第1話 前編 同じ色の妹
本作は前後編の短編です。
婚約破棄によって何も望めなくなった令嬢と、彼女を「姉」と慕う侍女見習いの物語。
精神的な加害、および軽度の暴力描写を含みます。
「コーデリア・アーエルス。君との婚約を破棄する」
リーンの喉が、音もなく鳴った。
アーエルス伯爵家の小応接室。
午後の光が磨かれた床へ長く伸び、卓と椅子の影を細く引いている。
その光の中で、ブランベルク公爵令息グリードは、明日の天気でも告げるような調子で言った。
金の髪に、碧の瞳。
整った顔立ちは、社交界で長く女性たちの目を引いてきた。
侍女見習いのリーンは、コーデリアの椅子の斜め後ろ、半歩下がった位置に控えていた。
主人の会話へ口を挟まない。
呼ばれるまで動かない。
まだ教わったばかりの決まりだった。
目の前に、コーデリアの髪がある。
深い群青色。
夜が最も濃くなる時刻の海のような、重く澄んだ青だった。
リーンの髪も青い。
けれど、もっと淡い。
並べれば、誰の目にも違いは分かる。
「サージェッツァ皇女殿下に求婚する」
サージェッツァ皇女は、宮廷の慣例に収まらない言動で、たびたび周囲を騒がせる方として知られていた。
決められた振る舞いより、ご自身の意思を優先する方だと、リーンも聞いている。
グリードが続けた。
「殿下とは、互いに理解し合えると思っている……君には感謝しているよ、コーデリア。長い間、よくやってくれた」
よくやってくれた。
リーンは奥歯を噛んだ。
十年以上だ。
コーデリアお嬢様が公爵夫人となるために積み上げてきた年月を、たった一言で片づける響きだった。
コーデリアの背は動かない。
「――承知いたしました」
静かな声だった。
震えも、上ずりもしない。
コーデリアは立ち上がり、両手で裾を取って、正しい角度で礼をした。
長い群青の髪が、動きに合わせてなめらかに流れる。
幼い頃から身につけてきた所作だった。
「これまでのご厚情に、感謝申し上げます。どうぞ、お健やかに」
「うん。君はやはり、そういうところがいい」
グリードは満足そうに頷いて、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
小応接室に、二人だけが残った。
リーンは動けなかった。
声を上げることも、一歩前に出ることも、伸ばせば届く距離にあるコーデリアの手を取ることもできない。
何ひとつできないまま、その背後で立ち尽くしていた。
コーデリアは礼の姿勢のまま、しばらく顔を上げなかった。
◇
三週間が過ぎた。
寝室の窓を開けると、朝の空気が薄く流れ込んだ。
リーンは水差しを卓へ置き、寝台へ近づいた。
「コーデリアお嬢様。おはようございます」
寝台の上に、群青の髪が広がっている。
社交のために結い上げられることのなくなった髪は、白いシーツの上へ濃い夜のように流れていた。
かつて社交界で才色兼備と呼ばれた人が、今は自分から髪へ触れることもない。
「お顔を拭かせていただきます」
返事はない。
碧の瞳は開いている。
天蓋の内側へ向けられたまま、何も映していないように見えた。
リーンは湯で絞った布を当て、額から頬へ、ゆっくりと拭いていった。
それから櫛を取り、髪の先から少しずつほどいていく。
絡んだところで無理に引かないよう、指を添えて分ける。
祖母から教わったやり方だった。
深い群青が、櫛の歯を通るたび、少しずつ光を取り戻していく。
「今日は、水色のものと白いもの、どちらになさいますか」
二着の部屋着を寝台の脇へかけて見せた。
「……どちらでも構いません」
三週間、同じ返事が続いていた。
食事は何がよいか。
窓を開けてもよいか。
庭を眺めるか。
本を読むか。
湯を使うか。
何を尋ねても、返ってくるのは「どちらでも構いません」だけだった。
その返事を聞くたび、リーンは三週間前のことを思い出す。
◇
医師が最初に呼ばれたのは、婚約破棄の翌朝だった。
医師はコーデリアの脈を取り、瞼を確かめ、胸の音を聞いた。
何度か質問もしたが、コーデリアは天蓋を見つめたまま、ほとんど答えなかった。
「熱はありません。胸の音にも異常はありません」
医師はそう告げてから、寝台脇の卓へ置かれた、手つかずの食事へ目を向けた。
