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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第二十五話 カレイドフェアリー

 美空が玄関に立ったのは、六時五十分だった。


 生徒会の始業前活動のため、他の姉妹より三十分早い。夏服の初日。スノーホワイトのサマー・ライトブレザーに、ペールバイオレットのストリング・プリズムタイ。ブラウスのボタンは上まで留め、タイの位置は鎖骨の二センチ下、昨夜のうちに鏡の前で確認した通りだった。


「いってきます」


 リビングの方へ声をかけた。じゅんが廊下に出てきた。


 朝の光が、開けた玄関から差し込んでいた。白い制服の上を、柔らかく流れている。


 じゅんが、足を止めた。


「美空、よく似合ってるよ。——『カレイドフェアリー』とは、よく言ったものだ」


 短い間。


 美空の膝が、揺れた。


 かろうじて堪えた。視線が泳ぐ。口が開いたが、音にならなかった。


「大丈夫かい」


 じゅんが一歩踏み出した。美空は体勢を立て直した。背筋を伸ばす。


「はい、……いってまいります」


 背を向けた。急ぎ門を駆け抜けた。ローファーが朝のアスファルトを叩く音だけが残った。


 制服の白い背中が、角を曲がって消えた。



 七時二十分、深雪は弁当の包みを渡し、陽花は駆け足で門を出て、氷華は無言で通り過ぎ、月詠が最後に一礼して消えた。



          *



 聖カレイド学園の朝は、白く華やいでいた。


 衣替え初日。冬のシャンパンホワイトから、夏のスノーホワイトへ。校舎を歩く生徒の制服が一斉に明るくなり、ラベンダーパープルの万華鏡刺繍が朝の光の中で浮き立っている。


 生徒会室。始業前。


 美空はタブレットの画面を見つめていた。文字は頭に入っていなかった。


 ——よく似合ってるよ。


 指が画面の上で止まる。


 ——カレイドフェアリー。


 呼吸を整えた。会長の顔に戻す。戻したつもりだった。


「会長」


 西園寺さいおんじ あかねがファイルを手に、向かいの椅子に座った。涼しい目元が、わずかに弧を描いている。


「今日、衣替え初日。会長の様子がおかしい。朝から」


 美空の手が止まった。


「変数は一つ——家族で会長をこうできるのは、一人だけ」


 茜が、ファイルを机に置いた。


「朝、じゅんさんに何か言われましたね」


 美空の耳が、赤くなった。


「……茜さん。その推理は——」


「当たりですね」


 向かいの席で、榊原さかきばら 真緒まおが目を逸らしていた。書類を持つ手が落ち着かない。


 茜は涼しい顔のまま、次の書類を開いた。



          *



 十時半の休み時間。放送室に向かう柚木 すず(ゆずき すず)の姿を見つけ、茜が足を止めた。


「すずさん。ネタが一つ」


 すずが振り返った。


「会長が朝から壊れてるの。原因は家。以上」


「えっ——それって——」


「あとはご自由に」


 茜は踵を返し、廊下の角に消えた。


 すずはノートを取り出した。ペンが走る。



          *



 十二時十分。昼の校内放送が始まった。連絡事項、曲紹介、すずの声がスピーカーから流れていく。いつもの昼休みだった。


 放送が終わりに差しかかった頃、すずの声のトーンが少しだけ変わった。


「——さて、今日は特別にもうひとつ。他校の生徒も憧れるカレイドフェアリー——聖カレイド学園の衣替え、夏服特集をお届けします」


 夏服のデザインに軽く触れ、学園の華やかさを伝える。声は明るい。


「——最後にひとつ。衣替えした六花のみなさんがとても輝いていて、今日はそれぞれのファンクラブがいつも以上に盛り上がっているようです。中でも、いちばん輝いているのは、もしかすると美空会長かもしれません。朝から、何かいいことがあったみたいですよ? 以上、放送委員の柚木がお届けしました」



 深雪は、図書館にいた。


「……朝から、ですか」


 微笑みの温度が、一段下がった。


 氷華は、教室の窓際にいた。目が開いた。それだけだった。隣の席で、亜麻柳あまやぎ まいのジト目がほんの一瞬だけ氷華を横目に見て、すぐに戻った。


 月詠は、教室の自席にいた。扇子がぱたりと閉じた。


「……衣替え初日。朝。美空姉さまだけ先に登校。兄さまと二人きりの玄関」


 一秒。


 ——なるほど。朝の一分の独占権ですわね。


 陽花は、体育館にいた。一人でバトンを回していた。放送のスピーカーが天井から響く。バトンが手を離れ、床に落ちた。乾いた音が体育館に反響した。


「え? お兄ちゃん、らんらんにだけ何か言ったの?」


 

