第十九話 六花の温泉旅
第一幕
朝の六花円舞曲は、いつもより三十分早く動き始めた。
夏凪は鏡の前で髪を一つにまとめながら、目元の薄いクマに気づいた。昨夜、最後の点検をしていた。荷物リスト、行程表、宿への確認電話の控え。すべて美空がすでに済ませてくれていたが、それでも目を通しておきたかった。
ジャケットを羽織り、玄関へ降りた。
「なぎっち、おはよ!」
リビングから陽花が手を振った。トレーナーに、ショートパンツ。腰には小さなポーチを巻いている。今日のために買ったらしい。
玄関に、すでに氷華が立っていた。薄手のパーカー。腕には毛布を一枚抱えている。車に持ち込む気だ。
「……早いわね、氷華」
「……うん」
氷華が頷く。それだけだった。
夏凪は何も言わず、並べられた荷物を数えた。みんなの鞄。その上に、深雪の小さな籠。朝茶の道具が入っている。明日の朝、宿の食事の前に、じゅんに一杯だけ淹れるために。
「みなさん、お揃いですか」
美空が玄関に立った。タブレットを片手に、頭の中のチェック項目を読み上げる。
「鍵、二回確認しました。ガス、電気、水道、すべて閉栓済み。冷蔵庫の生ものは昨夜のうちに片づけてあります」
「ありがとう、美空」
「夏凪姉さん」
美空が顔を上げた。
「高速の出口、私がナビをしますから」
夏凪が一瞬、視線を逸らした。
「……お願い」
車の前で、じゅんが姉妹たちを待っていた。Tシャツに、薄手のシャツ。普段より少しだけ動きやすい服装。
「お兄ちゃーん!」
陽花が真っ先に駆け寄った。じゅんが受け止めて、頭を撫でる。
「陽花、今日は遠出だから、寝ててもいいよ」
「寝ない! 絶対、起きてる!」
座席は、あらかじめ決まっていた。決めたのは、美空だった。
助手席に美空。地図アプリのナビゲーションを担当する。
二列目の運転席真後ろに氷華。続いて夏凪、深雪。
三列目に、陽花と月詠の双子。
氷華は乗り込むなり、毛布を膝にかけ、運転席の背もたれに、頬を寄せた。バックミラー越しに、じゅんと目が合う。
「氷華、シートベルト」
「……うん」
氷華が頷いた。それでも頬は、背もたれから離れない。
月詠は三列目の窓側に座り、膝の上にスマートフォンを置いた。画面は誰にも見えない角度。陽花が隣から「つくつく、何見てるのー?」と覗き込もうとして、月詠が手元の扇子を一閃、画面を覆った。
「ふふ、内緒ですわ」
陽花は不満げに口を尖らせたが、すぐに窓の外の朝の光に興味が移った。
「では、出発」
じゅんがエンジンをかけた。
高速道路に乗って一時間ほど経った頃、陽花が「お腹すいたぁ」と呟いた。ちょうどサービスエリアの看板が視界に入った。
「少し休憩にしよう」
じゅんがハンドルを切った。
姉妹たちが車を降りる。月詠だけが車に残ろうとしたが、陽花が「つくつくー、アイスっ」と袖を引いて、結局降りた。
夏凪と氷華が、じゅんの左右に並んで歩いた。後ろから美空が「夏凪姉さん、迷子にならないように」と声をかけたが、夏凪は振り返らずに「……わかってるわ」とだけ返した。
ベンチで、陽花がアイスを舐めている。月詠は少し離れたところで、スマートフォンを膝に置いていた。
「つくつく、アイス溶けるよー」
陽花の声に、月詠が「ええ、すぐに」と答え、スマホをポケットへしまった。
深雪が、一瞥した。穏やかな、けれど何かを察した目で。月詠がそれに気づき、唇の端で薄く応えた。
高速を降りた後、旅館への山道に入る手前で、もう一度サービスエリアに寄った。
深雪が、保冷バッグを膝の上で開けた。
「兄さん、お腹が空いたでしょう。簡単なものですけれど」
ラップに包まれたサンドイッチが、丁寧に重ねられていた。卵、ハム、きゅうりとチーズ。一つ一つ、四等分に切られていて、紙ナプキンも揃えてある。
