誕生日特別編1 一枚分の重さ(5月24日 西園寺 玲)
朝のダイニングに、胡蝶蘭があった。関係各所から西園寺邸に届いたものだった。
西園寺邸のダイニングは広い。壁際の棚には、祝いの品と胡蝶蘭が並んでいた。カードが添えてある。「西園寺 玲 様」と表記されているものもあるが、どれも「西園寺家」宛てのものであることを知っている。
西園寺 玲は席についた。プラチナシルバーのハーフアップ。ブレザーのシワは一つもない。胸元の銀色ブローチが窓からの光を受けていた。
両親の席は、長く空いている。海の向こうで仕事をしている二人の顔を、最後に見たのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。茜は先に登校していた。ナプキンが畳まれたまま残っている。
食事を終え、席を立った。書斎のドアをノックした。
「おじいさま、行ってまいります」
扉の向こうに、聖カレイド学園理事長であり、西園寺コンツェルンを率いる西園寺 閣が座っていた。オールバックの銀髪。英国仕立てのスリーピース。左手の薬指にゴールドのシグネットリング。書類から目を上げずに、閣が言った。
「玲。また一つ大人になったな」
「ありがとうございます、おじいさま」
玄関の受け皿に、封筒が並んでいた。理事長の孫宛てに学園関係者から祝い状が届くのは、毎年のことだった。
一通だけ、手が止まった。白い封筒。宛名は手書きで、「西園寺 玲 様」。筆圧にわずかな癖がある。差出人を見た。
朝霧 じゅん。
学園の非常勤講師で、個性的な姉妹たちの兄。言葉を交わしたことも、その授業を受けたこともある。祖父が個人的に勧めてきた人でもあった。他の封筒には形式の匂いがあった。この一通だけが、違った。
封筒をブレザーの内ポケットに入れた。他の祝い状は玄関の受け皿に戻した。
*
放課後。
本館の廊下を歩いていると、美空が向こうから歩いてくるのが見えた。
「玲先輩。お誕生日おめでとうございます」
花束を差し出された。美空の指に、わずかに力がこもっていた。
「玲先輩に教えていただいたこと、忘れません」
「美空さん。ありがとう。学園を、頼みます」
美空が背筋を伸ばした。「はい」。短い返事だった。花束を受け取り、美空が去っていくのを見送った。制服の背中に、シワが一つもなかった。
新館への渡り廊下に出た。五月の風が中庭の木々を揺らしていた。すれ違う生徒が何人か会釈をした。前会長の顔は、みなが知っている。会釈を返しながら歩いた。
後ろから駆け足の音が追いかけてきた。
「玲姉!」
プラチナシルバーのポニーテールが視界に飛び込んだ。茜が両手で紙袋を抱えている。息が上がっている。
「お誕生日おめでとうございます。今年は私が選びました」
高級紅茶のセットだった。産地の異なる三種類の茶葉が、それぞれ別の缶に入っている。
「ダージリンのファーストフラッシュは今年の新茶です。玲姉の好きな銘柄、全部調べました」
三つとも違う店の缶だった。
箱を受け取った。蓋の上に指が触れた。
指先が、そこに留まった。蓋の角の丸みに沿って、離すべきタイミングを過ぎても、指がその場所にあり続けた。
「……茜。ありがとう。大切にいただきます」
声が半拍遅れた。茜が目を丸くして、それから笑った。
「来年はもっとすごいの選びます!」
ポニーテールを揺らして去っていく背中を見送った。右手に花束、左手に紅茶の紙袋。両手がふさがった。
新館に入ると、白亜の聖域の活動拠点、「白の社交室」の前に白瀬 聖が立っていた。手元にマグカップを持っている。「白灯の間」でのカウンセリングのあとだろう。
「玲さん。お誕生日、おめでとうございます」
細縁眼鏡の奥で、聖が笑っていた。両手がふさがった玲を見て、何も言わずに入口の扉を開けた。
「聖さん、ありがとう」
声が柔らかくなった。
「これからもよろしくお願いします」
聖が軽く頭を下げた。マグカップの湯気が廊下の空気にゆっくり溶けた。それ以上は何も言わなかった。
自席に花が届いていた。
聖域の会員たちが置いていったものだった。白い花が並んでいる。カードはない。名前もない。花だけを置いて去る。それが聖域の作法だった。数えた。十二本。
その中に、一本だけ違う花があった。
淡い青。差出人の名前はなかった。聖域の花は白で揃えられている。この一本だけが色を持っていた。「白の社交室」に花を届けられる人間は限られている。白い花の中に混じっていなければ、気づかなかったかもしれない。けれど一度目に入ると、青だけが残った。
内ポケットの封筒が、布越しにわずかな重さを主張していた。
*
帰路の空は高く晴れていた。五月の風がハーフアップの髪をかすかに揺らした。門をくぐり、玄関に入り、靴を揃えた。邸は静かだった。閣は書斎にいるのだろう。茜はまだ戻っていない。廊下を歩く足音だけが、高い天井に響いて消えた。
自室の扉を閉めた。机と椅子と本棚と、窓辺の花瓶。必要なものだけが並んでいる。
鞄を椅子の背にかけた。紅茶セットを棚に並べた。三つの缶を、産地の順に。缶の高さが揃っていることを確かめた。花瓶の水を替え、美空の花束と淡い青の花の茎の先を切り揃えた。花弁に触れないように、一本ずつ整えた。一つずつ、今日もらったものを然るべき場所に置いていく。
最後に、内ポケットから封筒を取り出した。朝からずっとブレザーの内側にあった。
机の前に座った。
封を切った。一筆箋が一枚。
読んだ。
肩が上がった。
吸いすぎた。一拍分の呼吸が制御の外を通った。吸い込むつもりのなかった量の空気が肺に入り、肩甲骨が持ち上がった。止められなかった。
もう一度、読んだ。
文字数は多くなかった。形式的でもなかった。閣の一言とも、聖の祝意とも、茜のプレゼントとも、美空の花束とも、聖域の白い花とも、違っていた。
あの淡い青の花が同じ人かどうかは、確かめない。確かめないことが、自分の距離の取り方だった。けれど一筆箋と、あの一本だけ色の違う花は、同じ静けさを持っていた。
手帳を開いた。今日の日付のページに、一筆箋を挟んだ。手帳を閉じた。
閉じた表紙に、指先がもう一度触れた。
「……覚えていてくださったのですね」
声に出ていた。
——こういう祝われ方を、知らなかった。
窓の外に、五月の夕暮れが傾いていた。窓辺の花瓶に、花々が夕日を受けていた。棚には茜の缶が三つ並んでいる。明日もまた、シワのないブレザーで学園に行く。ダイニングでは、静かな胡蝶蘭が迎えるだろう。
けれど手帳は、一枚分だけ重くなっている。
それで十分だった。




