第十五話 ひとつだけ
放課後の生徒会室は、紙の城だった。
美空の机には三つの山がある。左が処理済み、中央が確認中、右が未着手。十五時四十分の時点で、左が七枚、中央が三枚、右が二十一枚。数えたくなかったが、数えてしまう。
新入生歓迎週間の余韻がまだ残るこの時期に、もう次の行事が動き出している。五月の学園公開日。校内見学の動線、展示ブースの配置、外部来賓の応対マニュアル。生徒会が統括するが、実務は各部活・同好会と、学園に根を張る六つの組織に分散される。
六つ。
美空はペンを置き、連絡先の一覧を見た。秩序の請負人、白亜の聖域、黒耀のランウェイ、尊みの守り手、陽だまりの里、月影。六姉妹を慕う六つの組織。その全てに、公開日への協力を依頼している。黒耀のランウェイは夏凪姉さんの芸能事務所が管理する公式組織で、学園外にも多く会員がいる。事務局長の如月ベル(きさらぎ べる)を窓口にイベントの運営支援を頼んだ。会員たちはプロではないが、イベントが好きな人の集まりだ。設営も運営も手を抜かず、楽しみながら本気でやる。その熱量が、黒耀の強さだった。尊みの守り手と陽だまりの里には当日の来客動線での案内を。月影には安全確保を——景乃さんに任せるしかない。あの組織が何をしているのか、正直、美空にもよくわからない。ただ、頼めば動く。正確に、静かに。
そして、白亜の聖域——美空たちは聖域と呼んでいる。深雪姉さんを聖女のように崇める人々の集まりで、学園内への影響力は生徒会に次ぐと言われている。行事では、代表の白瀬 聖が全体を見渡し、人手が足りないところや突発的な事案に遊撃的に人員を回してくれる。固定の配置で動く秩序とは対照的な機動力。ありがたい反面、あの規模の組織が深雪姉さんの一声で動くことを考えると、美空の背筋にはいつも冷たいものが走る。
美空が直接仕切るのは、自分の足元——生徒会の実働部隊となる秩序の請負人だった。美空たちは秩序と呼んでいる。
「会長、外部業者の見積もり、三社分まとめました」
西園寺 茜がファイルを差し出した。筆頭書記にして、秩序の幹部である統括。プラチナシルバーのポニーテールが、ファイルを差し出す動きに合わせて揺れた。涼しい目元は姉の西園寺 玲に似ているが、口角の上がり方だけが違う。小悪魔と呼ばれる所以だった。手元のタブレット端末にはすでに次のデータが並んでいる。整理速度は学園で並ぶ者がいない。
「ありがとう、茜さん。確認して戻します」
「急ぎませんよ。——でも会長、今日中がいいかも」
急がないと言いながら期限を示す。茜のいつもの手際だった。
窓際では、龍崎 椿が電話を終えたところだった。生徒会の役員ではないが、秩序の統括として、行事のたびに生徒会室に足を運んでくれる。腰まで届く艶やかな黒髪が、振り返る動きに静かに従った。茶道部部長の所作そのままに、端末をゆっくりとポケットに収める。姿勢の良さが、そのまま美しさになる人だった。
「美空さん、会場設営の人員は確保しました。当日の朝七時に四十名」
「四十名……椿さん、どこからそんなに」
「お声がけしましたら、皆さん喜んで」
電話一本で人が動く。それが龍崎の名の力なのか椿個人の人望なのか、美空には判然としない。ただ、結果はいつも確実だった。
廊下から声が飛んできた。
「パシリ二班、資材搬入完了っす!」
美空の眉がわずかに寄った。
「……ヘルパーの方々には、くれぐれも無理をさせないように」
茜が小さく笑った。椿が「自分たちでそう名乗るのですから、仕方ありませんね」と穏やかに言う。秩序の一般会員は、正式名称では活動員と呼ばれる。美空は常にそう呼ぶ。けれど会員たち自身は「パシリ」を誇りのように口にする。会長のために走れることが喜びだ、と。美空はそれを知っている。知っていて、訂正はしない。
向かいの席で、榊原 真緒が分厚いファイルを抱えて立ち上がった。生徒会の会計であり、秩序の上級会員である参与。予算の数字を一円単位で追いかけている。
「会長、公開日の予算ですが……全部門合算で、昨年比一・四倍になってます」
ファイルが机に置かれた。付箋の色分けは真緒の几帳面さそのものだった。黄色が確定支出、青が見込み、赤が超過リスク。赤が、四枚ある。
「一・四倍……」
