第3話 幕間 お騒がせ皇女は花を贈る
本編前後編の裏側を、サージェッツァ皇女の視点から描く第3話です。
グリードの求婚を拒絶した理由と、コーデリアへ花を贈るまでのお話。
グリード・ブランベルクが皇宮へ持ち込ませた贈り物は、一つや二つではなかった。
皇女の私的な応接室。
その中央に据えられた広い卓には、まだ名の売れていない若い建築家から届いた新劇場の模型が置かれ、その周囲に設計図が広げられていた。
サージェッツァは卓に寄せた長椅子へ腰掛け、つい先ほどまで、二階席から舞台への視界が遮られる箇所を設計図上で確かめ、自ら朱を入れていた。
そこへ、宝石を収めた箱、異国から取り寄せたという酒、季節にはまだ早い花を束ねた大ぶりの花束が、次々と運び込まれてきた。
最後の花束が置かれると、サージェッツァは筆を置いた。
赤みを帯びた金の髪を片側へ流し、長椅子の背へ身を預けたまま、鮮やかなアズライトの瞳を細める。
コーデリア・アーエルスが婚約を破棄されてから、三日後のことだった。
「ずいぶん持ってきたな」
「殿下へ求婚するのです。この程度では、私の誠意をお示しするには足りないでしょう」
グリードはサージェッツァの向かいへ座り、ためらいなく笑った。
金の髪に、碧の瞳。
自分が歓迎されない可能性など、初めから考えていない顔だった。
サージェッツァは卓上の箱へ目をやった。
中身を確かめたいとは思わなかった。
「それで」
杯にも触れず、グリードへ視線を戻す。
「私と婚姻したいと言ったか?」
「はい」
グリードは胸へ手を当てた。
「殿下と私は、よく似ております。古い慣習に縛られず、自らの心に正直に生きる者同士です」
「ほう?」
サージェッツァは、意外そうに片眉を上げた。
「皇女宮には、才能ある若者が絶えず出入りしているとか。殿下も、世間の狭い物差しにはお困りなのでしょう」
グリードは、互いに通じ合ったとでもいうように笑みを深めた。
「なるほど。あれだけ作品を持ち込ませても、お前が数えるのは男の数だけか」
「ええ。世間は、自由に生きる者を理解しませんから」
グリードは我が意を得たりと頷いた。
どうやらこの男は、自分とサージェッツァが同類だと、本気で信じているらしい。
本人を前に、そこまで思い込めるところだけは大したものだった。
「一つ聞く」
「何なりと」
「お前には、長く婚約していた令嬢がいたはずだな?」
グリードの笑みは崩れなかった。
「コーデリアのことでしょうか。すでに婚約は解消しております」
「いつだ」
「三日前です」
求婚に先立って解消したのだから、何も問題はない。
そう言わんばかりの口調だった。
「婚約していた期間は?」
「十年以上になります」
「婚礼の予定はなかったのか?」
「もちろん、かつてはありました。しかし互いの都合もあり、何度か延期になりまして」
「互いの都合か」
「ええ。コーデリアも理解してくれていました」
サージェッツァは、グリードの顔を見た。
そこに嘘をついている者の緊張はない。
おそらく、この男は本当にそう思っている。
十年以上待たせた婚約者が、何も言わずに受け入れてきた。
だから彼女も納得していたのだと。
「婚約を解消すると告げた時、アーエルス嬢は何と言った?」
「承知した、と」
グリードは満足そうに頷いた。
「取り乱すこともなく、最後まで立派な態度でした。ああいうところは、昔からよくできた女性なのです」
「よくできた女を捨て、私に求婚したわけか」
「捨てたなどと」
初めて、グリードの眉がわずかに動いた。
「互いに、よりふさわしい道を選んだだけです。コーデリアにも、いずれ良い縁が見つかるでしょう」
サージェッツァは長椅子の背へ身体を預けた。
指先で卓を一度叩く。
「以前の婚約について調べよ」
「承知いたしました」
部屋の隅に控えていた侍従が、深く頭を下げた。
グリードが目を瞬いた。
「調査、でございますか」
「十年以上続いた婚約を三日前に解消した男が、今日、私へ求婚している。先に確かめるべきことはあるだろう」
「もちろんです」
グリードはすぐに笑みを戻した。
「お調べいただければ、何の問題もなかったことがお分かりになるでしょう」
その自信がどこから来るのか。
サージェッツァには分からなかった。
卓上に広げられた設計図には、未熟でも作り手の意志があった。
だが、目の前の贈り物には、受け取る相手を見ようとした痕跡がなかった。
◇
調査の報告が届いたのは、数日後だった。
サージェッツァは執務室の窓を開けさせた。
閉め切った部屋で読むには、報告書の内容が重すぎた。