「ですが、ほとんど眠らず、食べてもおられない。このままでは、身体のほうが先に弱ってしまいます」
「どこが悪いのですか?」
伯爵夫人エレオノーラが尋ねた。
医師は、しばらく言葉を選んでいた。
「長く張りつめていた心が、急に支えを失ったのでしょう。今のお嬢様には、起きることも、食べることも、何かを選ぶことさえ重荷なのかもしれません」
「何も尋ねないほうがよいのでしょうか?」
「いいえ。選ぶ余地まで奪ってはなりません。ただし、多くを求めず、二つほど示して差し上げてください。お答えになれなければ、急かさず、そばにいる方が静かに決めて差し上げるのです」
医師はリーンにも目を向けた。
「食事は、薄いスープを一口ずつ。無理に起こしたり、元気づけようとしたりしてはいけません。今は、休ませることです」
それからも医師は、数日おきにコーデリアを診た。
熱は出なかった。
胸にも異常はなかった。
それでも食事は進まず、身体は日ごとに痩せ、返事も変わらなかった。
そうして、三週間が過ぎていた。
◇
扉が叩かれ、エレオノーラが入ってきた。
「コーデリア。今日は少し起きてみましょうか」
エレオノーラは寝台の縁へ腰を下ろし、娘の手を取った。
「窓辺の椅子まででいいのよ。庭のばらが咲き始めたわ。庭師が、あなたに見てもらいたいと言っていたの」
「……どちらでも構いません」
「昨日のスープも、ほとんど残したそうね。食べなければ身体がもちませんよ。今日は何なら食べられそう?」
「どちらでも構いません」
エレオノーラの指が、娘の手の甲を撫でた。
「……そう」
唇が何かを続けようと動き、結局、声にはならなかった。
エレオノーラは立ち上がり、扉のところで一度振り返った。
それから部屋を出ていく。
廊下を遠ざかる足音が、途中で一度止まった。
リーンはそれ以上、何も尋ねなかった。
ただ櫛を動かし続け、二着の部屋着のうち水色のほうを、そっと椅子の背へかけ直した。
ほどなくして、今度はコーデリアの父、アーエルス伯爵アルベルトが訪れた。
寝室へ入っても、アルベルトはすぐには寝台へ近づかなかった。
扉のそばに立ったまま、何度か手袋を持ち替える。
娘にどんな顔を向ければよいのか、決めかねているようだった。
「コーデリア」
低い声に、碧の瞳は動かなかった。
「領地の別邸を整えさせている。帝都を離れてみるか?」
「……どちらでも構いません」
アルベルトの手が止まった。
「そうか……急がなくていい。気が向いたらでいい」
それだけ言って、しばらく娘を見つめていた。
返事はなかった。
アルベルトはリーンへ視線を向けた。
「何か変わったことがあれば、どんなに小さなことでも知らせてくれ」
「かしこまりました」
深く頭を下げたリーンの前を、アルベルトは静かに通り過ぎた。
昼前には、兄のレオナードも顔を見せた。
抱えていたのは、コーデリアが新刊を待っていた物語だった。
「コーデリア。待っていた新刊が出たぞ」
レオナードはいつものように軽く言おうとして、うまくいかなかったらしい。声の終わりが不自然に途切れた。
「帝都中の書店を探した……まあ、本当は家令に探させたんだが」
冗談にも、コーデリアは笑わなかった。
レオナードは寝台脇の卓へ本を置いた。
「読みたくなった時でいい。返事もいらない」
そう言いながら、それでも少し待った。
何も起きなかった。
部屋を出る前、レオナードはリーンに小声で言った。
「コーデリアが何か口にしたら、すぐに教えてくれ。食べたいものでも、行きたい場所でも、誰かの悪口でもいい」
最後の一言に、笑わせようとする響きがあった。
けれどリーンが頷くと、レオナードは唇を引き結び、そのまま廊下へ出ていった。
父も母も兄も、コーデリアを案じていた。
それでも、誰もコーデリアから望みを聞き出せなかった。
リーンも同じだった。
ただ、答えを求めずに髪を梳き、乱れたシーツを直し、飲まれない水を毎朝新しいものへ替える。
それだけを続けていた。
◇
厨房は昼支度の熱気に満ちていた。
「アップルパイ?」
先輩侍女のマレンが、手を止めて振り返った。
「今、なんと言いました」
「……お嬢様のお好きなものです」
リーンの声が小さくなる。
緊張すると言葉が喉の途中で引っかかる。
昔からの癖だった。
「お医者様は、まず薄いスープからと仰っているわ」
