【第21話 ライター】
犯行当日の夜。
工場の屋根を打つ雨音が、途切れることなく続いていた。シャッターは半分だけ下りており、外の街灯が滲んで、濡れた地面の光が揺れている。
健は奥に立っていた。油の匂いと湿った空気が、静かに広がっている。
やがてシャッターがわずかに揺れ、慎二が中へ入ってきた。肩に落ちた雨粒を払い、そのまま歩いてくる。健の前で止まった。
「……行くか」
健は頷く。
「ナンバー出来たんか」
「あぁ」
「神戸にしたんか」
「そっちの方がええやろ」
短く終わる。
「どこでやる」
「エントランスか」
健は少し視線を落とす。
「前と同じでいくか。エントランスから入って、エレベーター」
慎二が言う。
「十階で待つか」
健は首を振った。
「十階やと、逃げる時に時間が掛かるな」
雨音がわずかに強くなる。
「……下やな。タクシー追わんと、マンション近くで待ち伏せや」
慎二は小さく頷く。
「誕生日やから、前みたいに一時過ぎるかもな」
「……せやな」
それで終わりだった。
◆
一時を十分ほど過ぎたころ、マンションの前にタクシーのライトが滲んだ。雨に濡れた路面が光を返している。
ゆっくりと停まり、ドアが開く。シホが降りる。いつもより荷物が多い。
慎二はエントランスで待ち伏せしている。健は車内から携帯を操作する。
――着いた。
すぐに既読がつく。返信はない。それでいい。
シホは傘も差さず、足早にエントランスへ入る。ガラスの扉が閉まり、外の雨音がわずかに遠のく。
エントランスの中、白い照明が濡れた床に反射している。
慎二は壁際に立ったまま動かない。サングラスにマスク。どう見ても怪しい。
シホが近づく。わずかに警戒の色が浮かぶ。距離が詰まる。
横を通り過ぎる、その瞬間――
腕が振り抜かれた。
鈍い音。シホの身体が前に崩れる。
慎二はスポーツバッグを掴み、引き剥がそうとする。だが、離さない。揉み合いになる。
「誰か――!」
「ドロボー!」
声がエントランスに響く。
慎二は顔面を殴る。鈍い衝撃。指の力が緩む。ようやく、手が離れた。
慎二はバッグを掴み直すが、その瞬間、濡れた床に足を取られる。踏み込みが狂い、体勢を崩して転ぶ。すぐに起き上がる。
シホはふらつきながら立ち上がり、壁に手をつく。視線が定まらないまま、すぐそばの赤いボタンへ手を伸ばす。
火災報知器。
押す。
警報音が鳴り響く。
慎二の動きが一瞬止まる。それでも止まらない。転がるように外へ飛び出す。
雨の中を走る。車はすぐそこだ。開いたままのドアに滑り込み、「出せ」と短く言う。
健はアクセルを踏み込む。タイヤが水を弾き、車はそのまま夜へ抜けていった。
エントランスには警報音が鳴り続けている。シホはその場に立ち尽くし、荒い呼吸を繰り返していた。やがて火災報知器の前へ戻り、震える手でボタンを押す。
音が止まる。静けさが戻る。
濡れた床に散らばる荷物。その中にあるはずのものが、ない。
バッグが消えている。
その事実だけが、はっきりと残る。
◆
車は雨を切り裂くように走っていた。ワイパーが一定のリズムでフロントガラスをなぞる。
健は前を見据えたまま、何も言わない。慎二もまた、言葉を発しない。
張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていく。
慎二はポケットに手を入れ、タバコを取り出す。一本くわえ、火をつけようとして指を止めた。
ライターがない。
もう一度ポケットを探る。ダッシュボードにも手を伸ばす。見当たらない。
「……あれ」
小さく呟く。
あの店のライター。
「……落としたか」
対向車線からサイレンを鳴らした消防車が走り抜ける。赤色灯が雨粒に反射し、フロントガラスいっぱいに滲む。
一瞬、車内が赤く染まる。
二人とも何も言わない。
消防車はそのまま遠ざかり、音だけがしばらく残る。やがて、それも消える。
車は雨の中を、ただ走り続けていた。




