第十六話 来なくていい
カメラのシャッター音が、白い空間に規則正しく刻まれていた。
夏凪は、レフ板の光の中に立っている。背筋を伸ばし、顎を引き、左足を半歩前に出す。視線はレンズの三センチ上。笑わない。媚びない。ただ、在る。
黒のハイネックニットに、黒のレザーのミニタイト。ゴールドのネックレスが鎖骨の上で光を受けている。スタジオの照明は右斜め四十五度から。夏凪の左頬に影が落ち、アンバーゴールドの瞳が深くなる。
「いいよ、そのまま。——次、横顔」
カメラマンの声に、夏凪が無言で体の角度を変えた。首筋のラインが照明に浮かぶ。シャッターが三回鳴った。
「OK、ワンセット上がり。十五分休憩」
ポーズを解いた。肩を一度だけ回す。それ以外に疲労の気配はない。撮影中の夏凪には、隙がなかった。
スタジオの隅から、足音を立てずに一人の女性が近づいた。
如月 ベル(きさらぎ べる)。夏凪の専属マネージャー。
ダークブラウンのロングストレートが、歩くたびに背中で静かに揺れた。深みのあるグレイッシュグリーンの瞳は、穏やかだが隙がない。ダークネイビーのテーラードジャケットの下に、瞳と同系色のグレイッシュグリーンのブラウス。細身のスラックスと、ローヒールのレザーシューズ。派手さはどこにもなかった。撮影現場に馴染む、けれど安っぽくない。夏凪の黒とゴールドを引き立てるための、計算された一歩引きの洗練だった。
「夏凪さん、お水です。次のセットまでに衣装を確認させてください」
ペットボトルを差し出す手際に迷いがない。ベルガモットの微かな残り香が、スタジオの無機質な空気に一瞬だけ混じった。夏凪が受け取り、キャップを開けた。
「ベル、午後のイベント、何時入り?」
「十三時半で押さえています。リハーサルは十四時から。衣装はこちらで」
ベルがタブレットを開き、画面を夏凪に向けた。午後のスケジュール、会場レイアウト、動線図。すべてが一枚のシートに収まっている。夏凪は二秒で目を通し、頷いた。
「——会場のスタッフは?」
「桐谷さんが現場を仕切ってくれています。事務所からも二名出しています」
夏凪がペットボトルに口をつけた。カメラマンがレンズを交換している音が、スタジオの奥から聞こえる。
「ベル」
「はい」
「今日の照明、右が強い」
「カメラマンに伝えますか?」
「……いい。合わせる」
ベルが小さく頷いた。夏凪の要求と妥協のラインを、ベルは正確に知っている。伝えたのは不満ではなく、報告だった。合わせる、と言った以上、次のセットでは右からの光に最適化した角度を自分で作る。それが夏凪のやり方だった。
ベルがタブレットに視線を戻した。画面の端に、午後のイベント参加者リストが並んでいる。
*
午後。都内のイベントスペース。
夏凪の所属事務所は大手ではない。所属タレントは十名に満たず、テレビの露出より雑誌とブランドの仕事を軸にしている。その代わり、ファンとの繋がりを大切にしていた。普段の撮影はスタジオで行うが、季節ごとに開くイベントでは、ファンクラブの参加型企画を事務所のサポートのもとで運営する。夏凪のファンクラブ「黒耀のランウェイ」は、そうした方針の中で育った組織だった。
会場のBブロックで、インカムをつけたショートヘアの女性が動線を確認していた。
桐谷 沙耶。黒耀のランウェイの幹部である機関長。二十一歳、大学三年生。元は一般会員の崇拝者だったが、イベントの手伝いを買って出るうちにベルの目に留まり、昇格した。
「Bブロック、来場動線いけます。Aブロック側の立ち見エリア、あと五分で開放します」
インカムの向こうにいるのはベルだった。桐谷の報告にベルの「了解」が返る。静かで短い応答だった。
受付の向こうに、制服姿の一群が見えた。聖カレイド学園の生徒たちだった。休日だが、制服で来る子も私服の子もいる。その中に、チェスナットブラウンの外はねのミディアムヘアを揺らしながら入場ゲートをくぐる少女がいた。
柚木 すず(ゆずき すず)。放送委員であり、黒耀の崇拝者。
「うわ、広い……! ねえ見て、あっちにフォトスポットある!」
すずは一緒に来た学園の仲間たちと声を上げた。会場には同年代の学生も多かったが、スーツ姿の社会人や、私服の大学生もいる。学園の外から来ている人たちだった。すずの隣にいた友人が「すずちゃん、あの人たち学園の人じゃないよね」と小声で言い、すずが「学園内の会員は120人くらいだけど、学園外も合わせると三千人も会員がいるんだよ」と返した。
それが、秩序の請負人や白亜の聖域との一番の違いだった。
十四時半。メインステージに夏凪が現れた。
会場が、一瞬だけ静まった。
黒のワンピースに、ゴールドのベルト。ハイヒールの音がマイクに拾われないほどの正確な歩幅。照明がステージを照らし、夏凪の黒髪が光を吸い込んで艶を返す。
すずは息を止めていた。学園の廊下で見る夏凪とは違う。あの近寄りがたさは同じだが、ここでは全身が「見られるためにある」という説得力を纏っている。モデルという職業の意味を、すずは初めて理解した気がした。
