間に挟まった小さな花瓶も。薄紅のアクセントが、ところどころに静かに置かれている。


 カサブランカの甘い香りと、微かな乳香。深雪の気配が、部屋そのものに染みついていた。


 深雪がベッドの傍らにたまご酒の椀を置き、じゅんを招き入れた。


「生姜を少しと、蜂蜜を。柚子は香りだけです。温かいうちに、召し上がってくださいね。そのあとは少し休んでいてください。お夕食ができたらお呼びしますから」


「ありがとう」


 深雪が部屋を出て、キッチンへ降りていった。


 ひとりになった。


 たまご酒を一口含んだ。甘さと温度が、体の芯にじわりと届く。もう一口。喉の奥から、緊張が緩んでいく。


 じゅんは椀を置いて、部屋を見た。


 本棚が多かった。四面のうち二面を占めている。文庫本から単行本まで、背表紙の高さが完全に揃えられていた。一冊の傾きもない。


 机の上。ペンが二本、ノートが一冊。ペンの向きが平行に揃えてある。ノートの角が机の縁と正確に合っている。


 クローゼットの取っ手に、アイロンのかかったエプロンが一枚だけ掛けてある。白い、無地の。


 埃がない。どこにも。窓枠にも、本棚の天板にも。カーテンの裾が床に触れる角度まで、均一だった。


 生活の痕跡があるのに、生活感がない。毎日ここで眠り、本を読み、原稿を書いているはずなのに、すべてが展示のように整えられている。


 扉の前に来たことはある。声をかけたことも。けれど、中に入って、ベッドに座り、この部屋の空気を吸ったことは——なかった。


 じゅんは、たまご酒の椀を両手で包んだまま、考えていた。


 ——白湯が一杯多い。箸の間隔が、少し長い。


 深雪がさっき、あたりまえのように口にした言葉を、反芻していた。


 じゅんは昨日の夕食を思い返した。白湯を飲んだ記憶はある。いつもと同じように飲んだつもりだった。一杯多かったという自覚は、ない。今朝の朝食も完食した。味も量もいつも通りだった。箸を運ぶ間隔が長かったと言われても、心当たりがなかった。


 自分では気づかない微差を、深雪は気づいていた。そしてそれだけで、学園を早退し、前夜から仕込んでいた夕食の支度を加速させた。


 この部屋を見た。ペンの角度。本棚の整列。カーテンの裾。この完璧さを維持している人間が、朝食の箸の速度を数えている。


 階段を上がる足音がした。


「兄さん」


 深雪が扉を開けた。手にはタオルと、水差しと、畳まれた着替え。扉は、わずかに開いたまま、戻りきらなかった。


「汗をかいていらっしゃいますね。お召し替えをお持ちしました」


 深雪がサイドテーブルに水差しを置き、畳まれたシャツとタオルをベッドの端に並べた。着替えは、じゅんが普段着ているものだった。いつ用意したのか。


 じゅんが着替えを終えると、深雪はタオルを絞り、じゅんの首筋にそっと当てた。


「汗を拭きますね。じっとしていてください」


 温かいタオルが、首の後ろから肩へ、丁寧に滑っていく。じゅんが手を伸ばしかけた。


「自分でやるよ」


「兄さん」


 深雪が微笑んだ。


「看病ですから」


 タオルが首に触れている間、じゅんは動けなかった。


 しばらくして、じゅんが水差しの方へ手を伸ばした。深雪のほうが速かった。コップに水を注ぎ、じゅんの手元に差し出す。


「お水、どうぞ」


「……ありがとう」


 じゅんが水を飲み終えるのを見届けてから、深雪はベッドの縁に座った。椅子ではなく。


「お夕食まで、もう少しかかります。ここにいてくださいね」


 声は柔らかく、お願いの形をしていた。じゅんが部屋を出る理由は、深雪の手で消されていた。拒む理由がどこにもなかった。


「兄さん」


 深雪の声が、半音だけ下がった。


「この部屋に入ったのは、兄さんだけですよ」


 じゅんは深雪を見た。深雪は微笑んでいた。いつもの、穏やかな微笑みだった。


「姉さんも、氷華も、誰も入ったことがありません。兄さんだけです」


 肩に触れた手が、離れなかった。


「ですから——もう少しだけ、ここに」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ、冷たくなった気がした。六月の午後のことだった。




          *




 階段を上がる足音が、聞こえてきた。


 深雪が顔を上げた。足音の主は、わかっていた。


 聖が、扉の前に立った。細く開いたままの扉に、目を留めた。


「深雪、煮込みがそろそろ次の段階よ。火は止めておいたから」


 隙間越しに、聖の目が、部屋の中を一巡した。ベッドに座るじゅん。サイドテーブルの水差しとコップ。タオル。畳まれた着替えの跡。そして——ベッドの縁に座る深雪と、深雪の手が触れているじゅんの肩。


「深雪、これでは軟禁ですよ」


 声は穏やかだった。責めてはいなかった。ただ、名前を呼ぶように、事実を置いた。


 深雪の微笑みは消えなかった。唇の形も、姿勢も、何一つ変わらなかった。


 目だけが、変わった。


 柔らかさの奥にあった光が、一瞬だけ、硬いものに入れ替わった。聖を見ている深雪の目は、微笑みと矛盾していた。


「……看病ですよ、聖」


 深雪の声は、いつも通りだった。


 聖は、それ以上何も言わなかった。深雪の目を、静かに受け止めた。それから、じゅんに向き直った。


「お大事になさってくださいね、朝霧さん」


 聖の視線が、じゅんの顔に一瞬だけ止まった。それからすぐに外れた。


「聖さん、ありがとう」


 じゅんの声は、短かった。


 聖は小さく頷いて、扉の前から離れた。階段を降りる足音。玄関の扉が静かに閉まる音が、遠くから届いた。


 部屋に、二人だけが残った。


 深雪は、扉をしばらく見ていた。膝の上のエプロンの布を、右手の指先が、音もなく押さえていた。


 沈黙が、白い部屋に落ちた。



          *



「深雪」


「……はい」


 じゅんは、白い部屋を、もう一度見渡した。


 本棚の整列。カーテンの角度。埃のない窓枠。カサブランカの香り。昨日の白湯を数えていた指先。朝の箸の速度を測っていた目。学園を迷いなく早退した足。この部屋の完璧な白さを維持し続ける深雪の全部が、ここにあった。


「深雪。よく気づいたね」


 深雪の手が、膝の上で止まった。


「白湯が一杯多いとか、箸の運びが少し遅いとか。深雪にしか、わからなかったと思う」


「……いつものことです、兄さん」


 深雪の声は穏やかだった。穏やかで、揺るぎがなかった。兄を見ることが、息をすることと同じ場所にある人間の声だった。


 じゅんは深雪を見た。微笑んでいた。聖の一言の後でも、深雪の微笑みは消えていなかった。


「深雪の部屋は、静謐で落ち着くな」


 深雪の指が、エプロンの上で止まった。


「……落ち着く、ですか」


 深雪はしばらく黙っていた。微笑みが、変わった。聖がいた時の微笑みとは違う。目の奥まで柔らかだった。


「——いつでも、いらしてくださいね、兄さん。まだ、お茶をお出しする約束がありますから」


 窓の外で、夕暮れが白いカーテンを橙色に染め始めていた。


 深雪はベッドの縁に座り直した。じゅんの額に、もう一度、タオルを当てた。指先が、じゅんの髪に、少しだけ触れた。


 ——この部屋の空気を、兄さんと共有した。


 秒針の音だけが、白い部屋に、静かに落ちていた。

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