第十八話 長女のGW計画
ゴールデンウィークの三か月前のある日。
*
夏凪の部屋は、黒とダークグレーで統一されている。
キングサイズのベッドは皺ひとつなく整えられ、ゴールドのフレームだけが照明を静かに拾っていた。全身鏡の前に立つ必要のない午後。カーテンの隙間から差す光が、床の上に細い帯を引いている。夏凪はベッドの端に座り、膝の上でスマートフォンを操作していた。
画面には、旅行サイトの検索結果が並んでいる。
「温泉 二人 ゴールデンウィーク」。
スクロールする指が、一つの宿の写真で止まった。露天風呂付き客室。窓の向こうに山の稜線。食事は部屋出し。レビューには「カップルにおすすめ」の文字。夏凪の視線がその一行を通過するとき、指先が一瞬だけ画面の上で浮いた。
——カップル。
頭を振った。違う。調べているだけだ。長女として、連休の選択肢を広く検討しているだけ。二人用の部屋を見ているのは、比較のため。それ以外の理由はない。
階下から、声が聞こえた。
「お兄ちゃーん、おやつー!」
陽花だった。リビングの方角から、美空の「陽花、走らないの」が追いかけてくる。その向こうに、じゅんの笑い声がかすかに混じった。
夏凪の親指が、画面の上で止まった。
声が聞こえる。いつもの午後の音。妹たちがじゅんの周りで花を咲かせる、あの音。自分だけが二階にいて、画面の中の「二人」を見ている。
検索履歴を消した。
新しいタブを開く。指が打った文字は、「温泉 家族 大人数 ゴールデンウィーク」。
大部屋のある旅館。露天風呂。観光地への散策コース。全員で泊まれる宿を、夏凪は黙々と探し始めた。ブックマークに三件保存し、料金と空室状況を比較する表をメモアプリに作った。長女の仕事だった。長女だから、やる。
画面を閉じたとき、ロック画面の壁紙が一瞬だけ映った。黒地にゴールドのネックレスの写真——自分の撮影カットだ。その奥に、さっきまで見ていた「二人用の露天風呂付き客室」の残像が、まぶたの裏に残っていた。
夏凪は立ち上がった。髪を一度だけ手で梳き、部屋を出た。
*
リビングのテーブルに、七つの湯呑が並んでいた。
深雪が淹れた煎茶の香りが、午後の空気に溶けている。じゅんがソファの中央に座り、その右に氷華が毛布ごと密着していた。左側では陽花がクッションを抱えて体育座りをしている。美空がダイニングテーブルの端で書類を整理し、月詠が三階から降りてきたところだった。
夏凪が階段を降り、リビングの入口に立った。
「——みんな、ちょっといい?」
声は落ち着いていた。視線がリビング全体を一度だけ巡る。仕切る声。
六つの視線が集まった。
「ゴールデンウィークのことなんだけど」
夏凪がソファの向かい側に腰を下ろした。背筋は伸びたまま。膝の上でスマートフォンを開き、メモアプリの画面をテーブルに置いた。
「一泊で温泉旅行に行こうと思って。旅館は三件候補を出してあるわ。大部屋があるところを選んだから、全員で一緒に過ごせる」
美空がダイニングテーブルから顔を上げた。
「……夏凪姉さんが企画を?」
「連休くらい、私が仕切るわ」
美空の目が一瞬だけ細くなった。普段の夏凪は企画も段取りも妹任せだ。大掃除の割り当ても美空が作り、朝食の献立も深雪が決め、買い出しリストも美空と深雪の合作。夏凪が自分から「仕切る」と言ったのは、数えるほどしかない。
「夏凪姉さんが動いてくれるなら、私としては助かります。——資料、見せてもらえますか」
美空が席を立ち、夏凪のスマートフォンを覗き込んだ。三件の旅館の比較表。料金、部屋の広さ、温泉の泉質、最寄り駅からのアクセス。項目は整理されていたが、フォントサイズがばらばらで、一つの宿だけ背景色が違っていた。機械音痴の夏凪が、慣れないメモアプリで一生懸命作った跡だった。
美空は何も言わなかった。表の体裁については、後で自分が直せばいい。
「陽花はどう思う?」
「温泉! やったー!!」
陽花がクッションを放り投げて立ち上がった。全力の賛成だった。行き先がどこであれ、みんなで行くなら全力。それが陽花だった。
深雪がキッチンの入口から微笑んだ。
「いいですね。旅館のお食事も楽しみですけれど……朝、兄さんのお茶だけ、私に淹れさせていただけますか? 道具を持っていきますから」