「ゆきりん、私、卵がいいー!」
陽花が両手を伸ばした。深雪が「陽花、手を拭いてからですよ」と微笑み、ウェットティッシュを先に渡す。陽花が「はーい!」と受け取った。
「これは、いつ作ったんだ?」
じゅんがサンドイッチを一つ受け取りながら聞いた。
「今朝、皆さんが起きる前に。長旅ですから」
深雪が穏やかに答えた。氷華が黙って二切れ受け取り、毛布の中でゆっくりと食べ始めた。月詠は一切れ。美空が紙ナプキンを各自に手渡しながら、自分の分を最後に取った。
夏凪がサンドイッチの端を口に運びながら、深雪を一度だけ見た。
「……深雪は、いつも、こうね」
長女の声だった。低く、短く、しかし、確かなものだった。
深雪が、目を細めて微笑んだ。
「姉さんも、ご無理なさらず」
車の屋根に春の光が降り、温かい時間が、家族の上に広がった。
旅館に着いたのは、午後二時過ぎだった。
石畳の坂道を登った先に、和風の旅館が建っていた。木の格子戸、磨き込まれた踏み石。仲居が玄関で頭を下げた。
「いらっしゃいませ、朝霧様。お待ちしておりました」
美空が予約確認書を差し出し、手続きが淀みなく進む。
「ご家族様の大部屋を一室と、朝霧じゅん様のお部屋を一室。お食事は本日十八時半、明日朝は七時半。承知いたしました」
じゅんはロビーのソファに座っていた。気づけば氷華が右側、陽花が左側、深雪が氷華の隣に座っている。月詠だけが、少し離れた窓辺に立って、庭を見ていた。
「兄さま」
月詠が振り返った。唇の端が、少しだけ持ち上がっている。
「お夕食まで、温泉街のお散歩など、いかがかしら。石畳が美しいと伺いましたわ」
夏凪が、目を細めた。月詠の声色が、いつもより半音だけ高い。
「……いいわね。みんなで行きましょう」
夏凪が即座にそう言った。長女の声で。誰にも反論させない響きで。
月詠が、一拍、息を置いた。
「ええ、もちろん。みなさま、ご一緒に」
声には、何の角も、なかった。
第二幕
石畳の坂道を降りた先に、温泉街の通りが広がっていた。
午後の光が、磨き込まれた石の面に反射している。両脇には木造の店が並び、温泉まんじゅうの蒸籠から白い湯気が立ち上っていた。射的、ガラス細工、漬物屋、和菓子の老舗。観光地らしい喧騒の中に、湯けむりの匂いが薄く混ざっている。
「うわー! いい匂いー!」
陽花が両手を広げて、深呼吸した。今にも走り出しそうだった。美空が即座に「陽花、迷子になりますよ」と釘を刺し、陽花が「迷子にならないもーん」と頬を膨らませる。夏凪は、すでに別の方向を向いていた。
「夏凪姉さん、こちらです」
美空がさりげなく夏凪の肘に触れて、進行方向を整える。夏凪が無言で頷いた。
じゅんは姉妹たちの少し前を歩いていた。氷華が左袖、陽花が右袖。深雪はその後ろから、穏やかにじゅんの背中を見ている。月詠は隊列の最後尾を歩いていた。手の中の扇子は、閉じたまま。
石畳の散策路を半周した頃、陽花が「あっ」と声を上げた。
「お兄ちゃん、お土産屋さんっ!」
間口の広い店だった。木の看板に『温泉街みやげ処・湯華堂』とある。店内には和菓子、漬物、陶器、手ぬぐい、温泉まんじゅう、子供向けの小物までが整然と並んでいた。観光客が数組、思い思いに棚を巡っている。
「お土産が、ここで揃いそうですわね」
月詠が、初めて口を開いた。背筋は伸びたまま。微笑みは、いつもより深かった。
夏凪の目が、一瞬、細くなった。
店に入って数分。姉妹たちはそれぞれの興味の対象に散り始めていた。
「美空姉さま」
月詠が美空の隣に立ち、声を低く落とした。
