第二十一話 毎日と、たまに
商店街のメインストリートに、紅白の幕が張り渡されていた。
春祭り当日の朝。アーケードの天井から下がる提灯が、風に揺れて軽い音を立てている。
通りには、テーブルや屋台の骨組みが並んでいた。鉄板を磨く音、段ボールを破る音、「そっち持って!」と呼び合う声。普段は静かな商店街が、開店前の熱気で満ちていた。
朝霧探偵事務所は、商店街から一本裏に入った通りにある。けれど今日は、事務所の前にも一つ、屋台が出ていた。
白木の屋台。看板には『朝霧探偵事務所 たこ焼き』と達筆で書かれている。書いたのは商店会長で、本人はにこにこしながら「無料の宣伝になるからな」と言ってくれた。
屋台の中で、たこ焼きの鉄板に油を引いている男子生徒がいた。
龍崎 剛。中等部三年。柔道部所属。聖カレイド学園の制服ではなく、紺の作務衣に白い前掛けを締めている。袖を肩までまくり上げ、額には鉢巻。中三にしては大柄な体つきが、屋台を一回り小さく見せていた。
「兄貴! 仕込みは任せてくだせえ!」
屋台の脇に立っていたじゅんに向けて、剛が声を張った。鉄板の油が、いい音で跳ねた。
「ああ、頼んだ。剛くん、午前中ずっと立ちっぱなしになるけど、大丈夫かい」
「兄貴のためなら、丸一日でも!」
じゅんが小さく笑った。チャコールグレーのシャツを腕まくりして、休日らしい簡素な装い。
「剛くん、並べ方が整っているね」
「兄貴、これがいいんでさ。揃ってると見栄えがいい」
「そうか」
剛が嬉しそうに鼻の頭を擦った。
剛が鉄板にタコの切り身を並べ始める。手つきが慣れていた。龍崎組は、剛の父・龍崎 鉄心が顧問を務める地域開発会社の通称で、古くからこの一帯の祭りや行事を支えてきた一門だった。真の任侠と呼ばれる鉄心の人柄を慕って、行き場のなかった若者たちが集まり、いまでは商店街の縁日や神輿の担ぎ手まで組の若い衆が引き受けている。剛は中等部に入る前から、祭りを手伝ってきた。
剛は、じゅんを「兄貴」と呼ぶ。龍崎組の中で、鉄心がじゅんに示す待遇を、剛は剛なりに理解している。親父が大切にしている人だ──それで、十分だった。
通りの向こうから、足音が二つ。
一つは重く、もう一つは涼やかだった。剛の手が止まった。
「——姉貴!」
声が裏返った。
商店街のメインストリートを、龍崎 鉄心が歩いてくる。この地域の重鎮にして、聖カレイド学園副理事長。黒のスーツに、深紅のネクタイ。背筋が伸び、歩幅が大きい。
その斜め後ろを、龍崎 椿が歩いていた。聖カレイド学園高等部二年。茶道部部長。今日は制服ではなく、淡い藤色の和服に灰白の帯。髪は低い位置で結われ、銀の簪がひとつ。歩く所作に、一切の乱れがない。
二人が屋台の前で足を止めた。鉄心が片手を上げた。
「剛、ご苦労」
「親父、いってらっしゃい!」
椿は、剛に視線だけを送った。穏やかに、けれど一拍だけ長く。
「剛。お声が大きいですよ」
声は柔らかかった。けれど、剛の背筋がさらに一段、伸びた。
「……はい、姉貴」
返事は急に小さくなった。剛が頭を下げた拍子に、鉢巻が一センチだけ歪んだ。じゅんが横から、それを直してやった。剛が「あ、すんません!」ともう一度頭を下げ、鉢巻がまた歪んだ。じゅんが小さく笑った。
椿が、じゅんの方に向き直った。
「じゅん様、本日もよろしくお願いいたします」
頭を上げた瞬間、椿の視線が、じゅんの目に留まった。和服の袖の先で、扇子の柄を握る指先が、少しだけ動いた。すぐに伏せられた睫毛が、何事もなかったように整う。