「……すごい」
隣の友人が何か言ったが、すずの耳には入らなかった。
夏凪がファンに向けて話し始めた。声は落ち着いていて、言葉は短い。媚びない。けれど、視線はちゃんと会場の奥まで届いていた。壇上から見下ろすのではなく、同じ目線を保とうとしている。ファンが質問すれば、ほんの少しだけ口角を上げて答える。それだけで、会場の空気がやわらかくなった。
Cブロックの端で、桐谷が小さく動いた。
最前列近くにいた男性客が、スマートフォンを掲げたまま、じりじりと進入禁止エリアに踏み込みかけていた。桐谷がその横に立ち、インカムを外して声をかけた。
「すみません、こちらのラインまでお願いできますか。——撮影はこの位置からでも十分きれいに撮れますよ」
声は穏やかだった。笑顔もあった。ただ、半歩だけ相手の前に体を入れる位置取りには、迷いがなかった。男性客が「あ、すみません」と下がる。桐谷が「ありがとうございます」と頭を下げて、元の持ち場に戻った。
近くにいた古参らしい女性ファンが、その様子を見て隣の仲間に小声で言った。「守らなきゃね」。仲間が頷く。誰かに指示されたのではない。この場を好きな人たちが、自分たちの手で守っている。それだけのことだった。
ステージ脇の暗がりで、ベルがタブレットの画面越しに会場全体を見渡していた。桐谷の対応を確認し、視線を戻す。何も言わない。何も修正しない。現場は回っている。
イベントは予定通りに進行した。ミニトークショー、ファンとの撮影会、サイン会。夏凪は一人ひとりのファンに同じ密度で応じた。誰の前でも手を抜かない。それは長女の矜持に似ていたが、ここでは職業の矜持だった。
十七時。最後のファンが会場を出た。
*
控室は、白い壁と鏡と衣装ラックだけの簡素な部屋だった。
夏凪は椅子に座り、ハイヒールを脱いだ。足首を一度だけ回す。鏡の中の自分が、やっと息をついた顔をしていた。
——ステージの上では、絶対にこの顔はしない。
テーブルの上に置いたスマートフォンが、短く震えた。
夏凪は右手で画面をスクロールしていた。事務所のスタッフからの連絡、来週の撮影スケジュール、ベルからの確認メッセージ。通知が並ぶ中に、一件だけ違う名前があった。
じゅん。
親指が止まった。
スクロールしていた動きが、通知の一行の上で凍った。爪の先が画面に触れたまま、動かない。次の通知に流れるはずの指が、その名前を通過できなかった。
通知を開いた。メッセージは一文だけだった。
『黒、似合ってたよ』
夏凪の呼吸が、一拍抜けた。
似合ってた。黒が。今日のスタジオでの衣装も、イベントのワンピースも、黒だった。ファッション誌の記事にはまだ出ていない。事務所のSNSにイベントの写真は上がっているが、衣装の色味がわかるほどの画質ではない。午前のスタジオは関係者以外立入禁止。午後のイベント会場で——見ていたのか。あの人混みの中に、いたのか。
それとも、誰かから聞いたのか。ベルが報告したのか。どちらにしても、じゅんは今日の夏凪を知っている。家の外の、夏凪の世界を。見て、似合うと思った。それを、送ってきた。
返信を打とうとした。
『見に来てたの?』
——違う。これだと、来てほしかったみたいに聞こえる。消した。
『別に、黒はいつも着てるけど』
長い。言い訳がましい。消した。
『なんで知ってるの?』
——詰問になっている。消した。
三回打ち直して、夏凪は二文字だけ残した。
『別に』
送信した。
スマートフォンをテーブルに置こうとして、置けなかった。画面を伏せて、胸元に押し当てた。薄いケースの向こうに、二文字の送信履歴と、じゅんの一文が入っている。
——見に来てたなら、声くらいかけなさいよ。
口には出さなかった。出したら、長女の声ではなくなる。あの人はいつもそうだ。何も言わずに見ている。何も言わずに知っている。そしてたった一文で、夏凪の一日を全部持っていく。
ドアがノックされた。
「夏凪さん、お疲れさまでした。車が来ています」
ベルの声だった。ドアを開けて入ってきたベルは、夏凪がスマートフォンを胸に押し当てているのを見た。
一秒だけ、グレイッシュグリーンの瞳が夏凪のその手を見た。
「着替えはこちらに。帰りの車内で明日のスケジュールを確認させてください」
「……わかった」
夏凪はスマートフォンをバッグに入れた。鏡の前で髪を整え、ハイヒールに足を戻す。立ち上がると、さっきまで息をついていた顔はもうどこにもなかった。
控室を出る。廊下を歩く。足音が規則正しくリノリウムの床に刻まれる。ベルが半歩後ろを、同じリズムで、しかし足音を立てずについてくる。
夏凪はバッグの中のスマートフォンの重さを、右肩で感じていた。
既読はついた。返信は、まだ来ていない。
来なくていい。
——嘘。
夏凪は前を向いたまま、一度だけ唇を噛んだ。ベルはそれも見ていたが、何も言わなかった。夜の駐車場に、車のライトが一台分だけ灯っていた。