「フロントの方へお電話で確認をお願いできませんこと? 本日の宿へ戻る予定時間、夕食に遅れませんよう念のため」
美空が手を止め、月詠を見た。
「宿を出る際に確認しています」
即答だった。月詠の唇が、一瞬だけ動きかけて、止まった。
「次は何かしら」
美空が静かに目を戻した。月詠が、扇子の陰で息をひとつ。
月詠は夏凪のそばへ寄った。陳列棚の一角に、旅館のオリジナル浴衣の見本が掛けられている。
「夏凪姉さま、新色の浴衣が、ご覧ください、向こうの棚に。今年限定の柄だそうですわ」
夏凪は浴衣を見なかった。月詠を見た。
「……どうして今、それを私に?」
声は静かだった。けれど、目は鋭い。
「単なるご紹介ですわ」
「そう」
夏凪はそれだけ言って、視線をじゅんの方へ戻した。一歩も動かなかった。月詠の扇子が、少しだけ閉じる方向に動いた。
深雪は、棚の前で柚子の砂糖漬けを手に取っていた。
「深雪姉さま」
月詠が穏やかに声をかけた。
「物産コーナーに、珍しいお味噌があると伺いましたの。土地の蔵元のもので、お料理にお使いになるかと」
深雪が顔を上げた。微笑んだ。
「あら、それは興味深いですね。後で見に行きますね。——兄さんと一緒に」
月詠の扇子が、完全に閉じられた。
「……」
「月詠も、一緒にいかが?」
深雪が、静かな目で月詠を見ていた。月詠は微笑みだけを返した。返すしか、なかった。
氷華は、じゅんの左袖を握ったまま、棚の前で動いていなかった。
月詠が氷華の耳元に、半歩、近づいた。手の中の扇子で口元だけ隠し、囁いた。
「氷華姉さま。あちらの棚に、毛布のような肌触りのストールが——」
「……動かない」
氷華は顔も上げなかった。
「氷華姉さま」
「……」
応えなかった。代わりに、じゅんの袖を握る指先に、少しだけ力が籠った。
陽花は温泉まんじゅうの試食コーナーを見つけ、目を輝かせていた。
月詠が陽花の隣に立った。
「陽花さん、試食、行ってきてくださいませ。私が——」
「お兄ちゃんも一緒にー!」
陽花が言い終わるより早く、じゅんの手を握っていた。氷華が握っているのは袖だが、陽花は手そのものを握る。じゅんが目元を緩めて「ちょっと、陽花」と言い、月詠が口を開きかけたときには、陽花とじゅんは試食コーナーへ歩き出していた。
氷華も、当然ついていく。袖を握ったままだった。
試食コーナーから、声が聞こえた。
「陽花、口に詰めすぎないで」
夏凪だった。いつの間に追いついていたのか、もう陽花の隣に立っていた。
深雪も、微笑んで続いた。「兄さんが食べるなら、私もいただきます」。
美空も。「お会計の確認のついでに」。
——月詠だけが、棚の前に取り残された。
月詠は、しばらく動かなかった。
店内のざわめきが、急に遠くなった気がした。試食コーナーから、陽花の「うまーい!」という声が聞こえる。じゅんの笑い声。氷華の沈黙。深雪の柔らかな相槌。夏凪の「陽花、口に詰めすぎないで」。美空の「私はお茶を一杯だけ」。
全員が、じゅんの周りに、いた。
月詠は手の中の扇子を、ゆっくりと開いた。閉じて、開いて、閉じた。手の中で、紙の音が静かに鳴った。
——ふふ。手強いですわ。
月詠は優雅な歩幅で、姉妹たちの輪の方へ歩き出した。
第三幕
夕食前のひと風呂。それが旅館の作法だった。
女湯の暖簾をくぐった先には、檜の香りが満ちていた。脱衣所の籠が六つ並び、姉妹たちが衣擦れの音を重ねて服を畳む。陽花は早々に「はやくはやくー!」と裸足で大浴場へ駆け込み、深雪が「陽花、走ってはいけませんよ」と微笑みながら追う。美空は最後に脱衣所を見回し、籠の位置を整えてから戸を開けた。
大浴場は広かった。