「龍崎さん、椿さん、お疲れさまです」
「若、たこ焼き、後で食いに来るぞ」
「お待ちしてます」
二人は通りの先へ歩いていった。商店街の一軒一軒に、丁寧に挨拶をして回るのが、龍崎家の祭り当日の習わしだった。
*
事務所の窓は、屋台の方を向いている。
窓の内側、デスクの椅子に座って、美琴 二凛は湯呑を両手で包んでいた。窓越しに、屋台の喧騒が遠く聞こえる。剛の声、じゅんの相槌、鉄板の音。
桜色のハーフアップが、事務所の朝の光に淡く透けている。エメラルドの瞳は、窓の外を見ていた。
茶葉の缶は、昨晩のうちに開けた。じゅんが事務所へ戻ってくる時間に合わせて、湯を沸かす段取りも頭の中にある。煎茶の温度は七十五度。少し冷ましてから出すから、湯沸かしのタイミングはじゅんが事務所の引き戸を開ける七分前。
毎日のことだった。
「二凛さん」
声がかかった。
「収支の見込み、午後二時の段階で一度確認したいので、その時間に剛さんを事務所に呼んでもらえますか」
葛城 二華が、タブレットに視線を落としたまま、言った。ロイヤルネイビーのタイトボブが、手の動きに合わせて静かに揺れている。
「うん。剛君に伝えておくね」
「お願いします」
二華の手元には、屋台の仕入れ伝票、釣銭の準備表、龍崎組への謝礼の見積もり。すべてが一枚のシートに整理されている。
奥のデスクから、真白・P・アイ(ましろ・ぱとりしあ・あい)が静かに立ち上がった。
「外を見てきます。屋台前の人通りと、開店前の準備進捗を、一度確認しておきたいので」
「アイ、ついでに剛さんに塩むすびを差し入れてもらえますか。台所に置いてあります」
「分かりました」
アイが事務所の引き戸を開け、外に出た。プラチナホワイトのストレートロングが、開いた戸の風で一瞬だけ流れた。アイスブルーの瞳が、商店街の朝の光を冷たく受けて、屋台の方へ向かう。
二凛は、また窓の外に視線を戻した。
屋台の前で、じゅんが剛の鉢巻を直していた。さっきと同じ仕草。
湯呑を両手で包んだまま、二凛は目を伏せた。
*
商店街は、午後の光の中にあった。
昼を回ると、メインストリートは人で埋まった。屋台の煙、出店の呼び込み、子供の歓声。提灯に火が入り、紅白の幕が風に膨らむ。春祭りの本番だった。
通りの東の端に、六つの影が現れた。
先頭を歩いていたのは、陽花だった。両手をぐんと伸ばし、提灯を見上げて「うわー!」と声を上げる。金色のツインテールが、跳ねるたびに揺れた。
その後ろを、深雪と氷華が並んで歩いていた。氷華はサマーニットを毛布のように肩から被り、自分のニットの袖口を、ほんの少しだけ握り込んでいた。
美空が次に続く。生徒会の制服を脱いだ姿は、いつもより年下に見える。月詠は美空の少し後ろを歩いていた。手の中の扇子は、閉じたまま。
夏凪は、最後尾だった。普段の黒一色ではなく、ベージュの七分丈ニットを覗かせている。春の色を、わずかに含んでいた。
「——陽花ちゃーん!」
最初の声は、たこ焼きの屋台から飛んできた。
剛だった。鉄板の前から身を乗り出し、鉢巻を片手で押さえている。
「みんな来たかー! たこ焼き、出来立てあるぞー!」
「剛君! うわぁ、たこ焼き焼いてるー!」
陽花が屋台に駆け寄った。剛が紙皿に六つ盛って差し出す。陽花が両手で受け取り、目を輝かせた。
「剛君、ありがとー!」
「お代はいらねえよ、兄貴の妹さんからは取れねえ」
「えへへ」
通りの少し先から、別の声が飛んだ。
