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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第二十二話 おやすみなさい、の一言

 二十一時。


 リビングの照明が、さっきより一段だけ落とされている。深雪が片付けを終え、美空がタブレットを仕舞う音を合図に、一日の終わりが家全体に広がっていく時間だった。


「お休みなさい、兄さん。明日、生徒会の朝礼があるので、先に出ます」


「ああ、了解。お休み」


 美空が二階へ上がっていった。続いて月詠が文庫本を閉じ階段の方へ。次が夏凪、それから深雪。エプロンの紐を解きながら、深雪は最後に一度こちらを振り返り、軽く頭を下げた。


 残ったのは、三人になった。


 じゅんの右肩には、陽花の頭が乗っている。さっきから少しずつ重みが増していた。


「お兄ちゃん……バトンが、まわって……」


 寝言だった。


 左隣には、氷華がいた。毛布にくるまったまま、文庫本を膝に伏せている。本のページは、もう五分以上めくられていない。


「陽花、部屋まで戻れるかい」


「ふぇ……お兄ちゃん……」


 陽花が薄目を開け、もぞもぞと体を起こした。


「だいじょうぶだよぉ……自分で、歩けるよぉ……」


 立ち上がり、ふらふらとリビングを出ていく。


「気をつけろよ」


「……うん……お兄ちゃん、おやすみ……」


 陽花の声が、廊下の向こうへ消えていった。


 毛布の中から、ライトブルーの目がじゅんを見ている。氷華はゆっくりと毛布を畳んだ。立ち上がる動作には音がなかった。


「……お兄、おやすみ」


「ああ。お休み、氷華」


 短いやり取りだった。青みがかった銀髪が、廊下の常夜灯の手前で一度だけ揺れて、視界から消える。


 じゅんは戸締まりを確認してから、二階へ上がった。




          *




 二階の中央に、じゅんの部屋がある。


 扉の中央少し上に、白木の小さなフックが、取り付けられていた。姉妹が木札を掛けるためのフック。札は、夏凪の黒、深雪の薄紅、氷華のアイスブルー、美空のアイボリー、陽花の黄色、月詠のダークネイビー。表面に、夏、雪、氷、空、陽、月の一文字が、白で。


 扉に名札を掛ける。これは、姉妹のルールの一つだった。兄の部屋に入る前に、必ず掛ける。中に居るときに邪魔されないように、外から誰が居るか分かるように。加えて、就寝前のおやすみ訪問だけは、一人三分以内、二十三時前を目安、二十四時以降は不可、というルールがついている。ただ、三分以内が必ずしも守られないことを姉妹は知っていた。