高い天井に湯気が立ち上り、檜の浴槽から湯が静かに溢れている。窓の向こうには小さな坪庭。遅咲きの桜の枝が一本、灯籠の灯りに照らされている。客は他におらず、姉妹だけの貸切のような時間だった。
「ふわぁ……いい湯ぅ……」
陽花が浴槽に体を沈めて、両腕を広げた。金色の髪を頭の上でクリップに留めている。子供のような声で唸ると、隣で深雪が静かに笑った。
「陽花、肩までですよ」
深雪は浴槽の縁に腰を下ろし、白磁のような肩までゆっくりと湯に沈めた。その隣に、いつの間にか氷華が並んでいる。氷華は浴槽の角に身を寄せ、湯気の中で目を閉じていた。銀髪を頭の上にまとめ、首筋だけが湯の上に出ている。
夏凪は浴槽の反対側、深雪と向かい合う位置に座った。湯の温度を確かめるように、ゆっくりと首を傾ける。月詠は夏凪の隣。膝を折り、両手を湯の中で組み合わせていた。美空は最後に入り、全員の位置を一瞥してから、空いている場所——氷華の隣に身を沈めた。
六人が、湯に揃った。
「……湯加減、ちょうどいいですね」
深雪が静かに言った。誰に向けたものでもない呟きだった。
「ええ。露天の方が広いそうだけれど、夜は冷えるからこちらの方が——」
夏凪が応じる。
「明日の朝、露天に入ろう」
氷華が、目を閉じたまま言った。短く。けれど明確に。
「氷華、朝は冷えますよ」
「……毛布を持っていく」
「お風呂に毛布は、持って行ってはいけませんよ」
深雪と氷華の双子のやり取りに、陽花が「ひょかたん、お風呂に毛布はだめだよぉ」と笑った。氷華が「……陽花も入る」と応じ、陽花が「入らないもーん! 明日は朝ごはんが先!」と返す。
ささやかな会話が、湯気の中で柔らかく揺れた。
数分後。
月詠が、湯から肩を上げた。
「……少しのぼせましたわ」
軽く額に手を当てる仕草。
「月詠、もう?」
「ええ、姉さま方。少し早めに上がらせていただきますわね」
月詠が浴槽の縁に手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。湯滴が真白な肌を伝う。誰よりも身支度を整えるのが速いことを、姉妹たちは知っていた。
「お先に」
月詠が脱衣所へ消えた。
残された五人の間に、一拍の沈黙が落ちた。
「……何か企んでるわね」
夏凪が、湯を片手で軽く払いながら呟いた。確信の声だった。
「兄さんがお一人で散策に出られないよう、気をつけて差し上げないといけませんね」
深雪は、静かに視線を湯に落とし、穏やかな表情のまま、表面の波紋を見ている。微笑みながら。けれど目元は微笑んでいなかった。
氷華は目を閉じたまま、何も言わない。湯の中で組んでいた手の指が、わずかに動いた。
美空はタオルを頭に乗せたまま、天井の湯気を見上げていた。
「夕食までは、宿で待機していてもらいましょう」
仕切りの言葉だった。
陽花だけが「つくつく、お風呂上がるの早いんだぁ」と無邪気に呟いた。月詠の早抜けを策と読まないのは、陽花だけだった。
陽花の声が、五人の沈黙に風穴を開けた。
「お兄ちゃん、いま何してるかなぁ」
誰に向けたわけでもない、ぽつりとした呟き。
その一言で、空気が、ほんの少しだけ揺れた。
深雪が湯の中で、指先を一度、握り直した。
「……男湯にいらっしゃるはずですよ」
「ねぇねぇ、男湯って広いの?」
「同じくらいの広さだと聞いていますね」
深雪が穏やかに答える。
氷華が、初めて目を開けた。
「……ひとり?」
「他のお客様もいらっしゃるかもしれませんね」
「……」
氷華の指が、湯の中で再び閉じた。
夏凪は黙って湯を見ていた。湯の表面に、自分の顔が揺れて映っている。
——一日中、誰かが兄さんの隣にいた。今日も、明日も、ずっとそうだ。
夏凪は静かに立ち上がった。
「……私も、そろそろ上がるわ」
