【第65話 消えなかったもの】
マシェリ十三店。
「くそ……」
慎二は、鏡越しに自分の顔を睨みつけた。
「あいつ、一人で逃げよった……」
まだ大丈夫やった。まだ間に合った。
「吐けば……俺も終わりや」
指先に力が入る。
「どうせ捕まるんやったら……」
喉の奥で言葉が転がる。
「自首せなあかん……」
昼過ぎ。スマホを手に取る。弁護士事務所の番号を押そうとする——
その時。
ふと、視界に入る。ガラス越しに、店内を覗き込む女。
「……くそっ」
舌打ちが漏れる。ドアが軽い音を立てて開く。
「あ、どうしたん?」
「あ、この前ご馳走さま」
屈託のない笑顔。
「近く通ったから、顔見たくて」
慎二は一瞬だけ目を逸らす。
「……まぁ、入り。セットしたるわ」
「ええん?嬉しいわ」
女は何も知らない顔で椅子に座る。鏡越しに、目が合う。
「あんな」
女が話し始める。
「あれからな、刑事が何回も来るんよ」
その一言で、空気が変わる。
「それでな、誰か、お店の客教えてくれって言われて——」
心臓が強く打つ。
「あんたの事、言うたんよ」
——止まる。
世界の音が、すっと遠のく。
「そしたら刑事がな、その人のこと好きなん?って聞くねん。なんて答えてええか分からんかってーん」
声は聞こえている。だが、意味が入ってこない。
(……このアホ女が)
目の奥が、じわりと熱くなる。
(そもそも……)
(こいつから誕生日の話、聞いたんが始まりや)
指に力がこもる。ハサミが、わずかに震える。
「でな、でな——」
女は気づかない。無防備に、笑っている。
(……今やったら)
一瞬、よぎる。
(首、絞めたろか)
その時——
鏡の奥。景色の中に、違和感が混じる。
ずんぐりした影。その横に、背の高い影。
見慣れたシルエット。一歩、近づいてくる。
(……終わった)
何もかもが、静かに崩れ落ちる。
「なあなあ」
女はまだ笑っている。
「うちら、付き合う?ねぇ、ねぇって——」
「あ」
女が鏡越しに気づく。振り返る。
「刑事さん」
「この人が、この前の——」
その言葉を遮るように。
「金本慎二」
低く、確かな声。
「令状が出とる」
一歩、間合いを詰める。
「同行してもらうで」
逃げ場は、どこにもなかった。
慎二は動かない。いや——動けなかった。
「……え」
「えっ……」
女の声だけが、場違いに響く。
鏡の中の自分が、他人のように見えた。
◆
「金本慎二、確保しました」
「今から向かいます」
無線越しの声。
「よし」
班長が短く答える。
「ようやった」
その一言で、すべてが終わった。
3人を乗せた車が走り去る。キザシのテールランプが、ゆっくりと遠ざかっていく。
その後ろ姿を、ただ見送る。
ふと——残された女が一人立っていた。言葉はない。ただ、そこにいるだけ。
何も知らなかった者。何かを知ってしまった者。
その境界に立つように——静かに、佇んでいた。
◆
翌朝。新聞の片隅。小さな記事。
〈連続強盗致傷事件 容疑者逮捕〉
西淀川区の美容師、金本慎二。同じく西淀川区の自動車工、松本健。
数行の文字で、すべてが片付けられていた。
その記事の横には——
〈岸和田市の自動車部品解体ヤードで火災〉
原因不明。深夜、タイヤなどが激しく燃えたとある。
だが——そこにあったはずの"何か"は、もう残っていなかった。
街は、何事もなかったかのように動き出す。
それでも——消えたものと、消えなかったものがある。
その境界だけが、静かに残っていた。
そこに書かれていないものの方が、多かった。
静かに、日常が戻っていく。
あの夜の選択だけは、消えることはなかった。




