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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第二十三話 教えて、じゅん先生

 ダイニングの大テーブルに、教科書が六冊、並んでいた。


 中間試験四日前。「教えてじゅん先生の日」の二日目。


 三年前、当時高校生だった夏凪に、じゅんが「勉強、見ようか」と声をかけたのが始まりだった。翌日には深雪がノートを持って現れ、その翌日には残りの四人も揃っていた。以来、試験五日前と四日前の夕方は、朝霧家のダイニングが自習室になる。年に五回の定期試験。二日ずつ。今ではこの家の暦に刻まれた行事だった。


 十七時。


 テーブルの上座にじゅんが座っている。右隣に氷華。その事実は、もう誰も争わなかった。昨日の初日に争った結果がこれで、二日目の今日は既成事実として固まっている。氷華の教科書は、閉じたままテーブルの上に置かれていた。


 じゅんの左隣では、陽花が数学の問題集と格闘していた。


「お兄ちゃん、これ、解き方はわかるんだけど、なんでこの式を二つに分けるのかがわかんない」


「どれどれ」


 じゅんが問題集を引き寄せた。二次方程式の因数分解。解の手順は書かれているが、途中で止まっている。


「陽花、この式、掛けたら12で足したら7になる組み合わせ、見つけたんだろう」


「うん、3と4。でもなんで掛け算と足し算の両方が関係あるの? 別のことじゃない?」


「そうだね。——長方形を描いてみるよ。xに3を足した長さと、xに4を足した長さで長方形を作る。これを分けると、辺の長さがxの正方形が一つ、辺の長さが3とxの長方形、4とxの長方形、それから3と4の長方形ができる。だから、x+3とx+4とを掛けた長方形は、xの二乗の正方形と、3掛けるxと4掛けるxの二つの長方形、さらに3と4を掛けた長方形をみんな合わせたものと同じになる。一つの長方形の中に、掛け算と足し算が両方住んでるんだよ」


 陽花も、ノートの隅に長方形を描いた。縦にx+3、横にx+4と書いて、分けて見比べた。


「あ——住んでる! 同じ長方形の中に両方いる!」


「そう」


「お兄ちゃん天才!」


「天才なのは因数分解を考えた人だよ」


 陽花がもう一度問題に向き合った。今度はペンが動いている。


 テーブルの向かい側で、美空が自分の問題集から顔を上げた。


「兄さん、私の世界史を見ていただけますか」


「美空、自分でわかるだろう」


「……確認です。確認は大切です」


 美空の問題集には、すでに赤ペンで丸がついていた。教わる口実だった。眼鏡の奥の視線が、わずかに泳いでいる。


「あとでな」


「……はい」


 美空はペンを持ち直した。頬が、ほんの少しだけ色づいていた。


 深雪は、テーブルの角に座り、文庫本サイズの古文単語帳をめくっていた。いつの間にかじゅんの手の届く位置に、湯気の立つほうじ茶が一つ置かれている。


「兄さん、お茶が冷めますよ」


「ああ、ありがとう」


 じゅんが湯呑を手に取った。深雪の目が、その動作を、二秒だけ追った。それから単語帳に視線を戻す。ページをめくる指の動きは、一定のリズムを崩さなかった。


 月詠は、テーブルの端に扇子を畳んで置き、ノートを広げていた。月詠の教科書には付箋が整然と並んでいる。色分けは五色。質問がないのは明らかだった。


「兄さま」


「うん」


「古文の設問に、月の歌が出題されるとしたら、何が狙われるでしょう」


「月詠が聞くと、カンニングみたいだな」


「名前で答えが出るなら、甲斐がありますわ」


 月詠の唇が、扇子の陰で弧を描いた。じゅんが小さく笑い、「在原業平の月やあらぬ、あたりじゃないか」と返した。月詠が付箋を一枚、めくった。同じ歌が書かれていた。


「兄さまと趣味が合いますの、嬉しいですわ」


「趣味じゃなくて出題傾向だよ」


 月詠は、聞こえなかったふりをした。



 テーブルから少し離れた場所——ダイニングとリビングの境目にある椅子に、夏凪が座っていた。


 膝の上には大学のテキスト。現代美術論。ページは、三十分前から同じところが開いている。


 夏凪は卒業した。聖カレイド学園の制服はもう着ない。教えてじゅん先生の日に、参加する理由はない。


 それでも、毎回、ここにいる。


 テキストを広げて、自分も勉強しているという体裁を取っている。端の椅子を選んでいるのは、テーブルの中に入ると「参加者」になるからだった。長女は妹たちの勉強会を見守っている。その建前が、夏凪の最後の一枚だった。