「陽花ちゃん、嬢ちゃんたち、こっちもどうだ!」
焼きそばの屋台。龍崎組の若い衆が、紙トレイを差し出している。
「陽花ちゃん、両手あんだろ!」
「ええっ、もうたこ焼きが——」
「両手あんだろ!」
陽花の左手にたこ焼き、右手に焼きそばが渡された。陽花が「両手満員!」と笑い、姉妹たちが一斉に振り返る。
その先のかき氷の屋台からも、「陽花ちゃーん、シロップ何味ー!」と声がかかる。陽花が「いちごー!」と返し、紙コップが用意され始めた。
通りの中ほどで、八百屋のおかみさんが腰を伸ばした。
「あら、なぎちゃん」
夏凪の足が止まった。
「最近、雑誌で見たわよ。お疲れさまね」
「……」
夏凪は会釈を返した。
「忙しいんでしょ。たまには、ゆっくりしにおいで」
夏凪の睫毛が、わずかに伏せられた。何も言わずに、また一歩、歩き出した。
次の店から、また声が飛んだ。
「なぎちゃん、疲れたら、わしらのところにおいで」
古道具屋の店主だった。夏凪の祖父ほどの年齢の老人。夏凪は今度も会釈だけを返したが、目の奥が少しだけ緩んだ。
深雪が包丁屋の前で足を止めた。
「深雪ちゃん、包丁の研ぎ、いつでもうちで」
「ありがとうございます。来週、お願いするかもしれません」
深雪が穏やかに微笑んだ。
月詠が和菓子屋の前を通った。
「お嬢、新作の試食、ひとつどうだ」
「ありがたく頂戴いたしますわ」
月詠が扇子を畳み、上品に受け取った。
氷華は、寝具屋の前で立ち止まった。店主が無言で店の奥を指差す。新しい毛布の入荷を伝える、それだけの仕草だった。氷華は、こくり、と一回頷いた。それで会話は終わった。
美空が剛の屋台の前に戻り、財布を取り出した。
「剛さん、皆の分、お会計を——」
「おっと、それはダメだ。兄貴の事務所の出店だぜ。妹さんから金は取れねえよ」
「いえ、それは——」
商店会長が通りかかり、横から笑った。
「美空ちゃん、いいから受け取りな。商店会の決まりだ」
「……ありがとうございます」
美空が眼鏡の位置を直した。
通りの角で、夏凪がまた呼び止められた。
喫茶店『珈琲 さえずり』。店先に、白髪混じりのおかみさんが立っていた。
宮沢 節子。商店街の喫茶店主。エプロンの裾で手を拭きながら、夏凪を見上げた。
「なぎちゃん、最近忙しいんでしょ。たまにはうちでお茶でも飲んでいきな」
夏凪は、立ち止まった。
他の店主たちと同じ温度の言葉だった。けれど、宮沢の声は少しだけ柔らかく、少しだけ近かった。
「……」
夏凪が、目を細めた。返事はしなかった。けれど、唇の端が、ごくわずかに動いた。
宮沢が頷いた。
夏凪は、姉妹たちの背中を追って、通りの先へ歩き出した。
「兄貴ならさっき事務所に戻ったぜ」
剛の声が、屋台の方から飛んできた。両手を腰に当て、姉妹たちに向けて笑っている。
最初に反応したのは、陽花だった。
「お兄ちゃん事務所にいるの!?」
たこ焼きの紙皿を抱えたまま、陽花の足が跳ねた。
「会いに行きたーい!」
氷華の睫毛が、わずかに上がった。声は出さなかった。
深雪がキッチンの何かを思い出したような顔で微笑んだ。
「兄さんに、お茶菓子をお持ちしてもいいかもしれませんね」
月詠は何も言わなかった。扇子の角度だけが変わった。
夏凪は最後尾から、姉妹たちの背中を見ていた。
美空は、立ち止まったままだった。
「……でも、お仕事の邪魔になりますから」
声が、いつもより小さかった。
その時、月詠が美空の隣に半歩、近づいた。扇子を半分だけ開く。
「美空姉さま」
