第十七話 明日も隣
六限目の終業チャイムが鳴っても、亜麻柳 舞は机に突っ伏したままだった。
黒髪の無造作なショートボブが、腕の上に散らばっている。ブレザーのボタンは上から下まで全開。プラチナゴールドのリボンは結び目が見えないほど緩い。目を閉じているのか開いているのか、伏せた顔からは判別できなかった。
隣の席で、氷華が文庫本を閉じた。
教室に残っている生徒はまばらだった。帰り支度をする者、部活に向かう者。その流れの中で、舞だけが動かない。
「まいまい、生きてるー?」
声と一緒に、甘い香りが近づいた。一つ下の階から上がってきたのだろう、息がわずかに弾んでいる。
鳳凰寺 奏音。ミルクティーベージュの超ロングが、歩くたびに腰のあたりで柔らかく揺れている。毛先がゆるく巻かれ、耳の上に留めた花柄のヘアクリップが三つ、教室の照明を受けて控えめに主張していた。ラベンダーパープルの瞳は今日も明るい。ペールバイオレットのリボンがきちんと結ばれた制服は、胸元にアクセサリーチェーンが一本追加されているほかは校則の範囲に収まっている——のは、ネイルアート同好会会長としての最低限の配慮だった。
舞が顔を上げた。茶褐色のジト目が奏音を捉える。
「……生きてる。眠い」
「六限、何だった?」
「数学」
「あー、そりゃ眠い。——はい、これ」
奏音が舞の机の端に腰をかけ、スマートフォンの画面を差し出した。手元のケースには小さな猫のチャームがぶら下がっている。舞の目が一瞬それに吸い寄せられ、すぐにジト目に戻った。
奏音はそれを見逃さなかったが、今は別の用件があった。画面には、メッセージアプリのグループが開いている。「尊みの守り手」——学園内で氷華を推す者たちの集まりだった。百名近い会員を擁する組織の活動は、学園では広く知られている。
「今日のシフト、確認してほしいんだけど」
舞が画面に目を落とした。メッセージが数件並んでいる。会員からの昼休みの観測報告。氷華が中庭のベンチで本を読んでいたこと、隣に誰も座らなかったこと、十二時四十分に教室へ戻ったこと。簡潔な報告文の末尾に、一行だけ添えてあった。「本日も尊かったです」。
その下に、別の報告が続いていた。「本日10:25、朝霧じゅん氏の車両が正門前を通過。氷華様との接触なし。歩幅差の記録は保留」。
「……じゅんさんの車まで記録してるの」
「だってひょかたんに関わる情報は全部大事じゃん。じゅんさんの動きはひょかたんの表情に直結するんだよ?」
舞は否定しなかった。面倒そうに息をついただけだった。
教室の後ろで、帰り支度を終えた女子生徒が二人、こちらを見て小さく会釈した。画面は覗き込まない。足も止めない。そのまま教室を出ていく。
それが、一般会員である観測者の距離感だった。
尊みの守り手は、奏音が作った組織だった。
三年前。中等部二年になったばかりの奏音が、廊下で氷華を初めて見た。転入してきた六姉妹の三女。青みがかった銀色の髪が窓からの光を受けて、廊下の空気ごと色を変えたように見えた。奏音はその場で立ち止まり、十秒間、声を出せなかった。隣を見ると、黒髪ショートボブの少女が、同じ氷華をジト目で見ている——というより、当然のようにそばを歩いている。一学年上の亜麻柳 舞。
奏音は三日後に舞に声をかけた。「亜麻柳先輩、ひょかたんのそばにいたい人、あたし以外にもいると思うんです。でも距離感を間違えたら、ひょかたんの世界が狭くなる。だから、ルールが必要です。——先輩、代表やってください」
舞は断った。「めんどくさい」。
奏音は翌日また来た。もう敬語ではなかった。「まいまい、いつも隣にいるでしょ。一番近くにいる人が代表じゃなきゃ、説得力ないじゃん」
舞は「いつからまいまいになった」と言ったが、否定はしなかった。奏音は三日目にパフェをおごり、四日目にかわいい猫柄のポーチを見せ、五日目に「代表って言っても名前だけでいいから。あたしが全部やるから」と言った。
六日目に、舞は折れた。パフェが決め手だったのか、ポーチが決め手だったのかは、本人も覚えていない。
以来、尊みの守り手の代表は舞で、実務は奏音が回している。二人は守護者——組織を束ねる幹部だが、舞が実際に束ねていることは何もない。全員が奏音の定めたルールに従っていた。
観測する。記録する。しかし、近づきすぎない。
写真は撮らない。動画も撮らない。共有ノートには日付、時刻、場所、行動の概要だけを記載する。それが「尊み」の流儀だった。氷華が喜ぶかもしれないことは、そっと差し出す。奏音と舞が氷華の爪に雪の結晶のネイルを施したのも、氷華が嫌がらないラインを見極めたうえでのことだった。拒まれたら即座に引く。受け入れてくれたなら、その距離を守る。
「記録は愛。でも盗撮はダメ。そこの線引き、まじ大事」
奏音が画面の上で指を動かしながら言った。半分は自分への確認で、半分は——この場にいない会員たちへの教えだった。
「ひょかたんが嫌がることは、絶対にしない。ひょかたんの世界を狭くすることは、もっとしない。あたしたちは見守るだけ。それが尊みのルール」
奏音がノートに入力を終え、画面をロックした。爪には今日も精緻なアートが施されている。左手の薬指だけに、小さな雪の結晶。氷華のイメージカラーだった。
氷華はその間、文庫本を鞄にしまい、静かに席を立っていた。教室を出ていく氷華の背中を、舞のジト目がさりげなく追う。青みがかった銀色の髪が、廊下の光に淡く溶けた。
