【第62話 前へ進む】
弁護士は時計に目をやり、ゆっくり立ち上がった。
「では……行きますか」
静かな声だった。
「自首は、早ければ早い方がいい」
健も立ち上がる。足に、わずかな重みを感じる。
「示談の金は、用意できそうですか?」
「……はい」
短く答える。
「百万円」
弁護士は頷く。
「分かりました」
書類をまとめながら続ける。
「それと、今回の弁護料ですが」
顔を上げる。
「島田先生から事情は聞いていますので、百万円の一割——十万円で、結構です」
健は一瞬、言葉を失う。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる。弁護士は軽く手を振る。
「いいんですよ」
扉の方へ歩きながら言う。
「今は、それより大事なことがありますから」
健は無言で頷いた。
もう、後戻りはできない。そのことだけが、はっきりしていた。
◆
タクシーがゆっくりと止まる。
「着きました」
運転手の声。健は窓の外を見る。
大阪府警本部。
無機質な建物が、夜の中に静かに立っている。
料金を払い、ドアを開ける。外の空気は、思ったより冷たかった。
しばらく、その場に立つ。見上げる。高くそびえる建物。
(……ここか)
逃げようと思えば、まだ間に合う。振り返れば、いくらでも道はある。
だが——
健は一歩、前に出た。隣に弁護士が並ぶ。
「行きましょう」
健は小さく頷く。二人は建物の中へ入った。
◆
二十二時。受付の警察官が顔を上げる。
「どうしましたか?」
弁護士が一歩前に出る。
「自首です。手続きをお願いします」
一瞬、空気が止まる。
「あ……はい。少々お待ち下さい」
内線を取り、短くやり取りをする。
「こちらへどうぞ」
奥へ案内される。足音が廊下に響く。小さな部屋に通される。
「今、課長がこちらに向かってますので、少しお待ちを」
健は頷き、椅子に腰を下ろした。手のひらに汗がにじむ。
やがて、ドアが開く。数人の刑事が入ってくる。一人が前に出る。
「お待たせしました。どういったご用件でしょうか」
弁護士が答える。
「本日、自首のために来ています。事情聴取には、私の同席をお願いします」
刑事の表情がわずかに変わる。
「……申し訳ありませんが、今回の事情聴取については、弁護士の同席はお断りさせていただきます」
空気が張り詰める。弁護士が健を見る。
健はゆっくり頷いた。
「……大丈夫です」
弁護士は小さく息を吐く。
「分かりました」
「落ち着いて、正直に話しなさい」
健は頷く。
刑事が言う。
「では、こちらへ」
健は立ち上がる。
振り返らない。そのまま、前へ進む。