「夏凪姉さん、もう?」
「のぼせる前にね」
夏凪は脱衣所へ向かった。
脱衣所で、夏凪は浴衣に袖を通しながら、月詠の使った籠に目をやった。
浴衣は、もう、ない。
帯を結びながら、夏凪は廊下の方角を見た。
脱衣所の鏡に、長女の顔が映っていた。
第四幕
脱衣所に、湯気が薄く漂っていた。
他の姉妹たちが、まだ衣擦れの音を重ねているのを横目に、夏凪は脱衣所の戸に手をかけ、廊下に出ようとした、その時——
陽花の動きが、止まった。
タオルを頭に乗せたまま、ふと顔を上げた。鼻の先が、ほんのわずかに動いた。
「……あれ」
陽花は脱衣所の天井を、それから廊下の方を見た。理由はない。理由は、ないけれど。
「お兄ちゃん、宿にいないかも」
脱衣所の空気が、凍った。
誰一人、陽花の言葉を疑わなかった。陽花の『なんとなく』は、当たる。
美空の指が帯から離れた。
深雪のタオルがぴたりと止まった。
氷華が、ゆっくりと、目を開けた。
夏凪の手が、戸の取っ手から離れた。
夏凪が、ゆっくりと口を開いた。声は静かだった。
「……月詠の、好みそうな場所」
姉妹たちの視線が、夏凪に集まった。
「宿を選ぶとき、周辺の地図を一通り見たの。月詠が好きそうな景色を、頭の隅に置いてあった」
夏凪の指が、帯の縁にそっと触れた。
「夜桜と、月光と、川。たぶん、それらが揃う場所」
「あの子、和歌の世界が好きだから」
深雪が小さく、息を呑んだ。
美空がスマートフォンを取った。指の動きが速い。
夜桜と、月光と、川。三つの条件が揃う場所を、宿の周辺で探す。
「——川沿いの遊歩道、遅咲きの夜桜。徒歩、七分」
「陽花」
美空が顔を上げた。眼鏡の奥の目が、すでに仕切りの目に戻っていた。
「行きましょう」
陽花の足が、動いた。
陽花は浴衣の裾を片手で握り、廊下を駆け抜けた。髪はまだ濡れている。素足のまま、宿の畳廊下を一直線に走った。
「お兄ちゃーーん!」
声が、夜の旅館の天井に響いた。
深雪がその後を、同じ速度で追った。「陽花、足元に気をつけて」と言いかけて、自分も走っていることに気づき、口を閉じた。氷華が無言で続いた。
美空が「みなさん、下駄を」と言いながら自分も急ぎ足。夏凪が最後尾から、しかし視線は鋭く、姉妹たちの背中を追った。
旅館の玄関を抜け、石畳の坂を下る。月明かりが温泉街を照らしていた。
川沿いの遊歩道。夜桜の遅咲きが、街灯に照らされて、淡く揺れている。
桜並木の中ほどに、月詠が立っていた。
手の中の扇子は、半分だけ開かれている。隣には、じゅんがいる。月詠は何かを、ゆっくりと語っていた。声は穏やかで、夜風に乗っていた。
「——兄さま、この季節の遅咲きは、月光と相まって、昼の桜とは違う色をしておりますの。古来、夜の桜には、人の心を映す力があるとも申しますの——」
月詠の唇の端が、弧を描いた。
その時だった。
「お兄ちゃーーん!」
月詠の言葉が、ぴたり、と止まった。
陽花が桜並木に飛び込んだ。走ってきた勢いのまま、じゅんの右腕に飛びついた。
じゅんが受け止めて、笑った。「陽花、髪が濡れてるぞ」。陽花は構わず、両腕でじゅんの腕を抱え込んだ。えへへ、と満面の笑みだけが、桜並木の灯に照らされた。
月詠は、半開きの扇子を持ったまま、動かなかった。
数秒後、深雪が到着した。息を整えながら。穏やかな顔で。けれど、目は穏やかではなかった。
「——月詠」
深雪が、月詠の隣に立った。月詠の肩に、柔らかく、手を置いた。
「湯冷めしますよ」
深雪の指先が、月詠の肩を、半歩、押した。
柔らかく、しかし、決定的に。
月詠が一歩横へ動いた瞬間、深雪はもう月詠のいた位置に立っていた。じゅんの左腕を、自然に確保していた。