声は、いつもの月詠の声。低く、優雅に。
「先ほど、兄さまから」
「……兄さんから?」
「今日はお祭りだから、無理のない範囲で、遊びにおいでと、お言伝が」
月詠の睫毛が、伏せられている。
「……分かりました」
美空が眼鏡の位置を直した。月詠の方は見なかった。
「ただし、五分だけです」
「もちろんですわ」
月詠の扇子が、静かに閉じた。
陽花が両手の戦利品を抱え直し、駆け出した。深雪が氷華の歩幅に合わせて歩き、美空と月詠が続く。
夏凪は、最後尾だった。
姉妹の背中が、提灯の下で少しずつ揺れている。
——このメンバーで、五分で済みますかしら。
月詠の唇が、かすかに動いた。
*
事務所の引き戸が開いた。
「お兄ちゃーん!」
陽花が真っ先に飛び込んできた。両手の戦利品をいったん入り口の小さなテーブルに置き、まっすぐにじゅんのデスクへ駆けていく。
「お兄ちゃん、お祭り来たよ! たこ焼きと焼きそばと、かき氷もあるよ!」
「陽花、ただいま——じゃないか。よく来てくれたね」
じゅんが顔を上げ、立ち上がった。チャコールグレーのシャツの袖を、まだまくり上げたまま。
二凛は、台所の方から事務所のリビングを見ていた。お茶の用意を、ちょうどしていたところだった。
深雪が陽花の後ろから入ってきて、じゅんに会釈をする。
「兄さん、お邪魔します」
「深雪、来てくれてありがとう」
氷華が無言で次に入り、じゅんの袖の先を一瞬だけ視線で確かめた。それで満足したように、ソファの端に音もなく腰を下ろす。
美空が四番目に入ってきた。眼鏡の位置を直し、事務所内を一度ぐるりと見渡す。
「兄さん、お仕事中にお邪魔して、申し訳ありません。月詠から——その、お声がけがあったとのことで」
「ああ、来てもらえてよかった」
じゅんの返事は、短く穏やかだった。
月詠は、五番目に入ってきた。よどみない摺り足で、事務所の中央まで進む。
「兄さま、お邪魔いたしますわ」
「月詠、グッジョブ」
扇子の陰の唇が、ほんの少しだけ角度を変えた。
夏凪は、最後尾だった。
入り口で軽く目礼する。それから、じゅんの方に視線を向けた。
「邪魔してないかしら」
「全然。ちょうど一段落したところだよ」
じゅんが笑った。夏凪の目線が、数瞬、滞留した。
「皆さん、ようこそお越しくださいました」
二華がデスクから立ち上がり、来客用のソファの方を手で示した。ロイヤルネイビーのタイトボブが、午後の光の中で品よく揺れる。
「夏凪さん、深雪さん、氷華さん、美空さん、陽花さん、月詠さん。お祭りの途中、お疲れさまです」
「二華さん、ごめんなさいね。突然」
夏凪が短く返した。長女としての顔だった。
「とんでもないです。じゅんさんも、ちょうどお茶でも、と仰っていたところでしたから」
二華の声に、嘘はなかった。じゅんが口に出していなかっただけで、お茶の段取りはすでに動いていた。
月詠が、二華の前に進み出た。
「二華さま、ごきげんよう」
「月詠さん、いらっしゃいませ」
月詠が深く一礼し、二華も丁寧に頭を下げる。姉妹の中で、最も整った所作で挨拶するのは、月詠だった。
「アイさま、ごきげんよう」
「月詠さん、ようこそ」
アイがモニターから視線を外し、月詠に向ける。プラチナホワイトのストレートロングが、画面の青白い光を離れて、自然光の中に戻った。
「お変わりありませんか」
「変わりません。月詠さんも、お変わりなく」
短い間。アイが、わずかに首を傾けた。
「景乃さんも、お元気そうですね」
「ええ。おわかりですか」