 部屋に入り、机の上の卓上灯を点けた。


 チャコールグレーとダークネイビーを基調にした、書斎兼寝室。書斎机、シングルベッド、机の脇のローバックチェア。客用の椅子はそれ一つきりだった。


 空気の中には、淡い柑橘の香りがある。シトラスとウッドの中間。深雪が一年ほど前に持ってきた、ルームディフューザーだった。




          *




 しばらくして、廊下に最初の足音があった。


 美空だった。アイボリーの木札を片手に、扉の前で立ち止まる。


「兄さん、就寝前のあいさつにきました」


「ああ、入っていいよ」


 札を、フックに掛けた。


「お邪魔します」


 美空が椅子に腰を下ろし、少しだけ姿勢を緩めた。


「兄さん」


「うん」


「このごろ思うんです。みんな、もともと兄さんを慕っています、けど──最近、距離が、ますます近くなっていませんか」


 じゅんは、姿勢を変えなかった。


「美空もかい」


「……否定はできません」


 美空が、顔を伏せた。


「以前は、距離を詰めようとして、競い合っていた気がします。それは、今もあるのですが、一方でみんなが当たり前みたいに兄さんの隣にいるような気がして」


 じゅんは、しばらく考えた。


「夏凪も、深雪も、氷華も、陽花も、月詠も、そして美空も、ちゃんとお互いを認め合っているから大丈夫。だけど、確かにみんな、ますます容赦ないような……」


 美空の眼鏡の縁が、卓上灯の光をすくった。


「美空、みんなをよく見てるね」


「……ご負担をおかけして、ごめんなさい」


 美空がゆっくり立ち上がった。椅子の位置をきっちり戻す。


「兄さん、おやすみなさい。三分、いただきました」


「おやすみ、美空」


「はい」


 札をフックから外し、ポケットにそっと滑り込ませる。歩く時、ポケットの中で札が音を立てないよう、上から軽く手のひらを当てている。


 美空の足音が、二階の東側へ消えていった。




          *




 次の足音は、摺り足だった。


 月詠が、ダークネイビーの木札を持っている。札を掛ける前に、廊下の左右を見渡してから、フックに掛ける。


「兄さま、夜分に失礼いたしますわ」


「どうぞ」


 月詠は扇子を、寝るまで手放さない。椅子に腰を下ろし、扇子を膝の上に置いた。


「兄さま、本日は、少しばかり、夜の風が冷たく感じられました」


 月詠の声が、いつもより半音だけ低い。意味深な前置きをするときの、月詠の音域だった。


「今夜は、一つ、連歌をお願いしますわ」


「ほう」


「──夜更けて 月が想いを 寄せるたび」


 月詠の睫毛が伏せられ、それから、ゆっくりと持ち上がる。


 じゅんは、天井を一秒だけ見た。


「──だざい?かわばた?ちょっとごめん」


 月詠の表情が、止まった、吹いた。


「……兄さま」


「うん」


「兄さまは、いつも、斜め上をいかれます」


 月詠が、小さく息を吐いた。笑い声と呼ぶには控えめで、ため息と呼ぶには軽すぎる、その中間の音だった。


「だから、ますます──」


 月詠が言いかけた、その時だった。


 扉の外で、廊下を踏む足音が一つ、止まった。


「……月詠」


 長女らしい、低く、抑えた声だった。


「三分、過ぎてるわよ」


 月詠の扇子の動きが、止まった。それから、ゆっくりと閉じる。


「あら、夏凪姉さま、お早いですこと」


 月詠の声は、扉の外には届かない音量だった。じゅんに向けてだけ、こぼした音。


「兄さま、続きはまた」


「おやすみ、月詠」


「おやすみなさいませ」


 月詠が扉を閉め、札を外す。


「夏凪姉さま、お先に」


 札を持ち直してから、袖の中へ滑り込ませた。摺り足が、三階の方へ消えていった。




          *




 夏凪が、扉のフックに黒い札を掛けた。


「入るわよ、じゅん」


「どうぞ」


 ロングカーディガンの裾がふわりと揺れた。椅子に腰を下ろし、足を組む。


「……別に、用事はないけど」


 夏凪の指が、椅子の肘掛けに乗った。長い指が、肘掛けの縁を、ゆっくりとなぞる。


 会話は、最初は雑誌の話題だった。スプリング号の特集。明日の午後の講義。スタジオから帰る時間。


 話題が一段落した時、じゅんが先に切り出した。


「夏凪」


「何」


「いつも、見ているよ」


 夏凪の指が、肘掛けの縁で止まった。


 じゅんが、机の椅子の背に、軽く体を預けた。


「夏凪は、頑張ってる。いつも見てるから、知ってる」


 夏凪の頬に、ほんの淡い熱が差した。耳の先が、卓上灯の光の届かない角度で、それでも分かるくらいに色を変える。


 夏凪は天井を一瞬見上げ、それから、視線を下ろした。視線の戻り方が、いつもより遅かった。


「……ずるい」


「何が」


「……何も」


 扉の向こうから、柔らかな声が聞こえた。


「兄さん、お茶をお持ちしました」

 

