第二十四話 月と陽のあいだ
昼休みの校内放送が、教室のスピーカーから流れた。
柚木 すず(ゆずき すず)の声だった。放送室のマイクに向かって、原稿を読んでいる。声が弾んでいた。
「中間試験の結果をお伝えします。まず中等部三年——学年トップは、朝霧 月詠さん! 前々回ぶりです! おめでとうございます!」
教室で、月詠は扇子を手にしたまま、微笑んでいた。周囲の拍手が鳴る。付箋の色分けされたノートを閉じ、軽く頭を下げた。
二位との差は三点。毎回の試験で、月詠は常に三位以内にいる。今回は、その頂点だった。
放送は続いた。
「続いて高等部三年——一位は西園寺 玲さん、二位は朝霧 深雪さん! また、前回と入れ替わりました!」
毎回、この二人は首位を競い合う。僅差の攻防が続いている。
教室で、深雪は成績表を両手で丁寧に持ち上げ、鞄にしまった。二位であることに、表情は動かなかった。兄にふさわしい自分であること。それが深雪の尺度であり、順位はその結果でしかない。鞄の口を閉じる指先が、いつもより少しだけ丁寧だった。
同じ学年の別の教室で、氷華が机に頬杖をついていた。成績表は、机の端に置かれている。順位は七位。氷華はその数字に一度も目を留めなかった。近くの生徒がちらりと見て、小さく息を呑んだ。ほとんど教科書を開かない氷華が、七位。
高等部二年の教室では、美空が成績表を確認し、小さく頷いた。十一位。
中等部三年の別の教室で、陽花が成績表を広げて、声を上げた。
「やったー! 赤点なし! 全部、赤点なし!」
真ん中より少し下。百七十人中、九十二番。前回より十番上がっていた。
放課後。月詠は、まっすぐ帰宅した。
策は朝のうちに組み上がっていた。
姉たちの帰宅時間は把握している。夏凪は大学のレポートで遅い。深雪は文芸部経由で夕方。氷華はクラスメートとお祝いにパフェを食べにいく。美空は生徒会で遅くなる。
陽花と月詠は中等部なので帰りが早い。じゅんの帰宅は、次に早い深雪より前になる。陽花は自室でおやつを食べているか、テレビを見ている。つまり、じゅんがリビングに入ったとき、正座して待ち構えている人間は、月詠だけになる。
一番に、学年トップを報告する。
策の設計に、隙はなかった。
月詠はリビングに正座していた。制服のまま。スカートの皺を直し、髪を整え、背筋を伸ばした。扇子は膝の上に畳んで置いてある。
報告の台詞は決まっていた。三通り用意し、最も自然なものを選んだ。
「兄さま、ご報告がございますの」
——ここで一拍、間を取る。じゅんが「何だい」と返す。それから、控えめに、けれど誇らしく。
「中間試験、学年一位をいただきました」
声の高さも、目線の角度も、設計済みだった。
玄関の鍵が鳴った。
月詠は微笑んだ。
——直後、足音が響いた。
「お兄ちゃーーん!!」
陽花だった。階段と廊下を全力で走り、玄関に突進していく。音が遠ざかった。
月詠の背筋が、ほんのわずかに硬くなった。
——想定外、でも許容範囲。
陽花が玄関に飛び出すことは、知っていた。毎日のことだ。じゅんが帰れば陽花は走る。知っていたのに、変数から外していた。姉たちの帰宅時間、じゅんの動線、すべてを精密に設計して——日常的すぎるこの習慣だけを、軽く見ていた。
玄関から、陽花の声が弾けている。
「おかえりお兄ちゃん! あのねあのね、今日——」
陽花が何かを報告しているらしかった。声は大きいが、リビングからでは言葉の一つ一つまでは聞き取れない。今日あったことを、まとめて話しているようだった。陽花の声はいつもそうだ。全部が混ざって、ひとかたまりの歓声になる。
月詠は姿勢を崩さなかった。陽花がじゅんを玄関で迎えるのは、いつものことだ。報告の場はリビング。玄関での出迎えと、リビングでの正式な報告では、格が違う。月詠は、このリビングで、一番に伝える。
足音が近づいてきた。じゅんと陽花が、並んでリビングに入ってくる。
「お兄ちゃん、今日のおやつ何かなー」
「冷蔵庫に深雪が何か入れてたよ」
「やったー!」
陽花がキッチンへ駆けていった。
