第三話 いつものことです
包丁の音が、午後のキッチンを刻んでいた。
とん、とん、とん。一定の間隔。迷いのない手つき。深雪の指先が大根に触れ、薄く、均一に、桂剥きの帯が途切れなく伸びていく。朝から動いていた。このキッチンに、もう五時間立っている。
近くの商店街で、開店直後の鮮魚店に寄った。目当ては鯛ではない。鯛の隣に並んでいた鯵だ。朝獲れ、目が澄み、鰓が鮮やかな赤——店主が値札をつける前に、深雪はもう三尾を選び終えていた。旬の走りで、まだ値が落ちきっていない。けれど鮮度なら、どの高級店にも負けないと指先が知っている。
八百屋では筍を手に取り、爪で軽く押して繊維の密度を確かめた。春の名残を抱いた小ぶりの一本。隣の大きなものより百円安い。だが皮を剥いたときの実の詰まり方は、こちらの方が上だった。
値段ではない。深雪が買うものは、いつも、鮮度と質で選ぶ。
——深雪、それは愛情ではなく執着よ。
白瀬 聖の声が、ふいに指先に蘇った。昨日の学園でのことだ。穏やかな声だった。責めるのではなく、ただ映し出すように。深雪が何と答えたか、自分でも覚えている。
——……執着でも、構いません。
包丁が、一拍だけ止まった。大根の断面に、刃が触れたまま動かない。
構わない。兄さんのために手を動かすことが執着だと言うなら、この手はとうに染まっている。この包丁の音も、出汁を引く時間も、盛り付けのたびに指先が震える感覚も。全部。
刃が、再び動き始めた。さっきより、少しだけ丁寧に。
午後三時を過ぎた頃、キッチンは完全に深雪の領域になっていた。
一番出汁は昆布と鰹節で引いた。昆布を水に浸してから六十分、沸騰の直前で引き上げ、鰹節を入れてから火を止めるまで、深雪は一度もキッチンを離れなかった。二番出汁は煮物用に仕立て、鯵は三枚におろし、一尾分だけ別の皿に取り分けてある。筍は米糠で下茹でを終え、薄い琥珀色の出汁に浸かっている。椀物の百合根は、一枚ずつ丁寧に剥いて、傷のあるものを弾いた。
七人分の夕食。先付、椀物、向付、焼物、煮物、酢の物、ご飯、水菓子——品数は八つ。休日の、少しだけ特別な食卓。けれどこの品数を一人で仕上げる手際に、迷いはなかった。段取りは前夜のうちに頭の中で組み終えている。
ただし、一人分だけ、工程が違う。
鯵の向付。六人分は薄造りに引く。じゅんの分だけ、昆布締めにした。昆布で挟んで二時間。身が締まり、旨味が一段深くなる。手間としてはほんの一手間。けれどその二時間を、他の誰のためにもかけたことはなかった。
焼物の銀鱈は、じゅんの切り身だけ西京味噌に漬ける時間を三十分長くした。筍の煮物は、じゅんの椀にだけ木の芽を一枚多く添える。
並べてみなければわからない差だった。目に見える贅沢ではない。見えないところに、時間を埋めている。
「……深雪姉さん」
美空がキッチンに入ってきたのは、四時を回った頃だった。洗濯物を畳み終えたらしく、タオルを抱えている。
美空の視線が、調理台の上を一巡した。並んだ皿。八つの品数。そして——一人分だけ、盛り付けの密度が違う向付の皿。昆布の繊維が薄く透けた鯵の身が、他の六皿にはない光沢を帯びている。
美空は何も言わなかった。小さく息を吐き、タオルを棚にしまい、キッチンを出ていった。その背中に、深雪は穏やかに声をかけた。
「美空、洗濯ありがとう。助かりました」
「……いつものことです」
振り返らない声に、諦めと理解が半分ずつ混じっていた。
午後六時。食卓に、七つの膳が並んだ。
深雪が一つひとつ配膳していく。箸の向き、椀の位置、小鉢の角度。すべてが、数ミリの狂いもなく揃っている。じゅんの前に膳を置くとき、深雪の手が一瞬だけ長く止まった。向付の皿の位置を、ほんの少しだけ直す。他の誰にも見えない調整だった。
六花円舞曲の夕食は、普段ならもう少し騒がしい。けれど今日は、誰も席で声を上げなかった。夏凪が黙って座り、氷華がじゅんの隣ではなく、深雪の示した席に静かに収まった。陽花が口を開きかけ、隣の美空に袖を引かれる。月詠は、いつもの策略的な微笑みではなく、ただ静かに箸を手に取った。
朝からキッチンに満ちていた気配を、全員が知っていた。包丁の音、出汁の香り、深雪が一度もキッチンを離れなかったという事実。それが、言葉にならない重さとして食卓を包んでいる。
深雪本人は、穏やかに微笑んでいるだけだった。
じゅんが箸をつけた。鯵の向付を口に運び、一瞬だけ目を閉じる。
月詠が自分の皿から一切れ食べ、それからじゅんの皿を一瞥した。刺身の色が違う。透明感の奥に、昆布の薄い琥珀が透けている。月詠は視線を戻し、何も言わなかった。箸を動かし続けた。いつものことだった。
食後、姉妹たちが一人また一人とリビングへ移っていく。陽花の笑い声が遠くから聞こえた。氷華が毛布を引きずる音が、階段の方へ消えていった。
深雪はキッチンに残った。流しに水を張り、食器を静かに重ねていく。じゅんの膳を、最後に下げた。
「深雪」
声は、背中にかかった。じゅんがキッチンの入口に立っていた。
「おいしかった、ありがとう。鯵、昆布締めにしてあったね」
深雪の手が、水の中で止まった。
「……お気づきでしたか」
「朝からキッチンにいただろう。出汁の匂いがしていたし、筍の下茹では時間がかかる」
じゅんは深雪の隣まで来て、ほうじ茶の湯呑を流しに置いた。食後に深雪が淹れた一杯。並んで立つと、深雪の肩がじゅんの腕にほとんど触れる距離になる。
「ありがとう。深雪の料理が、一番落ち着く」
水音が、止まった。
「……一番、ですか」
声は穏やかだった。いつもと変わらない、柔らかな響き。ただ、唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。
じゅんの手が、深雪の肩に軽く触れた。ほんの一瞬。頑張りすぎるな、と言葉にはしない気遣いが、掌の温度だけで伝わった。
深雪は微動だにしなかった。微笑みも、姿勢も、水に浸した指先も、何一つ動かなかった。
「いつものことです、兄さん」
じゅんはそれ以上何も言わず、キッチンを出ていった。
足音が遠ざかる。リビングから陽花の声が聞こえ、美空が何かを叱り、月詠が笑っている。日常が、扉の向こうで回っている。
深雪はひとりきりのキッチンで、食器を洗い始めた。
六人分の箸を先に洗った。姉妹たちの小鉢を、一つずつ。椀を、皿を、順番に。
じゅんの箸が、最後に残った。
手に取る。水に通す。指の腹で、ゆっくりと拭うように洗う。
——一番。
その二文字が、離れなかった。
蛇口を閉め、手を拭いた。食器を棚に戻し、台を拭き、調理台の上を元通りに整えた。すべてが完璧に片づいたキッチンで、深雪はしばらく動かなかった。
微笑みが、消えなかった。誰も見ていないキッチンで、誰に向けるでもない微笑みが、深雪の唇に残り続けていた。
蛇口の先から、水滴が一つ落ちた。
静かな音が、キッチンに響いて、消えた。