「ネットでときどきお見かけします」
「景乃さんは、観るのが好きな方ですから」
美空が、二華のデスクの前に立っていた。
「……二華さん。これ、お一人で?」
「ええ。運営は、私の領分ですから」
美空は、それ以上は何も言わなかった。
商店会から渡された配置図、龍崎組からの仕入れ伝票、近隣店舗からの挨拶状の写し——書類のすべてが、モニターに、検索可能なデジタルシートとして整然と並んでいた。
二華の手元で、新しく届いた書類がスキャンされ、デジタルシートに紐づけられ、ファイルの所定の位置に収められていく。判断の停止が、一秒もなかった。
——玲先輩に、似ている。
美空はそう思って、すぐに訂正した。玲先輩は、もっと鋭利で、もっと張りつめていた。二華さんは、同じくらい正確で、同じくらい徹底していて、けれど、柔らかい。
美空は、眼鏡の位置を、もう一度直した。
深雪は、リビングの隅に立ち、台所の方を、静かに見ていた。
二凛が、急須に湯を注いでいる。流しの脇の茶葉缶。普段、家で見かける銘柄ではなかった。
深雪は、何も言わなかった。微笑みも崩さなかった。
ただ、視線が、茶葉の缶から離れなかった。
氷華は、ソファの端に座ったまま、じゅんのデスクを見ていた。
書類の重ね方、ペン立ての位置、コーヒーカップの置き場所。すべてが、家のじゅんの机とは違う配置だった。けれど、ペン立てに刺さっている青いボールペン——あれは、家にもあったものと、同じだった。
氷華の指先が、自分のサマーニットの袖口を、握り直した。
二凛が、湯呑を盆に載せて、リビングに運んできた。
じゅんの手元に、湯呑を一つ置く。両手で、丁寧に、決まった角度で。湯気が立ち上る。
二凛の手が、湯呑から離れた。
離れる瞬間、二凛の指先が、じゅんのシャツの袖の端に、触れかけた。
止めた。
掠める前に、引いた。二凛は、湯呑を置いた手で、自分のスカートの脇を軽く整えた。
夏凪が、その手を見ていた。
二凛の指先が止まった瞬間も、引いた瞬間も、スカートを整えた瞬間も——夏凪のアンバーゴールドの瞳は、すべて捉えていた。
「……ずいぶん慣れてるのね」
夏凪の声は、低かった。
二凛は、湯呑の盆を胸の前で持ち直した。
二凛は、顔を上げた。
「……毎日ですから」
声は、控えめだった。けれど、引かなかった。
事務所の空気が、一拍だけ、止まった。
氷華の睫毛が、上がった。月詠の扇子が、止まった。美空の眼鏡が、わずかに角度を変えた。深雪の微笑みが、深くなった。
「りんちゃん、手際すごーい!」
陽花が、二凛の方を見上げて、満面の笑顔で言った。
空気が、また一拍、止まった。今度は、別の理由で。
夏凪は、何も言わなかった。
二凛も、それ以上は言わなかった。
じゅんは湯呑を手に取った。何も言わずに、一口。湯気がじゅんの呼吸の高さで揺れた。それから、湯呑をデスクに戻した。
奥のデスクから、アイの声が、静かに割り込んだ。
「現在、午後三時十二分です」
全員の視線が、アイに向いた。
「商店街の祭りのピークは、午後三時から四時の間と、商店会の事前資料に記載があります。屋台が、今、いちばん忙しい時間帯です」
短い間。
「剛さんが頑張っておられます」
陽花が、ぱっと顔を上げた。
「剛君! 大変だ、応援に行かなきゃ!」
「陽花、待って——」
美空が止めようとしたが、もう遅かった。陽花がもう入り口の方を向いている。
空気が、流れた。
夏凪が、息を一つだけ吐いた。月詠の扇子が、また半分だけ開いた。深雪が小さく微笑み、氷華がソファから音もなく立ち上がった。