遅れて美空が到着した。「みなさん、夜風が冷えます」。氷華は無言で、じゅんの背後にすでに立っていた。夏凪が最後に到着し、月詠をじっと見た。
月詠は、その視線を受け止めた。
手の中の扇子を、一度、閉じた。
そして、開き直した。
夜桜を見上げて、月詠が口を開いた。
「相変わらずお早いですわね、姉さま方。——ゆっくりする暇もありませんわ」
声には、悔しさはなかった。あるとすれば、それは——艶だった。
——ふふ。こうでなくては、つまりませんわ
夜桜が一枚、月詠の髪に降りた。
夕食は和やかに進んだ。
大広間の長机に、姉妹とじゅんが並んだ。陽花は山菜の天ぷらに目を輝かせ、深雪は仲居に料理の手順を尋ね、美空は明日の朝食時間の確認をもう一度した。氷華はじゅんの隣で、お刺身を一切れずつ、ゆっくり食べた。月詠は最も優雅に、椀を傾けた。
夏凪は時折、月詠の方を見た。月詠は、視線を返さなかった。
夜が更けて、姉妹たちは大部屋に戻った。じゅんも、就寝の前まで一緒にいた。氷華が毛布にくるまって、じゅんの隣で何度も「もう少し」と繰り返した。
「氷華、じゅんは個室で寝るのよ」
夏凪が長女の声で言った。
「……知ってる」
氷華が小さく頷いた。それでも、毛布から出るまでに、五分かかった。
「おやすみ、みんな」
じゅんが、大部屋を出た。
障子が閉まる音。廊下を遠ざかる足音。
大部屋に、姉妹だけが残った。
月詠は窓辺の座布団に座り、扇子を膝に置いていた。閉じたまま、開かないまま。月明かりが障子越しに、月詠の白い肌を照らしていた。
第五幕
翌朝、六時半。
宿の障子の向こうから、薄い光が差していた。山の端に朝日が昇りかけて、空気が冷たい。
大広間の隅に、小さな茶器が並んでいた。
深雪が、宿の朝食の前に、自分の籠から取り出した道具を一式広げている。湯を沸かす小型のポット、急須、湯呑が一つ。
じゅんが、ふすまを開けて入ってきた。
「兄さん、おはようございます」
「おはよう、深雪。早いな」
「兄さんの一杯ですから」
深雪が湯呑を、じゅんの前に静かに置いた。
茶葉は、宿のお茶ではなかった。家から持参した、深雪が選び抜いた一品。湯気の中に、家の朝の匂いがした。
「いただきます」
じゅんが一口含んだ。深雪が、目を細めて、それを見ていた。
その時——
「……」
ふすまの陰から、銀色の髪が、ほんの少しだけ覗いた。
「氷華」
深雪が、振り返らずに名前を呼んだ。
「……一口」
氷華が小さく言った。
深雪が、ふすまの方を一度だけ見た。微笑んだ。
「兄さんに聞いてみてくださいね」
氷華が、ふすまの陰から半歩、出てきた。じゅんを見た。じゅんが湯呑を差し出した。
氷華は両手で受け取り、一口だけ飲んだ。
「……あったかい」
それだけ言って、湯呑をじゅんに返した。
深雪が、新しい湯呑を出した。今度は、氷華の分。ぬるめの湯も、最初から準備されていた。
「氷華、こちらは氷華のですよ」
「……うん」
氷華が、深雪の隣に座った。双子の朝が、静かに始まっていた。
チェックアウトを済ませた後、姉妹たちは温泉街の散策に出た。
午前中の光が、石畳の上に柔らかく落ちている。昨日の夕方とは違う、明るい温泉街の表情だった。
「お兄ちゃん、お団子! お団子あるよ!」
陽花が早速、団子屋の前で立ち止まっていた。じゅんが財布を出すと、陽花が「みたらしと、あんこと、ごま、全部! あと、お土産にも!」と即答する。
「陽花、お腹こわしますよ」
美空が即座に注意するが、深雪が「お昼は温泉街の食べ歩きで済ませる予定ですから、いいんじゃないかしら」と穏やかに引き取った。美空が眼鏡の位置を直し、納得した顔で頷く。
団子屋の隣には、温泉まんじゅう屋。その向こうに、コロッケの揚げたての香り。