じゅんがリビングに入る。正座した月詠を見た。目が合った。
「月詠、どうしたんだい?」
穏やかな声だった。
月詠の唇が、扇子の陰で弧を描いた。
「兄さま、ご報告がございますの」
用意した台詞が、設計通りに口から出た。一拍、間を取る。
「中間試験、学年一位をいただきました」
じゅんの目が、少しだけ広がった。
「一位か。すごいな、月詠」
「ありがとうございます、兄さま」
月詠は微笑んだ。じゅんの声は温かく、驚きの色もあった。一番に報告できた。扇子を握る指が、静かに緩んだ。
じゅんが月詠の前に来て、頭に手を置いた。軽く、一度だけ。
「努力してたもんな。おめでとう」
月詠の睫毛が、一度だけ伏せられた。頭に触れた手の温度が、心地よかった。
夕食前のリビングに、全員が揃った。
じゅんがテーブルに紙袋を置いた。全員分の好物。深雪には高級バニラアイス、氷華には猫の形のクッキー、美空には紅茶のマドレーヌ、陽花にはチョコレートの詰め合わせ、月詠には和三盆の干菓子。夏凪には、さりげなく一番大きなシュークリームが渡された。
「今回も、みんなよく頑張ったな」
「別に、私は大学生だから関係ないけど」
夏凪がシュークリームの箱を受け取りながら言った。視線はじゅんから離れなかった。
深雪がアイスを丁寧に両手で受け取った。「兄さん、ありがとうございます」。穏やかな声だった。
「美空、生徒会の仕事もあるのに大したもんだ」
美空の頬が薄く色づいた。「……当然です」。マドレーヌの箱を揃えて持つ指先が、わずかに震えていた。
氷華がクッキーの箱を開けもせず、じゅんの隣に座った。
「氷華、本気出したら一位取れるんじゃないか」
「……いらない」
氷華は箱をテーブルに置いた。クッキーではなく、じゅんの袖に指を添えた。
「勉強会がなくなると困る」
じゅんが小さく笑った。
陽花がチョコレートの箱を開け、一粒を口に放り込んだ。
「おいしい! お兄ちゃんありがとう! 赤点なかったよ! 全部!」
「頑張ったな、陽花」
じゅんが陽花の頭に手を置いた。陽花が目を細めた。
月詠は和三盆の箱を開け、一つを摘んだ。甘さが舌の上で溶ける。策は成功し、ご褒美の時間が来た。扇子の陰で、月詠は満足の息を漏らした。
*
夜。三階の廊下。
陽花と月詠が並んで歩いていた。それぞれの部屋に向かう、いつもの時間。
陽花が腕を後ろに組んで、天井を見上げた。
「ねー、つくつく」
「何ですの、陽花さん」
「うれしくて、玄関でお兄ちゃんに言ったんだ。つくつくがね、学年で一番だったんだよー!って」
月詠の呼吸が、一拍止まった。廊下の真ん中に立ったまま動けなかった。
玄関の出来事を思い返す。陽花の声は聞こえていた。大きな歓声と、いろいろな報告が混ざった声。月詠のいるリビングからは聞き取れなかった。
——知っていた。兄さまは、知っていた。
じゅんの顔を思い出す。リビングに入ってきたときの、あの穏やかな声。「月詠、どうしたんだい?」。驚きの色。「一位か。すごいな」。
全部、演技だった。
策は完遂されていなかった。月詠が一番に報告したのではなく、陽花が一番に伝えていた。じゅんは知っていて、知らない振りをして、月詠の報告を初めて聞くかのように受け取ってくれた。
月詠の指先が、スカートの布を掴んでいた。
「……陽花さん」
「うん?」
「陽花さんは、自分が何をしたのか、わかっていますの?」
「え? 何かした?」
陽花が首を傾げた。本当にわかっていなかった。月詠の策を壊したとも、じゅんの演技を暴いたとも思っていない。玄関でいろいろ報告した。その中に月詠の一番もあった。それだけのことだった。
月詠は、小さく笑った。策士の笑みではなかった。
「いいえ。何もしていませんわ。——おやすみなさい、陽花さん」
「おやすみー、つくつく! 今日すごかったね、一番!」
陽花が自分の部屋のドアを開けた。振り返って手を振り、ドアが閉まった。
陽花は部屋に入り、ベッドに座った。
チョコレートの箱を膝の上に置いて、二粒目を口に含んだ。甘かった。今日の夕食も美味しかった。ゆきりんのハンバーグ。お兄ちゃんが全員分の好物を買ってきてくれた。赤点がなかった。つくつくが一番だった。