行き先ではなく、じゅんの一杯。深雪の関心は最初からそこにしかなかった。
氷華は毛布の中から動かなかった。じゅんの右腕に頬を預けたまま、視線だけが夏凪のスマートフォンに向いた。
「……お兄が行くなら」
それだけだった。それ以上の言葉は必要なかった。行き先も日程も泉質も、氷華には関係がない。じゅんがいる場所が目的地だった。
月詠はソファの端に座り、膝の上でスマートフォンを操作していた。画面は他の誰にも見えない角度に傾けられている。指の動きは速く、正確だった。メッセージアプリが開いているのは、扇子の角度でかろうじて読み取れた。宛先も文面も、誰にも見えなかった。
送信。三秒後に画面が小さく震え、月詠が返信を読む。読み終えたとき、扇子の陰で唇がわずかに弧を描いた。それだけだった。
じゅんが湯呑を置いた。
「いいな、温泉。——どこがいいかな」
三件の候補を見比べている。どれも条件は悪くない。一件目は山間の老舗旅館、二件目は海沿いのリゾート型、三件目は小さな温泉街の和風旅館。じゅんの指が、三つの写真の間を行き来した。それぞれに良さがある。どれも悪くない。だからこそ、決められない。
「うーん……」
夏凪が口を開いた。
「三件目でどう。温泉街を歩けるし、大部屋も十分な広さがある。全員で夜まで過ごせるし」
声は落ち着いていた。提案というより、決定だった。
「ここは私に任せて」
じゅんの指が止まった。
三件目の写真——温泉街の石畳、古い旅館の玄関、提灯の明かり。夏凪が選んだのなら、それでいい。判断の根拠が自分の中になかった以上、夏凪の一言は、そのまま通る。
「じゃあ、三件目で」
決まった。
夏凪の提案が通った瞬間、リビングの空気が自然に動いた。異論はなかった。美空は旅館のサイトを自分の端末で開き、空室状況の確認を始めた。深雪は旅館に持参するお茶の道具を頭の中で数えている顔をしていた。陽花は「温泉街! 食べ歩き!」と既に次の段階に進んでいる。氷華は何も言わない。じゅんが行くなら、決まった場所に行くだけだった。
誰も、この決定の速さに違和感を持たなかった。じゅんが三つの候補で迷い、夏凪の一言で決まった。それだけのことだった。長女が仕切ると言ったのだから、その提案が通るのは当然だ。——少なくとも、この場にいる全員がそう感じた。
月詠のスマートフォンがもう一度震えた。画面を確認し、何事もなかったようにしまう。扇子を開き、口元を隠した。
「とても楽しみですわ」
一言だけ。声は穏やかだった。美空が扇子の向こうの月詠を見た。
「……月詠、あなた何か企んでないでしょうね」
「まあ、美空姉さま。旅行を楽しみにしているだけですのに」
扇子の陰で、月詠の唇が弧を描いていた。美空はそれ以上は追及しなかった。追及しても、月詠の笑みは消えない。
美空が旅館の予約画面を開き、日程と人数を入力していく。
「大部屋一室と、兄さんの個室一室。食事は夕食・朝食付き。チェックインは十五時。——夏凪姉さん、移動手段は?」
「車で行けるわ。じゅんの車なら八人乗りでしょう」
「荷物を考えると、少し詰めますね。事前に宅配で送る分を——」
「私が手配する」
美空の指が一瞬止まった。夏凪が段取りまで引き受けようとしている。普段なら「あとはよろしく」で終わるのに。
「……わかりました。では荷物リストだけ私が作ります。各自の持ち物は自己管理で」
役割が分かれた。夏凪が全体を仕切り、美空が実務を補佐する。
深雪が茶を注ぎ足しながら、穏やかに言った。
「姉さん、旅館のお食事は何時からですか?」
「十八時半。遅い時間も選べるけど、陽花が持たないでしょう」
「えー! 私、おなかすいても我慢できるもん!」
「昨日、四時半におやつを三回おかわりしたのは誰?」
「……あれは特別!」
夏凪の口元がわずかに緩んだ。長女の顔を保ったまま、妹をあしらう。こういう呼吸は、夏凪の方が上手かった。仕切ることと、場を和ませること。美空にはできない長女の仕事が、確かにある。
氷華が毛布の中から声を出した。
「……大部屋、布団は何枚?」
「八枚まで敷けるそうよ」
「お兄の隣」
「氷華姉さん、兄さんは個室よ。就寝の時は別」
「…………」
