【第69話 その先を】
「先生……」
健は深く頭を下げた。
「重ね重ね、ありがとうございました」
弁護士は軽く頷く。
「林、逮捕されたと聞いています」
静かな口調。
「ひとまず、安心ですね」
健も小さく頷く。
だが——弁護士の表情が、少しだけ引き締まる。
「ただ」
一拍置く。
「ヤクザは、何をするか分からん」
真っ直ぐに見る。
「くれぐれも、気を付けて下さい。子分が仕返しに来るとか、出所後に……」
言葉を濁す。
「ようある話です」
健は黙って聞いていた。
「……はい」
短く答える。
「ありがとうございます」
もう一度、頭を下げる。
ドアへ向かう。手をかけて、少しだけ振り返る。
「では……また、一ヶ月後に」
弁護士は静かに頷いた。
扉が閉まる。その音だけが、部屋に残る。
外の光は、変わらず明るかった。
だが——すべてが元に戻ったわけではない。
それでも。前に進むしかなかった。
◆
健は、JR加島駅を降りた。
いつもの帰り道。工場へ向かう足取りは、まだどこかぎこちない。
その時——サイレンが、耳についた。
一台やない。二台、三台と、重なるように鳴り響く。
胸の奥がざわつく。
工場へ近づくにつれ——その音は、次第に大きくなっていった。耳を震わせるほどに。
(……まさか)
足が速くなる。
やがて、角を曲がった瞬間——
視界が、赤に染まった。
工場は——すでに炎に包まれていた。
熱気が、肌を刺す。煙が、空を覆う。
そして——ある一角から、異様な火柱が立ち上っていた。黒く、重い炎。
それは、廃油のドラム缶があった場所だった。
(……あそこか)
膝から力が抜ける。その場に崩れ落ちる。
炎は、容赦なく燃え上がる。すべてを飲み込むように。
その光景は——どこかで、自分の中の何かと重なった。
犯したこと。逃げたこと。選んだこと。
積み重なった業が、燃えていく。昇っていく。
しばらく、ただ見ていた。
やがて——健は、ゆっくりと立ち上がる。
目の前には、炎。背後には、もう戻れない過去。
それでも——その顔には、わずかな静けさがあった。
風が吹く。煙が流れる。
健は、顔を上げる。
まだ見えない、その先を。
ただ——まっすぐに、そして少し清々しい思いで見つめていた。