 夏凪が立ち上がった。立ち上がる動作の中で、髪を耳にかける指先が、宙で止まる。


「長くなったわ、おやすみ、じゅん」


「ああ。おやすみ、夏凪」


 夏凪が扉を開けると、廊下に、深雪が立っていた。盆を両手で持っている。盆の上に、湯呑が二つ。湯気が、廊下の常夜灯に薄く立ち昇っていた。


 軽く視線を交わした。深雪が穏やかに会釈する。夏凪が、何も言わずに頷き返した。

 

 夏凪は、札をフックから外し、握りしめたまま、二階の北側──自分の部屋の方へ消えていく。




          *




 深雪が、薄紅の木札を、左の指で摘まんでフックに掛けた。常夜灯の光に、薄紅色の木目が、柔らかく浮かぶ。


「兄さん、夜分に失礼します」


「どうぞ」


 盆を机の脇のサイドテーブルに置き、湯呑を二つ、丁寧に並べた。


「兄さんと私の分です。よろしければ、一緒に」


「ありがとう」


 深雪が椅子に座り、湯呑の片方をじゅんの机の縁に置いた。茶托の角度がぴたりと合っている。


 じゅんが一口、飲んだ。


「美味しいよ」


「……それは、よかったです」


「ほうじ茶か」


「はい。寝る前のお腹に、優しいですから」


 深雪も湯呑を口に運んだ。温度を確かめるように、ゆっくり。


「兄さん、最近、少しお疲れのようでしたから」


 深雪が湯呑をサイドテーブルに戻した。指先が、湯呑の縁から離れる瞬間、わずかに止まる。


「兄さん、これは、私の部屋で淹れてきたものです」


「淹れて、運んできた、ってこと?」


「はい。湯沸かしも、茶葉も、私の部屋のものです」


 深雪が、自分の湯呑をもう一度、両手で包んだ。


「兄さんさえよろしければ、いつか──私の部屋で、お茶を、お出ししたいのです」


 いつもの声だった。


「一杯だけ、ゆっくりと」


 じゅんは、湯呑の縁を、しばらく見ていた。


「……そうだな」


「兄さん」


「そのうち、お邪魔させてもらうよ」


 深雪の睫毛が、卓上灯の光を一度だけ受けて、影を作る。


「……はい」


 深雪が、湯呑の中の最後の一口を、ゆっくり飲み終えた。


「おやすみなさい、兄さん」


 深雪が立ち上がり、盆を片手に、空になった湯呑を二つ、丁寧に重ねた。


「おやすみ、深雪」

 

 扉が、静かに閉まった。


 札を外し、盆を持つ手の親指で、札を盆の上に押さえる。両手が塞がっていても、札は深雪の手の中にあった。




          *




 二十二時三十五分。


 黄色の札は、まだ廊下に現れない。


 陽花がおやすみを言いに来るのは、二日に一回ほどだった。来るときは、姉妹の中でも一番早い時間に廊下を駆けてくる。札を握りしめて、扉のフックに勢いよく掛けて、けれど掛けかたは丁寧で、それから「お兄ちゃん、まだ起きてる!?」と、ノックの代わりに自分の名前を叫ぶ。