——つくつくが一番。
陽花は窓の外を見た。夜空に、星がいくつか見えた。
生まれるとき、つくつくに脳ミソたくさんもってかれたんだ。陽花はそう思っていた。双子なのに、つくつくは常に学年のトップにいて、自分は真ん中あたりにいる。悔しいかと聞かれたら、悔しくはなかった。そういうものだと思っていた。つくつくは頭がよくて、自分はバトンが回せる。それだけのことだった。
じゅんの声が、ふと蘇った。いつだったか忘れたけれど、練習の帰り道だった。陽花が「生まれるとき、つくつくに脳ミソたくさんもってかれたんだー」と笑ったとき、じゅんは笑わなかった。
「よく考えてごらん。陽花と月詠が一緒だと、二人で三人分以上の活躍ができるよ」
じゅんが笑わなかったことは覚えている。真面目な顔をしていた。
三人分以上。月詠と陽花。足したら二人で、それだけなら普通だ。でもお兄ちゃんは「三人分以上」と言った。一緒だと、足し算じゃなくて、もっと大きくなる。
——そっか。
陽花は天井を見て、笑った。
今日、つくつくが一番だったことが嬉しかった。自分が赤点じゃなかったことも嬉しかった。
「ありがとう、お兄ちゃん」
声に出した。誰もいない部屋で。
三粒目のチョコレートを口に入れた。甘い。明日の体育、バトンの新しい技をもう一回やろう。つくつくに見せたいな、と思った。
体育やダンスでは、陽花は中学生離れした身体能力を示す。同学年の誰よりも高く跳び、誰よりも正確にバトンを操る。断トツだと朝日先生が言っていた。身体が考えるより先に動く。それは月詠にはできないことだった。そして月詠にできることは、陽花にはできない。
——三人分以上。
つくつくと二人で、三人分以上。陽花はベッドに横になり、チョコレートの箱を枕元に置いた。
瞼が重い。今日も、いい一日だった。
月詠は、自分の部屋のドアを閉めた。
間接照明が、和モダンの部屋を静かに照らしている。
扇子を机の上に置いた。椅子に座った。
——兄さま、相変わらず役者ですわ。
策は、成功していなかった。
一番に報告したのではなかった。陽花が先に伝えていた。じゅんはそれを聞いた上で、リビングに入り、月詠の顔を見て、何も知らない顔をしてくれた。
陽花が玄関に走ることは、毎日見ていた。知っていたのに、策の変数に入れなかった。姉たちの予定を精密に読んで、日常を軽視した。月詠らしい失敗だった。
けれど——
じゅんは合わせてくれた。
いつも、月詠の問いかけをかわすのが上手い人だ。月詠が仕掛けるたびに、柔らかくすり抜けていく。古文の出題傾向を聞いても「カンニングだろう」と笑い、茶葉の買い足しに付き合ってくれても策の核心には触れない。月詠の先にいて、手の届かない距離を保っている。
なのに今日は、月詠に合わせてくれた。報告を、初めて聞く顔で受け取ってくれた。
策では辿り着けない場所だった。陽花が想定外の動きをしなければ、気づけなかったじゅんの一面だった。
月詠は机の引き出しから日記帳を取り出した。藍色の表紙。万年筆のキャップを外す。
『陽花さんが玄関で、兄さまに全てお伝えしていました。私はそれを知りませんでした。つまり、策は成功していませんでした。
凡ミスです。陽花さんが玄関に走ることは、毎日見ていたのに。姉さま方の動きを読むことに集中して、一番身近な日常を見落としていました。
兄さまは知っていました。知っていて、知らない振りをしてくださった。
——でも、兄さまが私に合わせてくださっていたことを知りました。いつも私のほうが追いかけているのに、今日は兄さまのほうが歩幅を縮めてくださっていた。
策では手に入らないものでした。
……なぜかしら、こういうことが時々ある。策が外れた先に、策では辿り着けない場所がある。でも、今夜は——それでよかったと思います』
万年筆のキャップを戻した。
扇子を手に取り、開きかけて——やめた。閉じたまま、胸元に当てた。
策士の道具を、今夜は使わない。
間接照明が、月詠の頬を照らしていた。その頬は、少しだけ赤かった。