二華が、二凛の方に視線を送った。一瞬。労いと、確認の、両方を含んだ目線だった。
二凛は、湯呑の盆を胸の前で持ったまま、小さく頷いた。
夏凪が、最後にもう一度、二凛の手元に視線を落とした。湯呑の盆を持つ二凛の指先が、わずかに白かった。
夏凪は、目を細めた。
そして、何も言わずに、姉妹の方に向き直った。
*
陽花は、もう入り口の戸に手をかけていた。
「お兄ちゃん、剛君のとこ行ってくる!」
「陽花、戦利品はどうするんだ」
じゅんがデスクから声を投げた。陽花が振り返り、入り口のテーブルを見て、それから事務所内の二華を見た。
「はなちゃん、これ、預かってもらってもいい? あとで取りに来るから!」
「お預かりします。お気をつけて」
二華が立ち上がり、紙皿と紙コップを丁寧に台所の方へ運んでいく。
陽花が引き戸を開け放った。商店街の祭りの音が、一気に流れ込んでくる。
「行ってくる!」
陽花が走り出した。スカートの裾が、戸口の風に大きく揺れた。
残された姉妹が、互いを見た。
「……放っておいたら、剛さんに混ざってたこ焼き焼き始めるかもしれませんね」
深雪が、穏やかに言った。
「それ、絵が浮かぶ」
夏凪が笑った。今日初めての、素のままの笑い方だった。
「私も、そろそろ失礼いたしますわ」
月詠が扇子を畳み、じゅんの方に向き直った。
「兄さま、お邪魔いたしました」
「月詠、ありがとうな。来てくれて」
じゅんがデスクから立ち上がった。
月詠の睫毛が、一瞬だけ伏せられて、また持ち上がった。
「……兄さま」
「うん?」
月詠が、扇子の陰でじゅんを見た。
「兄さまは、本当に、お見通しですわね」
深雪が陽花の戦利品の方に視線を送り、二華に会釈した。
「兄さん、私たちも失礼します。陽花を放っておくわけにもいきませんから」
「深雪、家でゆっくりな」
「はい」
深雪は、いつものように微笑んでいた。台所の茶葉缶の方を、最後にもう一度だけ視線で確認した。
氷華が、ソファから立ち上がった。じゅんのデスクの方へ、近づき、止まった。
じゅんのペン立てに、青いボールペン。
氷華の視線が、そこに滞留した。それから、じゅんを見た。
「……家で待ってる」
短い宣言だった。
じゅんが、ペン立てを見て、それから氷華を見て、笑った。
「ああ。家でな」
氷華が、小さく頷いた。サマーニットの袖口を握っていた指が緩んだ。
深雪の隣に並び、入り口の方へ歩いていく。
美空が眼鏡の位置を直し、二華に向けて深く頭を下げた。
「二華さん、お邪魔しました。……ご運営、本当に、見事でした」
「美空さん、いつでも、お立ち寄りください」
美空の頭が、もう一度、わずかに下がった。それから、姉妹たちの後を追っていった。
最後に残ったのは、夏凪だった。
夏凪は、入り口の戸の手前で、一度だけ立ち止まった。
商店街の祭りの音が、開いた戸の向こうから流れてくる。提灯の光、屋台の声、子供の歓声。
夏凪は、振り返った。
じゅんが、デスクの前に立っていた。チャコールグレーのシャツの袖を、まだまくり上げたまま。光が、じゅんの肩のあたりに斜めに差していた。
「夏凪」
じゅんが呼んだ。
「たまには、ここもいいだろう?」
じゅんの声は、いつもの声だった。短く、穏やかで、何の重みも込めていないように聞こえる声。けれど、たまには、という言葉が、夏凪の耳の奥で、別の声と重なった。
——ゆっくりしにおいで。
——疲れたら、ここにおいで。
——たまにはうちでお茶でも飲んでいきな。