 美空は、生徒会室で放送を聞いていた。耳だけが赤い。


 茜がにこにこしている。真緒が目を逸らしている。


「茜さん——あなたですね」


 茜は涼しい顔のまま、何も言わなかった。にこにこしているだけだった。



 放送を終えたすずが、スマートフォンを取り出した。宛先は一つ。


「夏凪先輩、今日の放送聞きました? 聞いてないですよね、すみません! 美空会長が朝から大変なことになってます♪」


 既読がついた。返信はなかった。



          *



 夕方。六花円舞曲りっかわるつのリビング。


 美空が最後に帰宅した。


 玄関を開けた瞬間、五つの視線が集まった。


 ソファの正面に、腕を組んで、夏凪が座っていた。外出着のまま部屋着に着替えていない。何も言わない。テーブルの上にスマートフォンが画面を伏せて置いてある。深雪がキッチンの入り口に立ち、穏やかに微笑んでいた。陽花がソファの肘掛けに腰かけ、月詠が正座で扇子を膝に置いている。氷華はソファの端に座り、膝を抱えていた。深雪、氷華、陽花、月詠、皆が制服のままだった。



「……ただいまです」


「おかえりなさい」


 深雪の声は穏やかだった。穏やかなまま、続けた。


「美空。朝、兄さんに何を言われたの?」


「別に——制服を褒められただけです」


「どんなふうに?」


 月詠が扇子の陰から問うた。声に棘はない。興味の光だけがある。


「ずる~い! 私だって今日、夏服なのに!」


 陽花が身を乗り出した。


 氷華は何も言わなかった。膝を抱える腕に、少しだけ力が入った。


 夏凪は、腕を組んだまま視線を窓に向けていた。


「……だから、ただの——」


 玄関の音がした。


 六つの視線が、一斉に動いた。


 鍵が回る。足音。ジャケットを脱ぐ気配。


 じゅんがリビングに入った。


 五人が制服のまま揃っている。美空の耳が赤い。


「……五人とも、制服のままだな。どうした?」


 深雪が、微笑んだ。


「兄さん。おわかりでしょう?」


 じゅんは六つの顔を見た。制服のまま、着替えもせずに。夏凪だけが私服だが、その夏の装いは、いつもと違う組み合わせに見えた。


「——ああ。……ごめん、まだ言ってなかったね」


 深雪の方を向いた。


「深雪、輝いてる。後光が増しているよ」


「……ご冗談を」


 声は穏やかだった。けれど、微笑みの温度が、少しだけ戻った。


「弁当ありがとう。助かった」


 深雪の目が、柔らかくなった。


 氷華の方を向いた。肩からずり落ちかけたサマーブレザーの、そのラインを見て。


「氷華。崩して着ていて、おしゃれだな」


「……楽だから」


「似合ってるよ」


 氷華が立ち上がり、じゅんの隣に移動した。袖を引いた。離さなかった。


 陽花に。


「陽花。今日も、とってもキュート」


「でしょ、でしょ、えへへっ」


 じゅんの手が、陽花の頭に軽く触れた。陽花が目を細めた。


 月詠に。


「夏の月詠は——可憐で、どこのご令嬢かと思った」


 扇子の陰で、口角がわずかに上がった。


「ふふふ。兄さまの頑張りに免じて、今日のところは収めて差し上げますわ」


 夏凪に。


「夏凪は何着ても様になるからな」


「……褒め方が雑」


 夏凪は腕を組んだまま、視線だけを逸らした。



 深雪が場を収め、キッチンに向かった。


 陽花が「お腹すいた!」と叫び、リビングが動き始めた。



 キッチンの手前で、夏凪がグラスに水を注いでいた。じゅんが、隣に立った。


「その袖のライン、新しいな。夏凪のよさを引き立ててる」


 夏凪の指先が、グラスの縁をゆっくりなぞった。


 何も返さなかった。



          *



 夕食後。


 姉妹がリビングに散り、笑い声と会話が遠くなった時間だった。


 美空がダイニングの椅子を整えていた。最後の一脚を机に寄せ、テーブルの上を布巾で拭いている。


 じゅんが戻ってきた。


「美空」


 美空の手が止まった。布巾を握ったまま、振り返る。


「美空は、ボタンを上まで留めて、タイの位置もぴったりで」


 一拍。


「——そうやって着てるから、格好よく見えるんだと思う」


 美空の右手が、眼鏡に伸びた。フレームに指がかかった。外しかけた。


 途中で、止めた。


「……兄さんは、そういうことを——不意に、言うから——困るんです」


 声の最後が、震えた。


 ——朝の言葉だけでも、一日中、頭から離れなかったのに。兄さんは、まだ足りないとでも言うように、今度は——着方を、見ていた。制服を見ていたんじゃない。私を、見ていた。


 美空は布巾を畳み、台所の所定の位置に掛けた。背筋は伸びたままだった。


「……おやすみなさい、兄さん」


 二階への階段を上がっていく。足取りは、いつもより軽かった。

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