美空はファイルを開いた。ページを繰る指が止まらない。展示ブースの増設費、外部業者の追加見積もり、来賓応対の備品。どれも必要な支出だった。削れるものがない。
真緒が口を開きかけ、閉じた。会長の顔が変わったからだ。数字を見る目が、生徒会長の目になっていた。
茜が「成瀬先生は、午前中から外部業者との打ち合わせに出てらっしゃいます。お戻りは夕方になるそうです」と伝えてきた。生徒会顧問の成瀬 正義。美空が頷く。顧問が外で動いてくれている分、生徒会室の中は美空が回す。それだけのことだった。
ドアが開いた。
西園寺 玲が入ってきたのは、十六時を過ぎた頃だった。前会長、中等部三年の時に就任し連続三期。退任後、聖域に移った。深雪姉さんの影響力が学園の秩序に波風を立てることがないよう見守るため——そして、聖域と生徒会の融和を演出するため。美空はそう理解していた。聖域の本来の幹部である使徒ではなく、玲のために創設された法王として迎えられ、白瀬 聖と同格とされる人物。引き継ぎ事項の確認で生徒会室に顔を出すことがある。
プラチナシルバーのハーフアップが、窓の光を受けて静かに揺れた。制服のブレザーにシワは一つもない。茜が「玲姉」と小さく呼び、椿が会釈した。
玲は室内を一巡だけ見た。美空の机の右の山——未着手の二十一枚——に、視線が一瞬だけ触れた。
「美空さん、ごきげんよう」
「玲先輩。何かご確認ですか」
「いいえ。通りがかっただけ」
通りがかりで生徒会室に入る人ではない。美空はそれを知っている。
「何か困ったら、言いなさい」
一言だけ残して、玲は出ていった。滞在時間は一分に満たなかった。
——玲先輩なら、この量を半分の時間で終わらせている。
その思考を、美空は飲み込んだ。比較しても仕方がない。今の会長は、自分だ。
すれ違うように別の声がかかった。
「ごきげんよう、美空さん、公開日の秩序の配置について、近いうちに確認させてください」
白瀬 聖だった。聖域を率いる代表で使徒。深雪の傍らの人物。穏やかな声だった。穏やかなのに、美空はいつもこの人の前で背筋が伸びる。咎められているのではない。無理をしている自分ごと、そのまま受け入れられているような気がする。だから逆に、姿勢を崩せなくなる。
「今週中にお渡しできると思います」
「ありがとうございます。一ノ瀬さんが調整を進めてくれていますので、急ぎません。聖域にできることがあれば、どうかご遠慮なく。」
一ノ瀬小春。聖域の上級会員である信徒。文芸部の部員たちは、聖域の実務にも関わっている。
聖が軽く頭を下げ、去っていった。玲先輩と同じことを、違う言葉で言っている。
美空はペンを取り直した。
*
十六時半を過ぎた頃、ドアがノックされた。
「失礼します」
じゅんだった。いつものジャケット。手には何も持っていない。
茜が最初に反応した。「あ、じゅんさん」と声が弾む。タブレットを机に置き、椅子から立ち上がりかけた。椿が静かに会釈する。「じゅん様、ようこそ」。真緒が書類の手を止め、「朝霧さん、こんにちは」と丁寧に頭を下げた。
「お邪魔してるかな。近くに用があったから、様子を見に」
「とんでもない。会長がずっと頑張っていらっしゃるんですよ」
茜がそう言いながら、ちらりと美空を見た。小悪魔の目だった。「ずっと頑張っている」を兄に報告する形にしている。
「茜さん、余計なことを言わないでください」
「事実ですよ」
椿が微笑んだ。「じゅん様、お茶をお淹れしましょうか」。じゅんが「いや、すぐ帰るよ。皆さんお疲れさまです」と手を振る。椿が会釈で応じた。
茜がすっと立ち上がった。
「じゅんさん、せっかくですから見積もりの確認、少しだけお時間いただけませんか?」ファイルを差し出す距離が近い。
「茜さん、部外者です」
美空の声が飛んだ。茜が「はーい」と軽く引いたが、距離は変わらない。口角が、いつもより上がっていた。
じゅんは室内を見た。美空の机と、三つの山と、窓から差す午後の光と。その視線が全体をゆっくり巡り、美空の右の山に触れた。一瞬。触れて、離れた。
美空はペンを動かし続けた。止めない。止めたら、気にしていることが伝わる。
じゅんは何も指摘しなかった。茜に「とても助かってるよ」と声をかけ、椿に「いつもありがとう」と頭を下げ、真緒に「大変だろうけど、よろしくね」と笑いかけた。全員に、それぞれ違う言葉を選んでいた。