「婚約が結ばれたのは、アーエルス伯爵令嬢が十歳に満たない頃でございます」
侍従が報告書を読み上げる。
「当初の婚礼予定は、アーエルス嬢が十七、八歳の頃。しかし、ブランベルク公爵令息の希望により、複数回延期されております」
「理由は?」
「まだ身を固めたくない。社交を楽しみたい。おおむね、そのようなものでございます」
サージェッツァは卓の上へ頬杖をついた。
数年前なら、若さゆえの迷いと言えたかもしれない。
だが、その間にも相手の時間は過ぎている。
「アーエルス嬢は?」
「婚礼延期のたびに準備を改め、公爵夫人教育を継続しております」
侍従が次の紙をめくった。
「また、令息が社交界で起こした複数の問題について、アーエルス伯爵家が収拾へ協力しております。アーエルス伯爵令嬢ご自身が、将来の妻として令息を弁護した例も確認できました」
女性関係。
酒宴での失態。
約束を破った相手への詫び。
それらは一つずつなら、社交界では珍しくもない騒ぎだった。
だからこそ、積み重なった年月が見過ごされてきた。
「公爵家は何をしていた?」
「いずれ結婚すれば落ち着くものと判断していたようです」
「その結婚を延ばしていたのは、当人だろう」
侍従は答えなかった。
答える必要もなかった。
報告書の最後には、サージェッツァへの求婚の三日前に行われた婚約破棄について記されていた。
グリードは、サージェッツァへ求婚するために婚約を破棄した。
コーデリアは人前で取り乱さず、正しい礼をして、彼を送り出したという。
「あの男は、私を自分と同類だと言っていたな」
「はい」
「……光栄の極み、と言ってやりたいところだが」
「殿下がお愛しなのは芸術。あの方がお愛しなのは、ご自身かと」
「当然だ」
サージェッツァは短く笑った。
だが、報告書へ目を戻すと、その笑みはすぐに消えた。
「グリードを呼べ」
◇
グリードは、前回と同じ服を着ていた。
求婚の日にふさわしい装いだと、よほど気に入っているらしい。
「調査が終わったと伺いました」
「ああ」
「これで、私の言葉に偽りがないことをご理解いただけたかと」
サージェッツァは、卓上に置かれた報告書へ手を置いた。
「お前の求婚は受けない」
グリードの笑みが止まった。
「……何と」
「聞こえなかったか?」
「いえ。しかし、理由が分かりません」
サージェッツァは、しばらくグリードの顔を見つめた。
本気で分からないらしい。
「十年以上、一人の女に将来の公爵夫人としての責任を負わせた。その女にお前の不始末を片づけさせ、婚礼は自分の都合で延期した。そして別の女へ求婚するために切り捨て、三日後にはここへ来た」
「切り捨てたわけではありません」
グリードは身を乗り出した。
「コーデリアも納得しておりました。彼女は何一つ反対しなかった」
「反対しなければ、何をしてもよいのか?」
「私は、自分の心に正直に生きようとしただけです。殿下ならば、そのお気持ちを理解してくださると――」
「理解している」
サージェッツァは遮った。
「だから断る」
グリードが息を止めた。
「お前は、私を自分と同じ自由人だと思っていたようだな」
「違うと仰るのですか」
「違う」
サージェッツァは報告書から手を離した。
「自由とは、他人を踏み台にしてよいという意味ではない」
応接室が静まり返った。
グリードの顔から、笑みが消えていく。
それでも、反省した顔にはならなかった。
「何か、誤解がおありです」
「誤解か」
サージェッツァのアズライトの瞳が、わずかに冷えた。
「私とコーデリアの間には、私たちにしか分からない事情があります。調査した者が何を申し上げたかは存じませんが、最後まで私の説明をお聞きいただければ――」
グリードは、自分の言葉が足りないだけだとでもいうように身を乗り出した。
「説明か」
サージェッツァは扉へ目を向けた。
「聞けば聞くほど、お前が何も分かっていないことだけは、よく分かった」
侍従が一歩前へ出た。
退出を促されても、グリードはしばらく立ち尽くしていた。
自分の言葉が届かなかった理由を、まだ探しているようだった。
けれど、その理由を自分の中に求める様子はない。
やがてグリードは硬い表情で礼をし、応接室を出ていった。
扉が閉じる。
「理解したでしょうか?」
侍従が尋ねた。
「しておらんだろうな」
サージェッツァは即座に答えた。
おそらくあの男は、この拒絶さえ行き違いと呼ぶ。
自分の説明が足りなかったのではなく、相手が最後まで聞かなかったせいだと考える。
「贈り物は、すべてこの部屋から下げよ」
「かしこまりました」
