6.ジーランティア到着42日目~③
タカオの目に、夜の輪郭がやけにはっきりと見えた。
炎の揺らぎも、逃げ惑う人々の足取りも、遠くで響く怒号も、一つ一つが鮮明だった。
後ろを振り返りながら歩く老婆。子供の手を引いて走るレプラコーンの家族。逃げ遅れた村人たちと何度もすれ違う。
誰もが安全な場所を探していた。
だが、タカオとライリーだけは逆へ走る。
怪物の咆哮が夜を震わせた。
曲がり角を一つ抜ける。燃え落ちた屋根が道を塞いでいた。火の粉を踏み越え、その横を抜ける。焦げた臭いが鼻を刺した。近づくにつれ、建物が砕ける音と男たちの怒号が重なり合った。
「こっちだ!」
ライリーが叫んだ。
二人が広場へ飛び出した瞬間、巨大な影が炎に照らし出された。
怪物だった。
灰色の皮膚は岩のように分厚く、二階建ての家の軒先に届きそうな巨体が炎を背にうごめいている。異様に長い腕を振るうたび、爪が地面を削り取り、戦士たちは辛うじてそれをかわしていた。
「ホブリム様!」
ライリーが息を呑む。
老人は片膝をつきながら槍を支えに立っていた。左肩の胸甲はひしゃげ、腕からは血が流れ落ちている。少し離れた場所では、犬人の弓兵が壁にもたれて動かなかった。胸を大きく裂かれ、弓だけが力なく地面に転がっている。
ホブリムはライリーをちらりと見たが、無視するように視線を切った。
オークはなおも槍を構えていたが、片腕がだらりと垂れ下がり、まともに握れていない。残る三人も息を切らし、怪物を囲むどころか距離を取るので精一杯だった。
タカオの頭の中でカチリと何かがはまる音がした。「やはり」という妙な納得と、希望を打ち砕かれたような恐怖が同時に胸を満たす。
目の前の戦況を見た瞬間、勝敗が理解できてしまった。
怪物が動き出す。その一歩だけで地面が震えた。ホブリムが槍を構え直す。
「来るぞ!」
怪物が腕を振り下ろした。オークが受けようと槍を差し出す。次の瞬間、槍ごと吹き飛ばされた。巨体が宙を舞い、石壁へ激突する。鈍い音が響いた。誰も安否を確認しなかった。抜けた穴を埋めるように、残る四人が無言で位置を変える。
犬人の亡骸の横を駆け抜け、人間の戦士が怪物の右脚へ斬りかかる。刃が火花を散らした。
浅い。
怪物は痛みなど感じていないかのように足を振り払う。男は辛うじて転がって避けたが、その拍子に槍を取り落とした。その隙を狙うように、怪物の爪が振り下ろされる。
「危ない!」
ライリーが叫んだ。だが間に合わない。
――違う。
タカオの頭の中で、時間だけが急にゆっくりになった。怪物は男を狙っているようで、違う。
右足。
踏み込み。
次は左へ体重が移る。
その瞬間、怪物の右腕が大きく外へ流れる。まるで何百回も見た動きのように、その先が見えてしまう。
「違う!」
タカオは叫んでいた。
「右じゃない! 左だ!」
一瞬だけ。ホブリムがこちらを見た。老人だけが左へ跳んだ。遅れた二人を、怪物の腕がまとめて薙ぎ払う。
血煙が夜気に散った。
ホブリムは大きく流れた怪物の上半身に、下から槍を突きこんだ。穂先が外皮の継ぎ目を貫いた。怪物の動きが一瞬止まる。
「避けろ!」
もう一度タカオは叫んだ。怪物の右腕が逆に振り抜かれる。
ホブリムは半歩遅れた。弾き飛ばされて地面を転がる。
先ほど倒れた人間の戦士が、槍を拾って突進していた。ライリーが視界の端でホブリムに駆け寄っていく。それらを視界に収めながら、タカオは弾帯から鉄球を引き抜いて投石器に収めた。
考える時間はない。革紐を大きく回す。
一回。
二回。
三回。
放たれた鉄球が、鋭い風切音とともに一直線に飛んだ。
怪物がわずかに首を振る。鉄弾は右目を外れ、眉の上へ激しくぶつかった。硬い音が響く。怪物の頭がわずかに揺れ、その赤黒い瞳が、ゆっくりとタカオを捉えた。
「タカオ、逃げろ!」
ライリーの絶望的な叫びが夜気を震わせた。
大地を蹴って迫る怪物を、タカオは妙に静かな頭で見つめていた。投石器を腕に巻き付け、戦斧を右手に持つ。そして足を前に踏み出した。
怪物の顔が横をすり抜け、ガチりと顎を噛み合わせる。巨大な牙が目前を通過した。そのまま突進して瓦礫に激突する。
いつの間にか地面に転がっていたタカオは顔を上げる。手の中に戦斧はない。右腕に何かを振り抜いた感覚だけが残っていた。怪物の鼻先に戦斧が突き刺さっているのが見える。
怪物がさらに動き出す前に、タカオは反射的に距離を取った。生き残った者たちを視界に収めながら後ろへ下がる。ライリーが肩を貸して、ホブリムが立ち上がる。もう一人の人間の戦士は驚いた様子でタカオを見つめた。
「お前が指示を出せ!」
ホブリムが大声を出した。そして、怪物との間合いを詰める。
もう一人の人間もそれに合わせて怪物の反対側へ移動した。ライリーはどうしたら良いのか分からないようだったが、とにかく槍を構えた。
そこからは一方的だった。
「右腕が来る、伏せろ!」
ホブリムと人間の戦士が同時に沈み込み、怪物の爪が空を裂く。
「今だ、左脚!」
二本の槍が同じ場所を突き、巨体がわずかによろめく。
「ライリー、口を開かせろ!」
ライリーが震える声で叫びながら正面へ飛び込んだ。怪物が咆哮とともに口を開く。その瞬間、彼は両手で槍を押し込み、穂先を喉の奥へねじ込んだ。
怪物は数歩よろめき、ついに地面へ崩れ落ちた。
何もかもが終わったとき、ホブリムは槍に体重を預けたまま、呆れたようにタカオを見た。
その夜は誰も眠れなかった。
三日後、煙の上がる変わり果てた村に、ガルドと自警団の一行が帰ってきた。彼らもまた戦闘で傷つき、幾人かは帰ってこなかった。この襲撃によって亡くなった村人は、最終的に四十二人を数えた。それはこの世界では、よくある自然災害のうちのひとつ程度に考えられているようだった。
その後、村の復旧には時間がかかった。家をなくした者、家族を亡くした者、そして抉れた道や壊れた石垣、村に一軒しかなかった雑貨屋。人々は家を建て直し、故人を弔い、壊れた物を直した。
そして、ライリーとタカオは新たに自警団の一員となった。