「兄さま」
月詠が、いつもの摺り足で、じゅんの隣に並んだ。
「あちらに、揚げ物のコロッケが」
じゅんが「行こう」と頷いた。
陽花が両手にお団子の串を持ったまま、コロッケ屋へ。氷華がじゅんの袖を握ったまま、無言でついてくる。深雪が陽花の口元を紙で拭い、美空が会計をまとめ、夏凪が全体を見渡している。
石畳の通りを、家族が、ゆっくりと進んでいた。
月詠が、唇の端で、薄く笑った。
——今日は、みんなで楽しみましょう。
昼前、姉妹たちは満腹で車に戻った。陽花は両手にお土産の袋を抱えている。口元には、コロッケの油の小さな染みが残っていた。深雪がそれを紙で拭った。
じゅんがエンジンをかけた。
「みなさん、シートベルトお願いしますね」
美空の声で、車が出発した。
高速道路の帰路は、静かだった。
午後の光が、車のフロントガラスに柔らかく射していた。陽花が三十分もしないうちに眠り、両手のお土産袋を抱えたまま、月詠の肩にもたれかかった。月詠が「あら」と陽花の頬をそっと支え、自分も少しだけ目を閉じた。
深雪が窓の外を見ていた。夏凪は腕を組んで目を閉じ、美空は地図アプリを開いたまま、運転席のじゅんに時折、合流地点を伝えていた。
二列目の運転席真後ろで、氷華は、毛布の中で起きていた。
窓の外を、春の景色が流れていく。山の若葉、田んぼの水面、遠い山の稜線。氷華はそれを見ているのではなかった。バックミラーに、時折映るじゅんの目元を見ていた。
六花円舞曲に着いたのは、夕方の四時過ぎだった。
桜は、もう、ほとんど散っていた。庭の地面に薄紅色の絨毯が敷かれている。
姉妹たちが車を降り、荷物を運び込む。陽花が「もー疲れたー」と玄関で大の字になり、美空が「陽花、玄関で寝ない」と即座に注意した。深雪が荷物の中身を確認し、夏凪は自室へ消え、月詠は三階の階段を、ゆっくりと上がっていった。
夕食は、簡単に済ませた。深雪が温めた汁物と、旅館で買ってきたお漬物。誰も多くは食べなかった。お土産を片付け、洗濯機を回し、各自の部屋に旅の名残を運び込む。
午後八時過ぎ。
じゅんはリビングのテーブルで、片付けの最後の整理をしていた。陽花が抱えていたお土産袋から、姉妹それぞれの分を取り出して並べる。
ソファの端に、いつの間にか、毛布が置かれていた。誰の手によるものでもない、ように見える置き方で。じゅんはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
「陽花」
じゅんが、最初に呼んだ。
うとうとしながら、ソファでお団子の包みをまだ握っていた陽花が、顔を上げた。
「ふえ?」
「宿の外にいたことが、わかるなんて、すごいね」
陽花が、しばらく考えるような顔をした。それから、両手のお団子の包みを胸の前で握り直した。
「……えへへ、わかんないけど、なんとなく、宿にお兄ちゃんがいない気がしたの」
じゅんが頷いた。陽花が、もう一度「えへへ」と笑って、お団子の包みを抱えたまま、自室へ向かった。途中で深雪が「陽花、お風呂に入ってから、お休みなさいね」と声をかけ、陽花が「はーい!」と元気に応じた。
次は、月詠だった。
月詠が、紅茶を淹れたカップを片手に、リビングを横切ろうとしていた。
「月詠」
月詠が立ち止まった。
じゅんが小さな夜桜の栞を渡す。
「あの場所、きれいだったな。月詠が選びそうだと思った。今度は、月見をしような」
月詠の指が、カップの取っ手の上で、ほんの少しだけ動いた。
「……兄さま」
手のひらの上の栞を、しばらく見つめ、それから、ゆっくりと、唇を開いた。
「ええ、それは、とても楽しみですわ」
薄く微笑んだ。桜並木で見せた笑みとは違う、年相応の笑みだった。