「花は傷む前に孤児院へ回せ。酒は兵舎にでも持っていけ」
「宝石は」
「本人へ返せ。あれまで配れば、私が求婚を受けた祝いだと言い出す者が出る」
侍従は、わずかに口元を緩めた。
◇
噂は、贈り物よりも早く皇宮を出た。
婚約破棄から三週間が過ぎても、消える気配はなかった。
ブランベルク公爵令息が婚約を破棄した。
その三日後、サージェッツァ皇女へ求婚した。
豪華な贈り物を積んだ馬車が皇宮へ入るところを、見た者も多かった。
そこへ人々が、勝手に理由を足した。
サージェッツァ皇女が公爵令息を誘惑した。
皇女が望んだため、長年の婚約者が捨てられた。
お騒がせ皇女が、今度は伯爵令嬢から婚約者を奪った。
「事実を公表いたしますか?」
侍従が尋ねた。
「どの事実だ」
「婚約破棄が、長く破綻していた関係を整理したものではなく、殿下への求婚直前に一方的に行われたこと。婚礼延期も、ブランベルク令息側の事情であったことです」
サージェッツァは報告書の端を指先で押さえたまま、しばらく黙った。
「公表すれば、あの令嬢が十年以上何をさせられてきたかまで広まるな」
「殿下への誤解は解けます」
「私の評判を守るために、他人の傷を見世物にしろと?」
侍従は黙った。
サージェッツァは窓の外へ目を向けた。
庭園では、彼女が見いだした若い庭師の育てた花々が、夏の終わりの風に揺れていた。
自分が何を言われようと、今に始まったことではない。
酒宴へ出れば奔放だと言われ、遠乗りをすれば慎みがないと言われる。
いちいち訂正していたら、日が暮れてしまう。
「求婚は受けていない。婚姻の予定もない。それだけ知らせよ」
「よろしいのですか?」
「あの令嬢の十年を、私の弁明に使うな」
「承知いたしました」
侍従が一礼し、退出しようとする。
その足が、扉の前で止まった。
「もう一件ございます」
「今度は何だ」
「アーエルス伯爵家より、皇宮へ正式な抗議が提出されました」
サージェッツァは窓から視線を戻した。
「誰に対する抗議だ」
「グリード・ブランベルク公爵令息に対するものでございます」
◇
抗議書には、公爵家の家令による陳述書が添えられていた。
サージェッツァは、初めから終わりまで自分で読んだ。
グリードは、父からコーデリアへ謝罪するよう命じられ、公爵家の家令とともにアーエルス伯爵邸を訪れた。
伯爵夫妻と家令の協議が終わるまで、別室で待機するよう指示されていた。
その命令を無視した。
伯爵令嬢の私室へ向かい、制止した使用人を押しのけ、寝室へ侵入した。
寝台に伏していたコーデリアへ、一方的に復縁を告げた。
サージェッツァはそこで一度、書面から顔を上げた。
求婚を断られた後、あの男がどこへ戻ろうとするか。
答えは明らかだった。
続きを読む。
寝室では、侍女見習いがグリードとコーデリアの間へ立った。
名はリーン。
「十五歳か」
サージェッツァの声に、侍従が頷いた。
リーンはグリードへ退室を求めた。
グリードがコーデリアへ触れようとすると、その手をつかんだ。
乱暴に振り払われ、床へ倒された。
それでも、再び主人の前へ戻ろうとした。
グリードがリーンを殴ろうと手を上げた時、寝台からコーデリアが起き上がった。
三週間、ほとんど食事も取れず、自ら起きることもできなかった令嬢が。
リーンを守るために、声を上げた。
その後、自分の言葉で復縁を拒絶した。
サージェッツァは、最後の一枚へ進んだ。
公爵家の家令と、伯爵令嬢の兄・警護役が現場へ到着した。
兄と警護役がグリードを取り押さえ、家令は現場を確認した。
それでも彼が訴えたのは、自分の非ではない。
なぜ誰も、自分の言葉を聞こうとしないのか。
サージェッツァは、しばらくその一文を見つめた。
「聞かなかったのは、どちらだ」
返事を求めた言葉ではなかった。
侍従も何も言わない。
サージェッツァは陳述書を閉じた。
床へ倒されても、主人を守るために立とうとした十五歳のリーン。
自分のためには動けなかったのに、その少女を守るためなら起き上がれた伯爵令嬢。
二人が互いをどのように呼んでいるのか、サージェッツァは知らない。
それでも、そこにあるものは分かった。
「見事な主従だ。いずれ、機会があれば会ってみたいものだが」
「お招きになりますか?」
サージェッツァは首を振った。
「見舞いの名を借りて、病人を呼びつけるほど野暮ではない。審議の結果が出たら知らせよ」
「殿下から、何かご意見を上げられますか?」
「上げぬ」
サージェッツァは椅子の背へ身体を預けた。