夏凪は、何も言えなかった。
視線が、じゅんから外せなくなった。
じゅんが、夏凪の沈黙を、待った。
急かさなかった。続けなかった。
夏凪の唇が、わずかに動いた。
「……うん」
短い返事だった。
声は、いつもの夏凪の声ではなかった。昔の声に、少しだけ、似ていた。
夏凪は、じゅんから視線を逸らさないまま、もう一度、唇を動かした。
「……また、来るわ」
「ああ。待ってる」
じゅんが頷いた。
夏凪が、ようやく目を伏せた。それから、踵を返し、入り口の戸をくぐった。
商店街の音が、夏凪を包んだ。
戸の向こうで、姉妹たちが夏凪を待っているのが、足音でわかった。陽花の声がまだ聞こえる。剛の屋台の方から響いている。
夏凪は、姉妹たちの方へ歩き出した。
今日は、ずっと、最後尾だった。けれど、姉妹たちの背中を見ながら歩く長女の足取りは、来たときよりも軽かった。
事務所の中では、二華が陽花の戦利品を冷蔵庫に運び終えたところだった。アイがモニターに視線を戻し、二凛が湯呑を盆に載せたまま、台所の入り口に立っていた。
じゅんが、デスクに戻った。
窓の向こうに、姉妹たちの後ろ姿が見えた。夏凪の黒のロングカーディガンが、提灯の下で揺れている。ベージュの七分丈ニットが、春の色を、わずかに覗かせていた。
じゅんは、湯呑を手に取った。
二凛の淹れた茶は、まだ温かかった。
*
商店街の喧騒が、戸の向こうで一段、遠くなった。
姉妹六人の足音が、提灯の下で交わり、たこ焼きの屋台の方へ流れていく。陽花の声が、剛の声と重なって、笑い声になった。それから、声がもっと遠ざかり、祭りの全体の音に溶けていった。
二華が冷蔵庫の扉を閉めた。アイの指が、キーボードの上で、また規則的なリズムを刻み始めた。
「二凛」
じゅんの声がした。
二凛は、盆を胸の前から、ゆっくりと下ろした。
「……うん」
じゅんがデスクの椅子から立ち上がり、台所の方へ歩いてきた。湯呑を片手に持ったまま。湯気は、もう細くなっていた。
じゅんが、二凛の前に立った。
「毎日、ありがとうな」
短い言葉だった。
二凛の指先が、じゅんのシャツの袖の方へ、また動こうとした。
今度も、止めた。
止めて——けれど、引かなかった。
手が、空中で、わずかに止まったまま、震えた。
じゅんが、二凛の手元を見て、それから、二凛の顔を見た。
二凛の指先が、ようやく動いた。じゅんの袖には触れなかった。代わりに、盆の縁を、もう一度、握り直した。
「……毎日なのは」
二凛が、顔を上げた。
「私が、そうしたいから、なんだよ」
声は、控えめだった。けれど、引かなかった。さっき夏凪に向けたときと、同じ声の型だった。
じゅんが、笑った。
「知ってるよ」
短い返事だった。
二凛の唇が、わずかに開き、それから、閉じた。
じゅんが、湯呑を、台所のカウンターに置いた。空になっていた。
「次のお茶、お願いしてもいいか」
「……うん」
二凛が、盆を、ようやくカウンターに下ろした。
茶葉缶に手を伸ばす。湯沸かし器の電源を、もう一度入れる。煎茶の温度は七十五度。
窓の外の祭りの音が、また少しだけ大きくなった。
誰かが屋台の方で歓声を上げている。陽花の声に、剛の声、それから龍崎組の若い衆の声が重なる。
二凛は、湯沸かしの音を聞きながら、流しの端に、両手をついた。
深く、息を吐いた。
湯沸かし器が、静かに沸いた音を立てた。
商店街の遠くで、太鼓の音がひとつ、鳴った。
春祭りの、午後の終わりの合図だった。