「——ねぇ、誰か大学生に個人指導してくれる人、いないかしら」


 夏凪が、誰に言うでもなく呟いた。毎回言う台詞だった。


 美空が顔を上げた。「夏凪姉さん、大学の学習支援センターがあるはずです」


「あんなの使わないわよ」


 深雪が、単語帳のページをめくる手を止めずに、微笑んだ。


 夏凪の肩が、かすかに跳ねた。深雪は何も言っていない。微笑んだだけだ。それなのに、夏凪にはその微笑みの意味がわかった。テキストのページを、意味もなくめくった。



 十八時を過ぎた頃、じゅんが話し始めた。


 陽花の数学が一区切りついて、美空の世界史の確認も終わり、テーブルの空気が少しだけ緩んだ隙間だった。


「素数の話、昨日の続きだけど」


 全員の手が、止まった。


 じゅんが素数の並びの不思議を語り始めた。規則がありそうで、ない。偶然のように見えて、でも何かが隠れている。数学者たちが何百年もかけて追いかけている謎。


 陽花が目を丸くして聞いている。月詠が扇子の陰で頷いている。深雪が単語帳を閉じた。美空がペンを持つ手を止めた。


 氷華は、教科書を閉じたまま、じゅんの横顔を見ていた。話の内容ではなく、話しているじゅんの声を、聞いていた。


 夏凪のテキストが、いつの間にか閉じていた。膝の上で両手を組み、じゅんの声に耳を傾けている。端の椅子に座ったまま、体だけがテーブルの方を向いていた。



 十九時。


 深雪が夕食の支度に立った。「あと三十分で、お夕食にしましょうね」。その一言で、勉強会の終わりが告げられた。


 陽花がノートを閉じ、大きく伸びをした。「お兄ちゃん、明日からも頑張る!」


「わからなかったら、いつでもリビングにおいで」


「うん!」


 美空が問題集を揃え、月詠が付箋の整理を始めた。椅子が引かれ、足音が散っていく。



「夏凪」


 じゅんが、端の椅子の方に声を投げた。


 夏凪はテキストを膝の上に置いたまま、動いていなかった。


「おつかれさま」


「……様子を見に来てるだけよ」


「そうか」


 じゅんが、最後の一冊をテーブルの端に置いた。それから、夏凪の方を見た。


「これからも、席を空けとくよ」


 夏凪の指が、テキストの角を掴んだ。


 来年。再来年。夏凪が何歳になっても、この家のダイニングには夏凪の椅子がある。じゅんはそう言った。


「……当たり前でしょう」


 声が、かすれた。長女の声ではなかった。


 ——ずるい。こういう言い方をされると、長女にもどれない。


 じゅんはそれ以上何も言わなかった。立ち上がり、キッチンの方へ歩いていく。深雪の包丁の音が、規則正しく聞こえ始めていた。


 夏凪はテキストを抱えて、椅子から立ち上がった。リビングのソファに移動し、テキストを開いた。同じページだった。



          *



 姉妹が去ったダイニングに、一人だけ残っていた。


 氷華が、テーブルの上座——じゅんの隣の席に、まだ座っていた。


 教科書は、今日も一度も開かれなかった。ペンケースのジッパーも、閉じたまま。テーブルの上に、氷華の勉強の痕跡は何もなかった。


 じゅんがキッチンから戻ってきた。ダイニングを横切ろうとして、氷華の姿に気づき、足を止めた。


「氷華。終わったよ」


「……知ってる」


「明日からは自分の部屋で、わからないところがあったら——」


「ない」


「じゃあ、なんでまだここに」


 氷華が、閉じたままの教科書の上に、頬を載せた。銀髪が、テーブルの上に静かに広がる。ライトブルーの目が、じゅんを見ていた。


「……聞いてた。お兄の声」


 氷華の指が、教科書の背表紙を撫でた。教科書に用はない。この教科書が置かれていた場所に、用がある。


「……次、いつ」


「期末前かな」


 氷華が、小さく頷いた。頬を教科書に載せたまま、目を閉じた。


「……待ってる」


 ——ずっと、ここにいられたら。


 じゅんが椅子を引いた。氷華の隣に、もう一度座った。


「あと五分だけな。夕食の前に」


 氷華の目が、開いた。


 唇が、少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。氷華の笑顔は、いつも小さすぎて、見落としそうになる。


「……うん」


 ダイニングに、深雪の包丁の音が届いている。とん、とん、とん。一定のリズム。リビングからは、テレビをつけた陽花の声がかすかに聞こえる。美空が「音量を下げなさい」と言い、月詠が笑っている。夏凪は、ソファで開いたテキストの向こうから、ダイニングの方を一度だけ見て、すぐに視線を戻した。


 氷華は頬を教科書に載せたまま、目を閉じていた。


 五分は、たぶん、少し長くなる。

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