【第68話 もう一度、前に】
裁判が終わって、二ヶ月。
ようやく、日常が戻りかけていた。
その日の午後。
シャッターの向こうから——低く、くぐもった排気音が響く。
胸の奥が、ざわつく。
(……なんや)
嫌な予感が、背中を這い上がる。
ガラガラ——
シャッターが開く。
黒のマセラティ。その横に立つ、スポーツ刈りの男。
一瞬で分かった。足元が、震える。
「……探したでぇ」
低い声。
「新聞の記事、見落としてたがな」
ゆっくり近づいてくる。
「お前やったんか」
次の瞬間——拳が飛んだ。
「ぐっ……!」
体が折れる。
「思いっきり、どつきやがって。なめとんのか」
蹴りが入る。
「ぐはっ……!」
息が詰まる。
「慰謝料もろときに来た。百でええわ。用意せえ」
「そんな……大金——」
さらに一発。
「言い訳いらん」
「それよりや」
顔を近づける。
「お前らの指示役、誰や。実行犯のお前ら、尻尾切られたんやろ」
健は息を整えながら答える。
「……違います。僕らは……アプリで指示されただけで。携帯も、警察に提出してます」
男の目が細くなる。
「ほう……このシステム、ええやんけ」
ニヤリと笑う。
「もろとくわ」
一歩、距離を取る。そして——マセラティを指差す。
「あと、この車」
短く言う。
「十分でオイル交換せえ。ボケが」
エンジン音だけが、静かに響いていた。
◆
「先生……」
健は、少し疲れた顔で椅子に座った。
「実は……こんな目に合いまして」
拳の痕。まだ残る痛み。
「何とかしてもらいたくて……声が少し震える。「怖くて、仕事が出来ません」
弁護士は黙って聞いていた。やがて、静かに口を開く。
「分かりました」
短く、はっきりと。
「警察に被害届を出しましょう」
健が顔を上げる。
「今はな——」
弁護士は少しだけ言葉を選ぶ。
「暴対法もある。ヤクザは、昔みたいに好き勝手できる時代やない」
真っ直ぐに健を見る。
「ちゃんと守られる」
「勇気出して、行こ」
健はしばらく黙っていた。
そして——ゆっくりと頷いた。
恐怖は消えない。それでも。
もう一度、前に進むしかなかった。