「じゃあ、失礼しました」
じゅんが踵を返しかけた。茜が「もう帰られるんですか?」と残念そうに言い、じゅんが「忙しいところだからね」と笑った。
ドアが閉まった。
十七時。茜と椿が退室し、真緒が「会長、お疲れさまです」と声をかけて出ていった。
生徒会室に、美空だけが残った。
右の山が、十五枚になっていた。六枚減った。あと十五枚。明日には終わらせたい。
ドアが、もう一度開いた。
「美空」
じゅんが立っていた。さっきと同じジャケット。さっきと同じ手ぶら。——帰っていなかった。
「兄さん——まだいたんですか」
美空の視線が、机の上のファイルに落ちた。
自分でも気づかないうちに、目を逸らしていた。じゅんの顔を見ていられなかった。さっきは茜たちがいたから、会長の顔を保てた。今は、二人きりだ。未処理の書類が積まれた机を、見られている。散らかった部屋を見られたのとは違う。美空が追いついていない現実を、見られている。
じゅんは生徒会室に入らなかった。ドアの枠に肩を預けて、静かに言った。
「頑張ってるな」
さっき、茜たちの前では言わなかった一言。全員に声をかけたのに、美空にだけかけなかった言葉。それを、二人きりになった今、ここで。
前に来たときは「ちゃんとやれてるじゃないか」だった。今日は「頑張ってるな」。似ているようで、違う。「やれている」は結果への承認だった。「頑張ってる」は過程への眼差しだ。
美空の喉が詰まりかけた。
「……当然です。会長ですから」
声は出た。出したのは会長の声だった。目はファイルに向けたまま。ペンを持ち直した。動いている手を見せれば、止まっていないと伝わる。
——見ないで。まだ、整えている途中だから。
じゅんはそれ以上何も言わなかった。「帰りは気をつけて」とだけ残して、廊下に消えた。
足音が遠ざかる。
美空はペンを握ったまま、三十秒ほど動かなかった。書類の文字がにじんだ——のは、夕日のせいだ。夕日が、窓からまっすぐ机に差している。それだけのことだった。
ペンが動き出した。七枚目に、手をつけた。
*
翌日。十五時四十分。
美空は生徒会室のドアを開けた。
昼休みに三枚片づけた。昨夜、帰宅後にさらに二枚。右の山は十枚まで減っている。
室内は無人だった。窓は閉まっている。椅子は整頓されている。
自分の机に向かった。
椅子を引く前に、目が止まった。
机の上に、クリアファイルが一枚置かれている。昨日はなかった。
手に取った。中に、連絡メモが一束入っていた。右の山に含まれていた案件のうち、外部業者との確認事項。会場設営の搬入時間の調整、備品レンタルの数量確認、看板印刷の校了連絡。全部で五件。すべてに「確認済」の印がついている。
差出人の名前は、どこにもなかった。
印刷された連絡メモだった。けれど、確認事項の並び順が——美空の優先度と同じだった。緊急度ではなく、影響範囲の広い順。全体最適から逆算する並べ方。美空がいつもそうするように。
全部ではなかった。十枚の山を全部片づけたのではない。外部業者との連絡確認、一枚分だけ。
背中が、強張った。
ドアは閉めたばかりだった。誰にも見えていない。それでも、体が先に反応した。肩甲骨の間を、硬い何かが走り抜けた。
一枚だけ、片づけてある。
全部やらなかったのは、偶然ではない。美空のプライドを知っている人間の距離感だった。全部片づけたら、美空の仕事を奪ったことになる。何もしなければ、山はそのまま残る。一枚だけ。それが、この人の答えだった。
誰がやったか。考えるまでもなかった。
——ずるい。
美空はクリアファイルを閉じた。
机の上の処理済みの山——左の山——の一番上に、そのファイルを置いた。
一番上。すぐ手が届く場所。目を開ければ最初に見える位置。「ありがとう」は言えない。言ったら、会長の鎧が一枚剥がれる。それはまだできない。
けれど、仕舞い込みもしない。
美空は椅子に座った。右の山に手を伸ばした。残り九枚。自分の手で十一枚を片づけた。兄さんが減らしたのは、一枚だけ。美空が減らすのは、それ以外のすべて。
ペンを取った。
ファイルの一番上に、名前のないメモが載っている。視界の端で、クリアファイルの角が光を反射した。
茜たちがもうすぐ来る。美空は、次の案件の一行目を読み始めた。