マレンの声は厳しくない。
ただ、正しかった。
「三週間ろくに召し上がっていない方に、重い焼き菓子を出すの? 勝手なことをして、お嬢様を疲れさせてはいけません」
「……はい」
「分かったなら――」
「あの」
リーンは指を握った。爪が手のひらに当たる。
「一口でも、食べたいと思ってくだされば……」
マレンが、こちらを見た。
「お嬢様は、何を尋ねても、どちらでも構いませんとお答えになります。お召し物も、お食事も。ご自分で選ばれることが、もう、ないのです」
言いながら、声が細くなっていくのが自分でも分かった。
「一口でも……食べたいと、思っていただけたら」
近くで洗い物をしていた若い女中が、そっと手を止めた。
「お嬢様、去年の収穫祭にも厨房へいらっしゃいましたね。焼きたてを一切れだけ召し上がって、とてもおいしいと仰ってくださって」
「手を動かしなさい」
マレンがたしなめると、女中は慌てて洗い物へ戻った。
マレンはしばらくリーンを見つめ、短く息を吐いた。
「小さな一切れだけよ」
「……はい」
「それと、無理に勧めないこと。置いておくだけになさい」
「はい。ありがとうございます」
リーンが深く頭を下げると、料理長が林檎の籠を引き寄せた。
「皮の薄い実を使え。酸味の少ないやつだ」
厨房の者たちもまた、コーデリアを案じていた。
◇
小さな皿に、小さな一切れ。
林檎の甘い匂いが、寝室の空気を少しだけ変えた。
リーンは寝台のそばの卓へ皿を置いた。
「コーデリアお嬢様。お好きなアップルパイを、お持ちしました」
食べてくださいとは言わず、静かに一歩下がった。
コーデリアの碧眼が、わずかに動いた気がした。
けれど、それだけだった。
庭師が届けた薄青のばらが、窓辺の花瓶で揺れている。
レオナードが置いていった本は、閉じたまま。
アルベルトが用意させた静養先も、選ばれないままだった。
昼の鐘が鳴っても、アップルパイの皿はそのままだった。
「――そう。冷めてしまったわね」
様子を見に来たマレンが、皿を取り上げた。責める調子ではなかった。
それが、かえって胸に残った。
「片づけておきます。あなたは残って、お嬢様のおそばに」
扉が閉まる。
寝室に、二人だけになった。
リーンはシーツの皺を整え、枕の位置を直した。
それから、白い布の上へ広がる群青の髪を、指先でそっとすくい上げる。
櫛を通した髪に、絡みは残っていない。
けれど、いつものように結い上げることもなければ、仕上がりを鏡で確かめてもらうこともない。
「今日は、きれいに梳かせたと思うのですが……」
返事はなかった。
リーンは髪を傷めないよう、ゆっくりとシーツへ戻した。
窓から差し込む光の中で、深い群青と、肩からこぼれた自分の淡い青色が並ぶ。
違う色だった。
それでも、その二つの青を見ていると、六つの年の、あの廊下が胸に浮かんだ。
リーンの唇が、かすかに震えた。
「お姉様……」
幼い頃に許された呼び名が、声になってこぼれた。
――シーツの上の指が、かすかに動いた。
リーンは瞬きをした。
もう一度見る。
細い指は白い布の上に静かに置かれたままだった。
何も変わっていない。
見間違いだ。
そう思って、リーンは目を伏せた。
◇
幼い頃、リーンはコーデリアの乳母を務める祖母に連れられ、伯爵家へよく出入りしていた。
屋敷の使用人たちにも顔を覚えられ、会えば声をかけられ、時にはお菓子をもらうこともあった。
祖母と手をつないで伯爵家へ向かう時間を、リーンはいつも楽しみにしていた。
だが、リーンが六つの年のことだった。
いつものように祖母と伯爵家を訪れたその日、祖母が突然倒れた。
大人たちの声が、いつもとは違っていた。
医師が呼ばれ、祖母が運ばれた部屋の扉が閉められた。
慌ただしく行き交う者たちは、誰もリーンに何が起きたのかを教えてくれなかった。
意味は分からなかった。
分からないから、怖かった。
廊下の隅にうずくまって泣いていると、衣擦れの音がした。
「あら。どうしたの?」
顔を上げると、群青の髪の少女が屈み込んでいた。
当時のコーデリアは十を少し過ぎた頃で、それでも六つのリーンには、ずいぶん大人に見えた。
「おばあちゃんが……」
しゃくり上げて、それ以上言えなかった。
「……そう」
コーデリアはリーンの隣に座った。