「行った?」
奏音の声が、少しだけ温度を変えた。
「……図書館」
「オッケー。——まいまい、今日はどこまでつく?」
「閲覧室の前まで」
「中には入らないの?」
「入ったら、となりに座りたくなる」
奏音が一瞬、目を丸くした。それから柔らかく笑った。
「……まいまい、それ尊いね」
「うるさい」
舞が立ち上がった。一見だるそうだが、椅子が音を立てなかった。足の運びに揺れがない。コンパクトな体躯の中に、重心が正確に収まっている。制服のスカートの裾が一瞬だけ遅れて揺れたのは、立ち上がる速度が見た目より速かったからだった。
ブレザーのポケットに手を入れたまま歩き出す舞の背中に、奏音が小さく声をかけた。
「あたし、観測者の子たちに連絡してから追いつくね」
「……好きにして」
舞は振り返らなかった。ポケットの中のキーホルダー——パフェ型の、小さなもの——に指先が触れていることを、奏音は知っている。
*
閲覧室の前に、舞は立っていた。
壁に背を預け、スマートフォンを開いている。画面にはSNSが映っているが、スクロールする指は動いていない。ジト目は画面の上を通り越して、閲覧室の入口ガラスの向こうを見ていた。
窓際の席に、氷華が座っていた。文庫本を開いている。顔が本に近い。ページをめくる手が遅い。集中しているのか、眠いのか。たぶん、両方。舞にはわかった。隣の席でずっと見てきた距離感だった。
三年生の男子生徒が一人通りかかった。眼鏡越しに舞の姿を認め、軽く目礼して通り過ぎた。足を止めない。声もかけない。「ここにいる」ことだけを確認し、そのまま去っていく。それが上級会員である騎士の所作だった。
舞のスマートフォンが震えた。奏音からのメッセージ。
『ひょかたんの隣の席、空いてるっぽくない? 座りたくない?(笑)』
舞は返信を打たず、スマートフォンをポケットにしまった。
閲覧室から、下級生の一人が出てくる。すれ違いざまに、舞の存在に気づいて軽く会釈した。舞がだるそうに頷き返す。下級生が去ったあと、舞は壁に背を預け直した。
二十分が過ぎた。
スマートフォンにもう一件、通知が入った。奏音ではなかった。差出人は「朝霧さん」。
舞の指が止まった。
『舞、今日もありがとう。気をつけて帰ってね』
文面はそれだけだった。昼のうちに、氷華が今日の動線でも送ったのかもしれない。あるいは、舞が放課後、ここに立つこと自体、もうとっくに知られているのかもしれなかった。
舞はメッセージを閉じた。返信は打たなかった。
画面が暗くなる前に、ロック画面の壁紙が一瞬だけ映った。——カレイド学園の制服のリボンを模した、小さなイラスト。誰にも見せたことはない。
廊下の向こうから、奏音が歩いてきた。手にはコンビニの袋。
「まいまい、チョコ買ってきた。パフェ味」
「……ありがと」
舞が受け取った。奏音が隣に立ち、氷華を見る。
「今日のひょかたん、何読んでるんだろ」
「……中原中也」
「え、見えるの?」
「背表紙の色でわかる。あの棚の詩集の並びだと、白地に細い帯」
奏音の爪が、チョコレートの包みの上でぴたりと止まった。雪の結晶の描かれた薬指の爪先が、包装フィルムの上をそっと撫でた。ラベンダーの瞳が舞を見た。
「……まいまい、本気でひょかたんのこと観てるんだね」
「観測してるだけ」
「同じだよ、それ」
舞はチョコを一つ口に入れた。パフェ味は甘かった。
*
氷華が本を閉じた。鞄を手に取り、席を立つ。舞と奏音は反射的に半歩退いた。棚の陰に入る。足音はしない。
氷華が図書館を出た。
髪が、夕陽の中で薄い金色を帯びた。急いでいない。誰かを待ってもいない。ただ、帰る。
氷華が二歩、歩いた。
そして、振り返った。
舞と目が合った。
舞のジト目が、一瞬だけ鋭くなった。——見つかった。
視線はすぐにジト目に戻った。
氷華が首をわずかに傾けた。視界の端に奏音の存在も捉えているはずだが、舞だけを見ていた。表情は変わらない。責めてもいない。訝しんでもいない。ただ、確認していた。
「舞、明日も隣?」
声は小さかった。他の生徒がいても聞こえなかっただろう。
舞は、一拍だけ間を置いた。
「……席替え、してないからね」
氷華が「そう」とだけ言った。前を向き、歩き出す。夕陽の中を、銀色の髪が遠ざかっていく。足音は静かだった。
舞は、息を一つ吐いた。
——知ってたのか。
知っていて、たった七文字で聞いた。
それは問いではなかった。その距離を、もう日常として受け取っている声だった。
——いてもいい、と言われたのと同じだった。
奏音が横で、小さく息を呑んでいた。スマートフォンを持つ手が止まり、雪の結晶の描かれた薬指の爪先だけが、画面の上をそっと撫でた。
「……まいまい」
「観測ログ、今日の分」
「うん」
「備考欄に一言だけ書いて。——『対象、こちらを認知。拒絶なし』」
奏音は何も言わず、指を動かした。
廊下に夕陽が差していた。氷華の背中が角を曲がるまで、舞はその場を動かなかった。足音が完全に消えてから、ようやく歩き出す。チョコレートの甘さが、舌の上にまだ残っている。壁紙の制服のリボンは、ポケットの中で画面ごと暗くなっていた。
明日はあの隣に、また座る。
——めんどくさい。でも、しかたない。
口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。弧を描くには足りない。けれど、さっきまでのジト目とは、確かに違う顔だった。




