第二話 長女の矜持
シャッターの音が止んだ。
スタジオの照明が一段落ち、空気が緩む。カメラマンが「完璧です、朝霧さん」と声をかけたとき、夏凪はすでにポーズを解いていた。黒髪が照明の残光をまとったまま、ゆるく揺れる。
ファッション誌の春号。十二カット、すべてワンテイク。レンズの前に立つ夏凪には淀みがない。視線の角度、指先の置き方、顎の傾き——その一つひとつが正解だった。スタッフの何人かは、息を呑んだまま戻っていない。
「夏凪さん、本日のスケジュールは以上です。タクシーの手配はいかがなさいますか」
マネージャーの如月ベル(きさらぎ べる)だった。端末を手に、必要なことだけを過不足なく告げる。
「いいわ。駅まで歩く。少し風に当たりたいから」
「承知しました」
ベルが一つ頷き、すぐに次の確認へ戻った。夏凪はそれ以上、振り返らなかった。
荷物をまとめ、スタッフに軽く会釈をして、出口へ向かう。背筋は伸びたまま。ヒールの音がスタジオの床に小さく響いた。
外に出ると、春の風が頬に触れた。
午後の光は傾きかけていて、ビルの影が歩道に伸びている。撮影中ずっと張り詰めていた糸が、一歩ごとに緩んでいく。肩から力が抜けた。背筋の角度が、ほんの数度だけ崩れた。
——カメラの前では、絶対に見せない姿だった。
五分歩いて、夏凪は足を止めた。
見覚えのない交差点に立っている。左に曲がったはずなのに、右に曲がっていたらしい。スマートフォンの地図を開いたが、青い矢印が自分の向きと一致しない。画面を傾けた。回した。矢印がくるくる回った。余計にわからなくなった。
溜息が、ひとつ。
撮影中なら迷わない。カメラマンの指示、照明の角度、足元のテープ——すべてが座標として機能する。けれどスタジオの外には、テープも照明もない。方向音痴は、緊張の糸が切れた後に牙を剥く。
交差点の角で立ち止まったまま、夏凪は画面を睨んだ。風が黒髪を攫い、視界にかかる。長女の矜持が、道を訊くことを許さなかった。
「——夏凪?」
声は、横から来た。
じゅんが歩道の向こう側に立っていた。片手にコンビニの袋。もう片方の手がこちらに向かって小さく上がる。
「偶然だな。この辺りに用があって」
偶然。その一語を、夏凪は黙って受け取った。
背筋が戻る。顎がわずかに上がる。崩れかけていた長女の鎧が、一瞬で再装着される。
「……奇遇ね。私もちょうど、駅に向かうところだったの」
声は平静。完璧に。
——ただ、さっきまで地図と格闘していたスマートフォンが、まだ手の中で点灯していた。じゅんの視線がそこに触れたのを、夏凪は見逃さなかった。指摘されなかったことに、耳の先だけが熱くなる。
駅までの道を、並んで歩いた。じゅんが半歩だけ先を行く。その背中が、迷わず角を曲がるたびに、夏凪の喉の奥が小さく詰まった。道を知っている。この辺りの地理を、把握している。「たまたま用があった」人間の歩き方ではなかった。
それでも、何も訊かなかった。
電車に乗った。夕方手前の車内は空いていて、並んで座れた。じゅんとの間に、拳半分の隙間。家では氷華がゼロ距離で陣取るあの隣を、今は夏凪が占めている。それだけのことが、胸の奥で小さく脈を打った。
「今日の撮影、長かった?」
「……十二カット。いつも通りよ」
「そっか。お疲れさま」
それだけ。それだけの会話が、揺れる車内に溶けて消えた。じゅんは何も踏み込んでこない。夏凪も、それ以上を求めない。けれどその沈黙が、不快ではなかった。撮影の後は、誰かに気を遣って話す体力が残っていない。じゅんの隣の静けさだけが、何よりも心地よかった。
窓の外を、春の街並みが流れていく。桜はもう葉桜に差しかかっていて、花びらの残りが風に巻かれていた。
夏凪は窓ガラスに映るじゅんの横顔を見ていた——ふりをして、考えていた。
じゅんの仕事場は、ここではない。
知っている。長女だから。家族の拠点は全部把握している。スタジオの周辺に、じゅんが「用がある」場所は思い当たらない。コンビニの袋だけが手にある。用事というには、あまりに軽い。
では、なぜ。
記憶が、スタジオの光景に巻き戻る。
——ベル。
「本日のスケジュールは以上です」。あの後、端末を操作していた。次の予定の確認だったのかもしれない。ただ、じゅんの現れ方は、あまりに出来すぎていた。
夏凪の指が、膝の上で小さく握られた。
偶然ではないのかもしれない。
その考えが胸をよぎった瞬間、心臓がひとつ余計に打った。
問い詰めることはしない。じゅんが用意した「偶然」を、壊したくなかった。
それが長女の矜持なのか、別の何かなのか——夏凪は、自分に訊かなかった。
——もしこれが、迎えに来てくれたのだとしたら。
窓ガラスの中のじゅんの横顔がぼやけた。
夏凪は黙ったまま、窓の外を見続けた。
拳半分の隙間を、縮めも広げもしなかった。
六花円舞曲の最寄り駅で降り、住宅街を並んで歩く。西日が二人の影を長く伸ばしていた。並んだ影が、ほんの少しだけ重なっている。
どちらも急がなかった。家に着けば二人の時間は終わる。それを、互いに知っている。知っていて、歩幅を変えない。
門が見えてきた。あと数十歩。
じゅんがコンビニの袋に手を入れた。
「そういえば。スタジオの近くに寄ったから」
差し出されたのは、無糖ストレートティーだった。夏凪が好きな銘柄。
スタジオの近くに寄った。だから買った。偶然の延長線。建前は、まだ崩れていない。
けれど夏凪の好みを正確に選んでいることが、その裏側を静かに語っていた。
胸の奥が先に熱を持った。
何でもないふうを装って、受け取った。冷たい容器の表面に、指先の熱が小さな曇りを作った。
「……ありがと」
返す言葉を探す前に、じゅんが空を見上げた。
「二人で帰るの、久しぶりだな」
——足が、止まった。
半歩。たった半歩、歩幅が乱れた。それだけのことを、夏凪は髪を耳にかける仕草で隠した。視線を逸らす一瞬を、指先で埋めた。
「……別に、偶然でしょう」
言い切った直後、容器を持つ指先にだけ力が入りすぎた。声は、震えなかった。震えさせなかった。
じゅんは否定も肯定もせず、ただ微笑んだ。
門が開く。玄関のドアに手がかかる。この先には五人の妹がいて、「二人だけの帰り道」は終わる。
夏凪は、右手に容器を持ったまま家に入った。
その夜。自室のテーブルに、容器を置いた。
開けた。一口飲んだ。置いた。
——もう一度、手に取った。
「二人で帰るの、久しぶりだな」
その一言だけが、夜になっても、妙に近かった。
手の中の容器が、帰り道の温度をまだ覚えていた。