氷華の沈黙は、了承ではなかった。次の手を考えている沈黙だった。就寝までは大部屋にじゅんがいる。ならば、就寝の直前まで隣にいればいい。それは氷華にとって、呼吸と同じくらい自然な計算だった。
*
会議が終わったのは、夕食の準備が始まる頃だった。
美空が予約を完了し、深雪がキッチンに入り、陽花が「温泉で泳げる?」と聞いて美空に「泳げません」と即答されている。月詠はとうに三階へ戻っていた。氷華はじゅんの隣から動いていない。
夏凪はリビングに残っていた。
ソファの向かい側。さっきまで全員がいた空間に、今は夏凪とじゅんと、じゅんの右腕に張りついた氷華だけが残っている。
「——氷華、味見をお願いできますか」
キッチンから深雪の声がした。穏やかで、けれど断れない種類の柔らかさがあった。
氷華が毛布の中で一度だけ動いた。
「……うん」
立ち上がり、毛布を引きずりながらキッチンへ向かう。リビングを出る前に、一度だけじゅんを振り返った。視線の意味は「すぐ戻る」だった。
二人きりになった。
夏凪は、氷華がいた場所——じゅんのすぐ右——には座らなかった。向かい側のソファに、さっきと同じ姿勢で座っている。膝の上のスマートフォンは画面が消えている。
「夏凪」
「……なに?」
「仕切ってくれて、ありがとう。」
夏凪の肩が、わずかに動いた。
「……別に」
「長女ですから」の鎧が、二人きりになった途端に薄くなっている。
じゅんは湯呑を手に取った。煎茶はもう冷めている。一口飲んで、湯呑をテーブルに戻した。
「温泉街、いいところ選んだな。石畳の散策路がある宿」
「……ええ。みんなで歩けるし、お土産屋さんもあるから陽花が退屈しないわ」
「夏凪も楽しめそうか?」
「私は……みんなが楽しめればそれでいいのよ」
じゅんは何も言わなかった。
数秒の沈黙が落ちた。キッチンから深雪の包丁の音が聞こえる。廊下の向こうで陽花が何か歌っている。夕方の六花円舞曲に、家の音が満ちていた。
じゅんがソファから立ち上がった。
「夕飯の支度、手伝ってくるよ」
「ええ」
じゅんがリビングを出かけたところで、半歩だけ振り返った。
「夏凪」
「……なに?」
「二人で行きたいところ、また今度な」
夏凪の唇が動いた。噛もうとした。反射だった。本音を閉じ込めるために、いつもそうする。唇の内側に歯が触れかけて——止まった。噛みきれなかった。歯と唇の間に、中途半端な力だけが残った。
じゅんはそれ以上何も言わず、リビングを出た。足音が廊下を遠ざかっていく。
夏凪は動けなかった。
——全部、バレてるのよ。きっと。
検索履歴は消した。「二人」の文字は画面のどこにも残っていない。メモアプリには「家族 大人数」の比較表しかない。なのに、じゅんは知っている。知っていて、今この瞬間に言った。「また今度」。否定ではない。先送りでもない。——約束だった。
夏凪はスマートフォンを手に取った。画面を点けた。ロック画面の壁紙——黒地にゴールドのネックレス——の向こうに、さっき消したはずの検索履歴の残像が見えた気がした。
消したのに、残っている。自分の中に。
唇にまだ、噛みきれなかった力の跡が残っていた。歯が触れた場所が、ほんの少しだけ熱い。
夏凪はスマートフォンを、画面を下にしてテーブルに置いた。そっと、音を立てずに。今日は、何も送らない。送る相手は廊下の向こうにいる。画面を伏せることで、見ない、と自分に言い聞かせた。
「また今度」を受け取った。受け取って、しまい込んだ。胸の奥の、誰にも見せない場所に。
*
その夜。
じゅんは自室のデスクでノートパソコンを開いた。メッセージアプリを立ち上げ、短い文面を打つ。
宛先は、葛城二華。
『GW、一泊で温泉旅行に行くことになった。全員で。日程と行程は添付の通り』
送信。
二分後、返信が届いた。
『承知いたしました。私どももお休みをいただきます。楽しんできてください、じゅんさん。——アイと二凛もよろしくと申しておりました』
廊下の向こうで、かすかに足音がした。夏凪の部屋のドアが閉まる音。妹たちはもう自室に戻っている時間だった。
ノートパソコンのモニターが消え、デスクの上に暗がりが落ちた。窓の外には春に向けた風が吹いていた。