伯爵令嬢が、廊下の床に、そのまま。
そして手を握った。
「大丈夫よ」
「ほんとうに?」
「ええ。お医者様がついていらっしゃるもの」
コーデリアは、リーンの濡れた頬を指で拭った。
それから自分の髪の一房を取り、リーンの髪のそばへ並べてみせた。
濃い群青と、淡い青。
「見て。同じ色ね」
リーンは涙を拭くのも忘れ、二つの青を見た。
「……ちがいます。お嬢様のほうが、こい」
「同じ色よ」
コーデリアは笑った。
少し得意そうな笑い方だった。
「目も同じ。ねえ、同じ色だから、私の妹よ」
妹。
その言葉が、恐ろしさで冷えていた身体の内側へ、ゆっくり落ちてきた。
「誰もいない時は、お姉様と呼んでいいのよ」
コーデリアを主人として仰ぐようになってからも、その呼び名だけは、リーンの胸の奥に残っていた。
◇
昼過ぎ、車寄せのほうで馬車の音がした。
リーンが窓へ寄ると、見覚えのある紋章を掲げた馬車が、門を抜けてくるところだった。
心臓が、内側から一度強く叩かれた。
リーンはコーデリアの様子を確かめてから、寝室の扉を細く開けた。
廊下では、マレンが足早に階段のほうへ向かっていた。
「マレンさん。今の馬車は……」
呼び止めると、マレンは周囲を確かめ、声を落とした。
「ブランベルク公爵家の家令様よ」
「家令様が、なぜ?」
「婚約破棄の後の両家について、話し合いに来られたの。それと――」
マレンはそこで一度言葉を切り、リーンの顔を見た。
「……ご子息も同行されているわ」
リーンの指先が冷えた。
「ご子息は、公爵様から、コーデリアお嬢様へ直接お詫びするよう命じられたそうよ。けれど、呼ばれるまでは別室で待つことになっているわ」
マレンは寝室の扉へ目を向けた。
「あなたはお嬢様のおそばにいて。ここから出なくていいわ」
「……はい」
リーンは寝室へ戻り、静かに扉を閉めた。
婚約を破棄したのは、グリード自身だ。
謝罪なら、公爵家の家令だけでも足りるはずだった。
それなのに、なぜ今さら本人まで、この屋敷へ来たのだろう。
胸の奥に生まれた小さな不安を押し込めるように、リーンは寝台へ目を向けた。
◇
半時ほどが過ぎた。
屋敷はまだ静かだった。
その静けさに、リーンはかえって耳を澄ませた。
廊下の絨毯を踏む足音が、私室区画へ近づいてくる。
侍女や下働きの足音ではない。
踵の硬い、堂々とした歩き方だった。
一歩ごとに、リーンの背筋が強張っていく。
「――グリード様。恐れながら、こちらは奥様のお部屋へ続く廊下でございます」
廊下から、マレンの声が聞こえた。
「お待ちになるお部屋は階下でございます。どうぞお戻りを」
「案内はいらない。道は知っている」
三週間前、この屋敷の小応接室で、天気の話のように婚約を破棄した声だった。
足音は止まらない。
エレオノーラの部屋の前を通り過ぎ、なおもこちらへ近づいてくる。
リーンは寝室の扉へ向かって走った。
廊下へ出た時には、グリードはもう目の前まで来ていた。
「そこをどけ」
「――お嬢様は」
声が震えた。
情けないと思った。
喉が狭くなり、息が足りない。
それでもリーンは、寝室の扉を背にして、グリードの前へ立った。
「お嬢様は、どなたともお会いになれません」
グリードは答えなかった。
当然のように手を伸ばし、リーンの肩を押しのけた。
身体が簡単に横へ流れる。壁に肘が当たり、鈍い痛みが走った。
痛みより先に、扉の開く音が聞こえた。
グリードが寝室へ入っていく。
リーンは壁へ手をつき、すぐに体勢を立て直した。
膝が笑っている。
喉の奥がふさがっている。
あの人は公爵令息で、自分は侍女見習いだ。逆らってよい相手ではない。
それでも、足はもう動いていた。
「――誰か! 旦那様と奥様、若様をお呼びして!」
背後でマレンの声が上がった。
使用人が階段へ駆けていく足音がする。
それを待たず、リーンは開いた扉の中へ飛び込んだ。
寝台へ向かうグリードの脇をすり抜け、前へ回り込む。
息が上がっている。
足が震えている。
それでも止まらなかった。
寝台とグリードの間へ、身体を割り込ませる。
背後には、白いシーツの上に広がる深い群青の髪。
正面には、金の髪の公爵令息。
怖くないわけではなかった。
それでもリーンは、コーデリアとグリードの間へ、もう一度立った。




