5.ジーランティア到着42日目~②
悲鳴が上がった。
女性特有の、絹を裂くような甲高い声だ。
ぞわり、と背中に悪寒が走る。何かが起きた。重い足音や何かが割れる音が聞こえた。
寝床から飛び起きると、ライリーも青ざめた顔で立ち上がっていた。タカオと顔を合わせると素早く頷き合った。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
赤い警告メッセージのような、ぼんやりとした感覚が意識を埋め尽くす。
危険。とにかく危険だと、本能とも違う何かが告げていた。
外へ出る。
そうだ。今まさにライリーと頷き合った。――違う。
外は危ない。
気づけば、ライリーが閂に手を掛けていた。
木板を枠にはめただけの粗末な扉。その閂を外そうとする腕を、タカオは反射的につかんだ。
「待っ―――!」
獣の咆哮が、家のすぐ外まで迫った。この声を知っている。最初にいた森でも何度も聞いた。
あの夜に。
記憶が最後までつながる前に、ひしゃげた壁とドアに吹き飛ばされた。
キーンという耳鳴り。気づけば顔に夜気の冷たさを感じていた。ライリーは無事か。タカオが首を巡らせる。床に倒れた彼の姿があった。動いてる。大丈夫だ。
怪物の姿は見えない。壊れた壁の向こうから、地面を揺らすような足音だけが遠ざかっていく。
よろめきながら立ち上がる。脚に木片が刺さっていた。気にするな。ライリーの元へ向かう。揺すると彼はうめき声をあげた。
「大丈夫か!」
ライリーがパチリと目を開けた。一瞬だけ焦点の合わない目がタカオを見た。次の瞬間、ライリーはタカオの手を振り払うと、勢いよく外へ駆け出した。慌てて追いかける。
冷たい夜風が頬を打った。
村のあちこちで火が上がっていた。茅葺き屋根が燃え、火の粉が夜空へ舞う。広場には、武器を握ったまま倒れている男がいた。胸から腹にかけて何かに抉られ、もう動かない。その少し先には、折れた槍を抱えた熊人が壁にもたれかかったまま絶命していた。
村に残っていた自警団は数人だけだった。そのうち二人が、もう動かなかった。
「なんてこった⋯」
短いライリーの声。地面を揺らす足音が、獲物を探すように村の反対側へ移っていく。
ライリーが振り返った。その目には、さっきまでの動揺はなかった。
「君も来るか」
「行く」
無意識に声が出た。言葉はいらなかった。二人は武器庫へ向かった。
武器庫の前には松明が揺れていた。一人の老人が既に槍を構えて立っている。
「ホブリム様」
ライリーが声をかけた。それは昼間に見た長老たちの一人だった。銀色の胸甲を身に着けた人間の老人。彼はこちらに気づくと、性急な仕草で手招きした。
「生きてたか。わしはこれから奴を追う」
ライリーが間髪入れずに言葉を継いだ。
「連れて行ってください」
「駄目だ。お前を失えば、タルラサに申し開きができん」
老人は言葉を切った。視線がゆっくりとタカオの脚へ落ちる。
「⋯お前、その脚は」
タカオも視線を落とした。膝から下は血で真っ赤に染まり、裂けたズボンから木片が深く突き刺さっていた。その瞬間、焼けつくような痛みが膝下を貫いた。思わず息が詰まる。
老人は構わず続けた。
「今はライリーの家にいるんだったな。ライリー、この新入りはお前が面倒を見てやらないと朝まで保たん。放って行く気か?」
「しかし!」
「くどい!」
ホブリムが槍の石突を地面に叩きつけた。ちょうどその時、武器庫の入口の分厚い扉が横へずれた。中から槍を持った大柄な『オーク』が出てきた。
「おやっさん、うるさいですぜ。これじゃ俺達が行く前に向こうが来ちまう」
さらに後ろから弓を持った『犬人』が続く。
「手間が省けていいんじゃないか」
その後ろからさらに、見た目の異なる戦い慣れた様子の男たちが三人現れた。ホブリムはライリーを一瞥しただけだった。
「行くぞ」
五人が無言で頷いた。
ライリーは立ち尽くしたまま、闇へ消えていく六人の背中を見つめていた。
やがてゆっくりとタカオを振り返る。
顔が苦しげにゆがんだ。
「君が―――」
そこで言葉が止まる。唇を強く噛み、首を振った。
「⋯いや、違う。俺が未熟なんだ」
力が抜けたように、ライリーはその場へ膝をついた。
タカオは闇へ消えた六人の背中と、その姿を何度も見比べた。なぜか、あの六人なら大丈夫だと思いかけていた。あの老人たちは強い。だが、家を吹き飛ばす怪物に、本当に勝てるのか。このまま待てば助かるのか。
答えは、どこにもなかった。
「ライリー、行こう。このままじゃ終わる。ここで待ってても助からない」
ちょっと驚いたような顔でライリーが頭を上げた。
「⋯俺たちは待てと言われたんだ」
「分かってる。でもあの化物が家をどんな風にしたか見たろ。行こう」
「お、おい――」
タカオはライリーの腕をつかみ、そのまま歩き出した。開け放たれた武器庫に入る。ライリーは抵抗の素振りを見せなかった。
中に入ると板間に赤い足跡が残った。これが致命的な出血量なのか判断できない。頭の奥で危険の警告だけが消えない。くそっ、大丈夫。タカオは自分を誤魔化した。
「ライリー、武器を探してきてくれ。僕は血を止める」
「あ、ああ」
ライリーはまだ何か言いたげに口を開いたが、実際には何も言わずに奥の暗がりへ消えていった。
腰紐を外す。木片は抜かない。傷口より上を思い切り縛った。これで正しいのか分からない。それでも、何もしないよりはましだ。
戻ってきたライリーが手に持っていたのは、戦斧と革紐が束ねられた奇妙な道具だった。尖った鉄製の弾の入った弾帯を最初に渡される。受け取ると、ズシリとかなりの重さがあった。それを体に巻き付けてしっかり固定した。
「弓や槍よりは簡単なはずだ」
続けて渡された戦斧の刃は薪割り斧より小さい。それでも恐ろしく見えるのは、戦うためだけに鍛えられた武器だからだ。思ったより軽く、片手でも扱えそうだった。
ライリー自身は槍と剣鉈を帯び、まだどこか踏ん切りのつかない表情で立っていた。
「これは投石器だ」そう言って革紐を渡される。「使い方は―――」
タカオは説明を制してそれを手に取った。初めて触るはずなのに、革紐をどう握ればいいのか、どの角度で放てばいいのかが頭に浮かぶ。――知っている。そんなはずはないのに。
「分かる。でもそんなに簡単そうには見えないな」
「ああ、戦争になったら使うんだ。人を殺すには十分だ。だが、あの怪物にはどうだろうな」
「嫌がらせくらいにはなるさ」
ライリーの目を覗き込む。
「どうせ死ぬかもしれないなら、戦って死のう」
ライリーは長く息を吐いた。
「行こう」
二人は街の暗闇の中へ駆け出した。どこへ向かえば良いのかは、何かが破壊される音や、戦っている男たちの怒号が教えてくれた。その中には悲鳴や泣き叫ぶ声も混ざっていた。
計画は何もなかった。ただ、人がまだ生きている声だけを追って走った。