大事そうに栞を胸元に仕舞い、ゆっくりと三階への階段を上がっていった。
次は、深雪だった。
深雪が、キッチンの片付けを終えて、エプロンを外していた。リビングのソファの端の毛布が、わずかに動いた気がしたが、深雪は何も言わずに、じゅんの方へ顔を向けた。
「深雪、ありがとう。料理も、それから——みんなを、見ていてくれて」
深雪の手が、エプロンを畳む途中で、止まった。
ほんの一瞬。けれど、確かに、止まった。
「……兄さん」
エプロンを丁寧に畳み終えてから、顔を上げた。
「また、明日も、淹れますね」
穏やかな声だった。けれど、目の奥に、確かな満足があった。深雪は、エプロンを抱えて、自室へ向かった。階段の途中で一度だけ、振り返った。じゅんが頷いた。深雪は、微笑んで、上がっていった。
次は、美空だった。
美空が、ダイニングのテーブルで、明日の予定を確認している。タブレットの画面に、生徒会の翌日のタスクが映っていた。
「美空」
「兄さん」
美空がタブレットから顔を上げた。眼鏡の奥の目が、まっすぐにじゅんを向いている。
「ありがとう。今回も、美空がいてくれて助かった」
美空の指が、タブレットの上で、一拍止まった。
「……当然のことです」
声は冷静だった。けれど、頬に、薄く色が差していた。
「兄さんが、楽しまれたなら、それで」
美空がそれだけ言って、タブレットを閉じた。立ち上がり、自室へ向かう。
「……おやすみなさい」
声が、少しだけ、柔らかかった。
最後は、夏凪だった。
夏凪が、廊下から戻ってきた。私服のジャケットを脱いで、ハンガーにかけ終えたところだった。
「夏凪」
「ん?」
「企画も、まとめ役も、ありがとう」
夏凪が、ジャケットのハンガーを壁にかけた。振り返らないまま、しばらく動かなかった。
「……別に。長女ですから」
いつもの、長女の声だった。
「みんな、楽しかったみたいだから、それで、いいわ」
夏凪が振り返った。じゅんを見た。長い黒髪が、リビングの灯りを受けて柔らかく光った。
「じゅん、運転、お疲れさま」
短く、それだけ言って、夏凪は自室へ向かった。
リビングが、静かになった。
じゅんはソファに座り、テレビを点けようとして——やめた。
ポケットのスマートフォンが、短く震えた。
画面を取り出した。チャットの通知。差出人は、美琴二凛。
じゅんが画面を開いた。
『おかえりなさいませ。
温泉旅行、楽しかったですか?
お風邪を召されませんように』
じゅんが、画面を少しだけ見つめた。
短く返信を打った。
『ただいま。楽しかったよ。』
送信した。スマートフォンを、テーブルの上に伏せて置いた。
ソファの隣に、氷華が、いた。
いつから、と、じゅんは聞かなかった。氷華は毛布を肩にかけて、じゅんの隣に、ぴったりと身を寄せていた。両手で毛布の端を握って、首だけをじゅんの方に少しだけ傾けている。
「……お兄」
氷華が、小さく言った。
「ん」
「……楽しかった」
短く、それだけ言った。
「ああ」
「みんなで、楽しかった。お兄を、ずっと見ていられた」
「……」
「桜も、お風呂も、お夕食も、月詠のあれも。みんな笑ってた」
「ああ」
「だから、家でも」
氷華が、じゅんの肩に、頭を、預けた。
「家でも、続いてる」
じゅんが、何も言わなかった。
氷華の睫毛が、ゆっくりと、伏せられた。
眠ったのではなかった。起きていた。起きていて、選んで、目を閉じた。
じゅんの肩の上で、銀色の髪が、リビングの灯りを薄く受けていた。氷華の呼吸が、じゅんの肩に、規則的に伝わってきた。
窓の外で、桜の最後の花びらが、夜風に乗って、ひらりと落ちた。
春が、終わろうとしていた。




