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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第二十話 長女の秘密特訓

 ゴールデンウィークの最終日、表参道のフレンチビストロで、夏凪はハンバーグを一口食べて手を止めた。ナイフとフォークが皿の上で静かに交差する。肉汁が断面から滲み、デミグラスの艶がランチの陽光を受けて琥珀色に光っていた。

 向かいの席で、如月ベル(きさらぎ べる)がグラスを傾けながら夏凪を見ていた。


「作れたらいいなって顔、してるよ」


 にまにま、という表現がこれほど似合う友人を、夏凪は他に知らない。


「……してないわ」

「してる。目が完全にレシピを逆算してる」


 否定する間もなく、ベルは畳みかけた。


「じゅんに作ってあげたら、喜ぶと思うけど」


 頬が、熱くなった。窓の外の並木に視線を逃がした。五月の新緑が目に鮮やかで、それだけが救いだった。


「あと、渡すときは萌え萌えきゅ~んで。破壊力抜群よ」

「帰るわよベル」

「あ、デザートお願いします」


 会計を済ませ、表参道を並んで歩いた。ベルの助言は脳内から消去した。消去したはずだった。帰りの電車で三回再生された。採用するつもりは、微塵もなかった。



          *



 三日後。五月の午後。


 美空は生徒会、陽花は部活、月詠はIT研究会。深雪は文芸部。じゅんは事務所。六花円舞曲りっかワルツのキッチンに立つなら、今しかなかった。


 その前に、夏凪は自室で一つだけ確認しなければならないことがあった。


 鏡の前に立った。両手を胸の前に上げ、指先でハートの形を作りかけた。唇が開く。


「萌え……」


 鏡の中のカリスマモデルが、冷たい目でこちらを見ていた。


 手を下ろした。プライドが、辛うじて間に合った。


 ——何をやっているの、私は。


 そのとき、廊下の気配が消えた。ドアがわずかに開いている。空気の微かな揺れだけが、誰かがそこにいたことを示していた。


「……見てないわよね」


 返事はなかった。



 材料は前日、一人で商店街に買いに行った。合挽きではなく牛肉多め。パン粉は生パン粉。玉ねぎは炒めてから冷ます。レシピは昨夜だけで三回読んだ。目指したのは、あの店の味だった。深雪の味ではない。自分が美味しいと思った、夏凪自身の「美味しい」を——じゅんに届けたかった。


 しかし、ひき肉はボウルの中でまとまらなかった。


 手の温度が高すぎるのか、捏ねるほどに脂が溶けて指の間から逃げていく。形を整えようとすると真ん中が割れた。左右を押さえれば上が崩れ、上を押さえれば横が開く。五分後、まな板の上に大きさのばらばらな肉塊が三つ並んでいた。モデルの手が、まったく言うことを聞かない。カメラの前では指先一本まで制御できるのに、ひき肉の前では無力だった。


 ダイニングの椅子に、氷華が座っていた。いつ帰ってきたのか、頬杖をついて目を閉じている。キッチンとダイニングの間に仕切りはない。聞こえているはずだった。肉を叩く音も、夏凪の舌打ちも。けれど氷華は薄く目を開けて一度だけキッチンを見て、また目を閉じた。手伝う気配もない。立ち去る気配もない。ただ、そこにいた。


「——あら」


 声は、玄関の方から来た。


 深雪が立っていた。制服のまま、鞄を肩にかけたまま。視線がまな板の上を一巡した。肉塊、飛び散ったパン粉、炒めすぎて焦げかけた玉ねぎ。


 深雪の顔に、微笑みが浮かんだ。


 目は、笑っていなかった。


「兄さんのためなら、教えてあげますよ」


 穏やかな声。丁寧な声。声だけ聞けば、慈愛そのものだった。夏凪は深雪の目の温度を正確に読み取ったが、断る選択肢は最初からなかった。一人では完成しない。それだけは、まな板の上の肉塊が証明していた。


「……お願い」


 その言葉を絞り出すのに、長女の矜持が三秒を要した。


 深雪が制服の上からエプロンをかけた。手を洗い、ボウルの中身を確認し、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。動作に一切の迷いがなかった。


「肉だねは冷やしながら捏ねます。手が温かい人は、氷水にさらしてから」


 夏凪は一瞬だけ目を瞬かせてから、黙って指先を沈めた。

 夏凪が言われた通りに手を冷やすと、次の捏ねでは確かに脂が溶けなかった。深雪が横に立ち、火加減を声で指示し、ソースの手順を横から伝え、盛り付ける前に皿を温めることまで教えた。深雪の手は一度も鍋に触れなかった。フライパンを振るのも、ソースを煮詰めるのも、すべて夏凪の手だった。深雪の声は終始穏やかで、一度も夏凪を笑わなかった。ただ、じゅんの名前が出るたびに、深雪の指先がエプロンの端を少しだけ強く摘んだ。


