第一話 六つの花、咲き乱れて
階段を駆け下りる足音が、一つ、二つ、三つ——。
最初に姿を見せたのは、夏凪だった。
艶のある黒髪ストレートが、階段の曲がり角でふわりと弧を描く。パジャマ姿でさえ様になるのは、この長女の体質のようなものだ。
——ただし、最後の三段で、スリッパの端を段差に引っかけた。
「っ——」
つんのめりかけた身体を、壁に手をついて寸前で立て直す。ダイニングにいたじゅんの視線が、一瞬だけそちらへ向いた。
「……おはよう、夏凪」
「——おはよう。長女が一番遅いわけにはいかないでしょう」
声は平静を装っている。背筋は伸び、顎はわずかに上がっている。長女の矜持。けれど、耳の先だけが薄く朱に染まっていた。じゅんはそれを見逃さない。見逃さないが、指摘もしない。
「コーヒー、もう一杯淹れようか」
「……いただくわ」
じゅんがキッチンへ立つ。その背中を、夏凪の視線が追った。追ってしまったことに気づいて、ぱっと顔を逸らす。
カップを手渡すとき、じゅんの指先が夏凪の指にわずかに触れた。ただそれだけのことで、長女の喉が小さく鳴る。
「……ありがと」
声が、ほんの半音だけ高い。
二番目の足音は、足音ではなかった。
何かを引きずるような——布が床を擦る音が、階段の上からゆっくりと近づいてくる。
氷華だった。
特大の毛布にくるまったまま、一段一段、慎重に階段を降りてきた。銀がかった淡い髪が毛布の隙間からのぞき、透き通るようなライトブルーの瞳だけがこちらを向いている。パジャマの上に毛布。その上にクッション一つ。完全装備だった。
ダイニングに到着すると、一言も発さないまま、じゅんの隣——正確には、じゅんとの隙間がゼロになる距離に座り込んだ。毛布からはみ出した手が、じゅんの袖を掴む。
「……おはよう、氷華」
「……おはよう」
声は、まだ夢の残響を引きずっていた。朝に弱い。寒がりで、猫舌で、人見知りで——けれど、じゅんの隣だけは例外だった。
「まだ眠い?」
「……眠い。けど、ここがいい」
たった二語。けれどそこに含まれた甘えの密度を、夏凪は正確に察知した。カップを持つ手に、無意識に力が入る。
じゅんは氷華の頭に軽く手を置いた。撫でるのではなく、ただ、置く。それだけで氷華の肩から力が抜けるのを、彼は知っていた。
毛布の中で、氷華の口元がほんの少しだけ緩んだ。本人は毛布で隠しているつもりだった。
三番目の足音は——どすん、と。階段のどこかで誰かが跳ねた音だった。続けて、それを叱る声。階段の壁が微かに振動している。年少組が動き始めたらしい。
足音の喧騒が過ぎて、キッチンから声がかかった。
「兄さん。朝食の準備ができました」
深雪だった。
純白の銀髪を丁寧にサイドへ流した三つ編み。クリムゾンの瞳に、穏やかな微笑み。制服の上にエプロンという姿で、両手には湯気を立てる皿が二枚。誰よりも早く起き、身支度も朝食の仕込みも、すでに終えている。足音よりずっと前から、包丁の音がこの家の朝を刻んでいた。
「深雪、おはよう。今日も早いね」
「おはようございます、兄さん。……いつものことです」
じゅんの前に皿を置いた。和食の朝食——焼き鮭、出汁巻き卵、味噌汁、炊き立てのごはん。どれも丁寧に盛り付けられている。
続けて、夏凪の前にも同じ構成の皿を並べた。
——ただし、じゅんの皿の方が、卵焼きの切り口が完璧に揃い、鮭の身はひと回り大きく、味噌汁の具材が明らかに多かった。
じゅんは自分の皿に目を落とした。指摘はしない。深雪が困るからではない——指摘しても、明日も変わらないと知っているからだ。
夏凪が無言で自分の皿とじゅんの皿を見比べた。視線がじとりと細くなる。
「成長期の妹より、お仕事で疲れている兄さんに栄養を摂っていただきたいだけです」
深雪の微笑みが、一ミリも動かなかった。
やがて、階段を降りてくる足音が重なった。陽花の全力の駆け足と、美空の整った靴音が、ほぼ同時に一階へ到着する。
「お兄ちゃんっ、おっはよーー!!」
「陽花、廊下を走らないの! ——兄さん、おはようございます」
陽花が着地した衝撃で、テーブルの食器がかたかたと揺れた。美空は制服を整えていたが、髪だけがまだ途中だった。
その視線が、まず氷華の位置に止まる。次に、じゅんの袖を掴んだまま離さない手元に落ちる。そして夏凪と深雪の表情を順に見て——美空の眉が、ぴくりと動いた。
——と、そのとき。ダイニングの入口で、澄んだ声がした。
「ふふ、策は万全ですわ」
直後、小さく「あっ」という声。何かが破綻したらしい。
一拍の沈黙。そして、月詠がダイニングに踏み込んできた。
「——兄さまの隣は、わたくしが——」
「ちょっと月詠、そこは順番でしょ!?」
「お兄ちゃん!」
「……兄さん、味噌汁、冷めます」
「兄さん。まず席順を整理しましょう」
「……お兄、ここ」
六つの花が、いっせいに咲いた。
朝食のテーブルは、今日も平和に始まろうとしていた。




