【第57話 西田支配人】
「高やん、そろそろ出よか」
橋本が声を掛けたのは、十五時半。
高橋はデスクに突っ伏したまま、うつらうつらしていた。資料の上に腕を投げ出し、そのまま眠りに落ちかけている。
「……寝かけてたで」
橋本が苦笑する。
高橋はゆっくり顔を上げ、人目もはばからず大きなあくびを一つ。
「……行くか」
椅子を引き、体を引き伸ばす。そのまま振り返り——少し離れた位置にいる班長に声をかける。
「班長、尼へ行きます」
班長が顔を上げる。
「おう」
高橋は続ける。
「先に尼崎署へ挨拶しときますんで。連絡、よろしゅう頼んます」
班長が軽く手を上げる。
「分かった」
それだけで通じる。
「千秋言うたか」
橋本が先に歩き出す。
「林のコレや」
高橋が後ろから続く。
「楽しみやな」
少し間を置いて——
「アレもやってないか。ちゃんと見なあかんな」
◆
車に乗り込み、尼へ向かう。
阪神尼崎に着いたのは、十七時ちょうど。空はゆっくりと色を変え始め、街に夜の気配が滲み出している。
ドルチェビータ。
店はまだ営業前。中ではウエイターがネクタイを緩め、フロアを念入りに磨いている。グラスが整然と並び、照明は半分だけ落ちている。開店前の静けさの中に、わずかな緊張が混じる。
その空間に、二人が足を踏み入れる。
「すんません」
声がわずかに響く。ウエイターが顔を上げる。
「支配人か、店長か……」
橋本が続ける。
「マネージャーいてはります?」
空気が、わずかに張り詰めた。
◆
「どちら様ですか?」
フロアを磨いていたウエイターが、手を止めて顔を上げる。
「ああ、こういうもんです」
橋本が手帳を開く。
「手帳の押し売りやあらへんで」
軽く笑う。ウエイターの表情は、まだ固い。
「……どういったご用ですか?」
「ちょっと事件が続いてましてね。その件で」
ウエイターは首をかしげたまま、奥の事務室へ入っていく。
しばらくして——奥から一人の男が出てきた。
薄くなった頭髪をポマードで撫でつけ、きっちりとオールバックにしている。小柄だが、目だけは鋭い。
「えーと……どういったご用件ですか?」
橋本が軽く頭を下げる。
「なんや、聞くとこによると、大阪府警さんらしいやん」
男は探るような目で見る。
「なんで尼に?」
橋本はすぐに笑顔を作る。
「ああ、実はね。隣の吹田や大淀で、ホステスさんが帰宅間際に襲われる事件が続いてまして。事情よう知ってる私らが、その延長で、尼崎まで出張ってきたんですわ」
男は小さく息を吐く。
「……はぁ」
まだ完全には警戒が解けていない。
橋本は間を空けず続ける。
「おたくは?」
「西田言います。支配人です」
橋本が一歩だけ距離を詰める。
「支配人さん。申し訳ないんやけど、ホステスさんが出勤してきたら、一人五分でええんで、ちょっと話、聞かせてもらえんやろか」
軽く手を振る。
「営業の邪魔はせえへん。迷惑はかけませんよって」
西田は一瞬考える。フロアの静けさの中で、その沈黙が妙に長く感じられる。