 ダイニングで、氷華がまどろんでいた。目を閉じたまま、全部聞いている顔だった。


 四十分後、皿の上に一つのハンバーグが完成した。楕円は少し歪んで、焼き色は左右で濃淡があったが、割れてはいない。崩れてもいない。夏凪の手がソースをかけ、ブロッコリーを三つ、等間隔に並べた。


「次は一人で作れるようになりましょうね」


 深雪はエプロンを畳みながら微笑んだ。圧が、空気ごと残った。


 深雪がキッチンを出ていった。夏凪は布巾を皿にかぶせ、テーブルの端に置いた。



          *



 五時を少し過ぎた頃。玄関のドアが開いた。


 じゅんの足音が廊下を来る。いつもの歩幅。いつもの速さ。夏凪はダイニングに立ち、「たまたまいた」顔を作った。カメラの前なら一瞬で仕上がる表情が、今日に限って重かった。


 氷華が椅子から顔を上げた。まどろみから覚めたように目をこすり、じゅんの方へ歩き出す——その途中で、夏凪の横を過ぎた。


「……あれ、やらないの」


 声は、じゅんには届かない音量だった。夏凪だけに届く、最小限の一言。


 鏡の前の記憶が、全速力で蘇った。見ていた。やはり、見ていた。じゅんがもう廊下の向こうに見えている。声を上げれば全部が崩れる。夏凪は氷華を睨んだが、氷華はもう背中を向けて、じゅんの隣へ収まっていた。


 心臓が無駄に速い。


「夏凪? どうした、顔赤いぞ」


「——何でもないわ」


 深呼吸を一つ。皿の布巾を取った。


 歪な楕円のハンバーグと、一生懸命均等に並べたブロッコリーが三つ。皿の余白が、深雪の盛り付けとは比べものにならないほど広かった。


 じゅんが椅子に座った。フォークを手に取り、ハンバーグの端を切って口に運んだ。


 一拍止まった。


 じゅんの視線が皿に落ちた。ハンバーグの断面、ソースの広がり方、ブロッコリーの間隔。それから、夏凪の顔に戻った。


「夏凪が作ったんだな」


 息が、止まった。


「……なんでわかるの」


「夏凪の味がした」


 言葉の意味が、一拍遅れて届いた。深雪の味ではなく。他の誰の味でもなく。夏凪の味。


「それに、盛り付けが深雪と違う」


 じゅんはフォークの先で、ブロッコリーの一つを指した。


「不器用だけど——一生懸命並べた跡がある」


 耳が、熱くなった。


 あの帰り道で、じゅんに見つかったときと同じ場所。耳の先から付け根にかけて、熱が一気に広がる。あのときは指摘されなかったことへの安堵だった。今度は、見抜かれたことへの——何だろう。恥ずかしさだけではない。もっと深い場所を、やわらかく掴まれたような感覚。


 俯かなかった。


 深雪の名前が出た。比べられた、とは思わなかった。じゅんは「深雪と違う」と言ったのであって、「深雪より劣る」とは言わなかった。違いを認めた上で、夏凪の手の跡を読んだ。味ではなく、過程を見ていた。


「……次は、もっとうまくなるわ」


 強がりだった。声がわずかに揺れたことを、夏凪は自覚していた。


 じゅんがもう一口食べた。


「楽しみにしてる」


 短い一言だった。それだけだった。


 ——それだけで、次を作る理由ができてしまった。


 キッチンの奥から、包丁の音が聞こえ始めた。とん、とん、とん。一定のリズム。迷いのない手つき。深雪の夕食の支度が、今日も定刻通りに始まっている。六花円舞曲のキッチンは、まだ深雪のものだった。


 夏凪はじゅんの向かいに座ったまま、耳の熱が引くのを待った。引かなかった。包丁の音が規則正しく刻む夕方の空気の中で、じゅんの「楽しみにしてる」だけが、いつまでも近かった。


 玄関の向こうで、足音が重なった。


「お兄ちゃん帰ってたの!?」


 陽花の声が、廊下を一直線に突き抜けてきた。その後ろから美空の「靴を揃えなさい」と月詠の笑い声が続く。六花円舞曲の夕方が、いつも通りに始まろうとしていた。


 窓の外では、五月の日が長く残っていた。新緑が夕陽の最後の光を受けて、庭の木々を明るく染めている。


 もう一品。次はもう一品。あのビストロの味に、もう少しだけ近い何かを。


 ——次は、一人で。


 強がりではなく、約束として。夏凪は、そう決めた。

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