 二十二時を過ぎても顔を見せない日は、たいてい夢の中に直行している陽花がいる。


 じゅんは扉を開け、廊下に出た。三階へ続く階段を、音を立てずに上る。


 月詠の部屋の明かりは、もう消えていた。


 その向かい、陽花の部屋の前。


 扉が、少しだけ開いていた。陽花の閉め忘れだった。


 じゅんはそっと中を覗いた。


 黄色いベッドの上で、陽花が大の字になっていた。布団は半分ずれ落ち、片足が掛布団の外に投げ出されている。腕には、大きな犬のぬいぐるみを、しっかり抱えている。


 じゅんは静かに部屋に入り、布団をベッドの中央に戻した。陽花の肩までかけ直す。


 陽花の口元が、もぞもぞと動いた。


「お兄ちゃん……バトンが、宙に浮いてて……」


 寝言だった。


「えへへ……、もう一回、ぐるって、まわる……」


 陽花の唇が、また動く。


「お兄ちゃん、そんなに……陽花のことが……好きなの……」


 陽花は、ぬいぐるみを抱える腕に、ふと力を込めた。


「えへへ……、しょうがないなぁ……」


 寝息のリズムが、もう一段深くなる。


 じゅんは小さく息を吐いた。


「……夢の中までモテてるな」


 誰にも聞かれない独り言だった。


 じゅんは、陽花のそばに少しだけ屈んだ。


「陽花、おやすみ」


「……ふぇ」


 陽花が、薄目を開けた。


「……お兄ちゃん?」


「ああ。おやすみ」


「……ん……」


 陽花の目が、もう一度、ゆっくりと閉じた。腕の中のぬいぐるみを、ぎゅっと抱え直す。ぬいぐるみの胴体が、ほんの少しだけ歪んだ。


 じゅんは部屋を出て、扉を、今度は最後まで閉めた。





          *




 じゅんが二階へ降りる階段を、半分まで降りた時だった。


 腕に、ふっと、体温が触れた。


 じゅんの右腕の、肘の少し下のあたり。指先が、軽く、絡んでくる。


「……氷華」


「……お兄」


 氷華が、階段の途中の影に立っていた。紺色の毛布を肩から羽織っている。


 いつから、そこにいたのか。廊下のどこかで、毛布をかぶっていたのだろう。じゅんはそう、思うことにした。


「……お兄、お疲れさま」


「ああ」


「……お兄を、待ってた」


 氷華の指が、じゅんの腕に絡んだまま、二人で階段を降りた。


 二階の中央。じゅんの部屋の前。


 氷華が、毛布の中から、アイスブルーの木札を取り出した。


 氷華は札を、自分でフックに掛けた。じゅんが扉を開ける。氷華は、じゅんの腕から、ようやく指を離した。


「……今日最後の安らぎ……」


 氷華の独白めいた呟きだった。


「明日もあるから、しばらくしたらおやすみだよ」


 氷華が、わずかに頷いた。




          *




 部屋の中で、氷華は、椅子には座らなかった。


 ベッドの端に、毛布を巻いたまま、静かに腰を下ろした。じゅんは机の椅子に戻る。距離は、近すぎず、遠すぎず。手を伸ばせば届くが、伸ばさなければ届かない。氷華が選んだ距離だった。


 氷華の目が、卓上灯の光を、静かに反射している。


「お兄」


「うん」


「……今日、何してた」


「事務所で、依頼を二件、片付けた。家に帰って、夕飯食べて、リビングで、氷華たちと過ごしてた」


「うん」


 氷華は、それ以上、聞かなかった。


 部屋の中の、柑橘の香りが、深雪のお茶のあとの湿度と混ざり合って、夜の温度に溶けている。窓の外は、もう完全に夜だった。


 時計の秒針の音だけが、部屋の中の静けさを、一定の速度で削っていく。


 ——ずっと、ここにいられたら……。


 しばらくして、氷華が、ゆっくりと立ち上がった。


「……ありがと、お兄」


「うん」


 氷華が、毛布を肩で抱え直し、扉に向かう。


 扉を開ける、その背中に、じゅんが声をかけた。


「氷華」


「……ん」


「……寒くないか」


 氷華が、止まった。


 それから、振り返らずに、毛布を肩で深く抱え直した。


「……もう平気」


 氷華が、廊下に出た。フックから「氷」の札を外し、毛布の内側に滑り込ませる。二階の廊下の南側──氷華の部屋の方へ、音もなく消えていった。





          *





 ベッドの端に、小さな保温カイロが一つ、置かれていた。袋の封は、まだ切られていない。


 じゅんは、少し微笑み、引き出しに仕舞った。

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