「これは公爵家と皇帝が決めるべきことだ。私が皇女の権力であの男を罰したなどと言われては、あの二人の拒絶まで軽くなる」
「承知いたしました」
サージェッツァは、閉じた陳述書の上へ手を置いた。
少なくとも今回は、誰かが代わりに決めるのではない。
コーデリア・アーエルスは、自分の口で拒絶した。
それで十分だった。
◇
審議の結果が届いたのは、それからしばらく後のことだった。
ブランベルク公爵は、一人息子を後継者から外すことを皇帝へ願い出た。
傍系の親族が新たな後継者として認められ、公爵自身も爵位を退くこととなった。
夫人とともに領地へ下がり、今後は公爵家の政務へ関わらないという。
グリードは、公爵位の継承権を失った。
「決まったか」
「はい」
侍従から報告を受けたサージェッツァは、それ以上何も言わなかった。
遅すぎた処分だった。
だが、遅かったからといって、責任を取らなくてよいことにはならない。
「花を用意せよ」
「どちらへお贈りになりますか」
「アーエルス伯爵家だ」
侍従が一度瞬いた。
「見舞いとして、コーデリア・アーエルス嬢へ」
◇
係の者が用意したのは、薄紅と白を基調にした花束だった。
病床へ贈るには華やかすぎず、かといって寂しくもない。
花材を並べた卓の端には、候補から外された群青色の小花が一枝残されていた。
社交の席で幾度か見た、深い群青の髪が脳裏に浮かんだ。
いつも姿勢を崩さず、公爵令息の隣で正しく微笑んでいた令嬢。
あの時、何を背負っていたのかまでは知らなかった。
「この群青を加えよ」
係の者が花を取り上げた。
「アーエルス嬢の髪色に合わせて、でございますか?」
「ああ」
サージェッツァは頷いた。
「あの令嬢には似合うだろう」
群青色の小花が、薄紅と白の間へ一枝添えられる。
サージェッツァは机へ向かい、用意された紙を引き寄せた。
長い言葉を書くつもりはなかった。
励ませば、立ち上がることを求める言葉になる。
今後の人生を語れば、新たな道を選ぶことを迫る言葉になる。
婚約を奪ったのではないと弁明するつもりもない。
ただ、今は何も選ばなくてよいと伝えればよかった。
サージェッツァは筆を取った。
あなたが恥じることは何もない。
今は、誰のためでもなく休まれよ。
――サージェッツァ
筆を置く。
侍従が書状を受け取り、封蝋の準備をした。
卓の端には、アーエルス伯爵家の抗議書と、家令の陳述書が置かれている。
十五歳の侍女が主人の前へ立ったこと。
その侍女を守るため、令嬢が起き上がったこと。
サージェッツァは、その二人に何かを命じるつもりはなかった。
どう生きるかも、いつ立ち上がるかも、二人が決めればよい。
封蝋が垂らされ、皇女の印章が押される。
薄紅と白を基調に、群青色の小花を一枝添えた花束が、書状とともに運び出されていった。
◇
数日後、皇女宮で催された若手芸術家たちの展覧会は、予想を上回る賑わいとなった。
設計案には新たな依頼主がつき、陶器や絵画は次々と買い上げられた。
台本や楽譜を持ち込んだ者たちも、劇場主や音楽を好む貴族へ紹介された。
まだ名も知られていなかった者たちの周囲に、人だかりができていた。
一方、会場の隅では、保守的な貴族たちが声を潜めていた。
皇女宮を市場にするとは品がない。
若い男たちを囲うために、芸術を口実にしているのだろう。
売れた作品にも、新たに結ばれた縁にも目を向けず、彼らが数えているのは、やはり若い男の数だけだった。
――世間は、明日も好きなように噂するだろう。
自由気ままな皇女。
騒動を招く皇女。
伯爵令嬢から婚約者を奪った、お騒がせ皇女。
それで構わなかった。
噂を正すより、まだ誰にも見いだされていない才能を拾い上げる方が、よほど性に合っている。
サージェッツァは、卓の端に置かれた次の作品へ手を伸ばし、覆い布を取り払った。
現れたのは、空も大地も不自然に歪み、遠近すら曖昧な一枚の油絵だった。
「この……奇妙な油絵はなんだ?」
「まだ名の知られていない若い画家が描いた、北方の風景画とのことです」
サージェッツァは一歩下がり、絵を眺めた。
「ふむ……遠近は狂い、筆遣いも荒い。だが、妙に目を引くな。磨けば光るかもしれん。そなたはどう思う?」
侍従は、また一人増えるのかと言いたげに苦笑した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
リーンとコーデリアの物語を外側から見届け、二人の選択を静かに支えたサージェッツァ皇女。その人物像も楽しんでいただけましたら幸いです。
これにて『群青の姉妹』全3話完結です。




