20話
土曜日。
魔王は日の出より早く目覚める。
それは魔王の座を志し、己を厳しく鍛え始めてからの習慣。
朝に鍛錬して、昼間も鍛錬して、夜も鍛錬する。
魔族の諺にもある。
『朝一番で地域猫に奉仕せよ』
他者より先んずれば得を得る。そういう意味だ。
(ベッドの中から出たくない〜♪ ピーターが起こしに来るまで出たくない〜♪ ベッドの中は天国すぎる〜か〜ら〜♪)
しかし魔王は目覚めてからも、ぬくぬくベッドの余韻を楽しむ。
魔王国の貴族文化において、主は使用人よりも早く起きては駄目なのだ。
主が朝早く起きる。
すると使用人はそれよりも早く起きねばならない。
当然夜は主より早く寝てもいけない。
必然、使用人の休む時間が無くなってしまう。
睡眠不足で過労した使用人が失敗をすれば、それは主の失点となるのだから、良い主は使用人を気遣って、朝早く目覚めても寝たフリをしなければならないのだ。
なので若き日の魔王は朝早く起きても部屋からは出ず、室内で可能な自重トレーニングを行っていた。今は非力な体に不貞腐れているので怠惰に朝を過ごす。
(はぁ〜、新日本国に転移して唯一良かった事は、愛情の重いピーターから解放された事だ)
魔王の専属メイドピーター。
2人の付き合いは、実はかなり長い。
魔王は元々、魔王国のとある伯爵家の次男である。
産まれた時からの貴族。
いわゆる高貴な黒い血と言うやつだ。
地球では貴族を青い血と言うが、魔王国では黒い血と表現される。
理由として、虫っぽい魔獣の血が青いから印象が悪い。
黒だとなんかカッコイイ。
それだけ。
話を戻そう。
魔王とピーターが勇者との最終戦で別れた時、魔王(32)ピーター(25)
歳の差は7歳。
2人の出会いは魔王(14)ピーター(7)の時だった。
ピーターは7歳まで巨乳の母親と2人暮らしの母子家庭。
ピーターの母親は娼婦である。
ピーターは父親を知らない。
母親はピーターに愛情を注いだが、色街でのあれやこれやは子供の情操教育にはとても悪かった。
だからピーターは幼い頃から口調が悪く、態度も荒く、男が大嫌い。一人称も俺である。
夜。母親は客を取る。
さいわい母親は真っ当な娼館住みだったので、住む場所には困らず、ピーターに仕事の様子を見せずに済んだ。
母親が客とまぐわう間、ピーターは娼館のやり手婆が面倒をみてくれた。
それでもやはり、母親が客と何をしているのか。
子供は何となく察するものだ。
娼館の姉達(娼館では先輩を姉、後輩を妹と呼ぶ)
卑猥な姿で男を誘う。
仕事部屋から漏れ出る男女の嬌声。
耳を塞いでも聴こえる、目を閉じても分かってしまう。
姉達や、大好きな母親の淫らな姿。
幼いピーターは思う。
自分はこんな仕事は嫌だ。
男は乱暴で臭くて汚い。
絶対に男には触られたくない。
そうだ、体を鍛えよう。
男を殴れる拳を鍛えよう。
こうしてピーターはシャドーボクシングに夢中になる。
7歳の時、母親が死んだ。
遺伝性の血液病だ。
魔法薬も回復魔法も効かなかった。
医者には半年前から血液の癌の一歩手前と診断されていた。
海へ行き、サーフィン療養しないと助からないと余命宣告をされていた。
「人族と戦争しているんだもの、外国の観光地でサーフィンなんてできないわよ」
母親はそう言って悲しく笑うのだ。
ピーターは世の中が許せなかった。
母親は産まれも育ちもロクなものではない。
若くして娼婦に身をやつし、どの客の子供とも分からない自分を産んで育て、最後は病気で死ぬ。
それだって、人族の侵略がなければ助かったのだ。
今は人族の支配下に落ちてしまった某観光ビーチでサーフィン療養すれば完治した。
世界全体から見れば、本当に取るに足りないちっぽけなピーター母娘。
世界に迷惑をかけず、目立たず、端っこで頭を下げて、ささやかに生きていく。
なのに神はそれすらも許さない。
神は母親からもピーターからも、本当に僅かな笑顔すら奪って、この世から排除しようと躍起になっている。
小さなピーターにはそう思えてならなかった。
だからピーターは世の中が許せない。
世界の全てが憎かった。
母親はピーターが8歳になる前にこの世を去った。
「ごめんね ごめんね」
そう繰り返して死んだ。
ピーターは泣かなかった。
余りにも悲しすぎて、神への怒りが強過ぎて、涙が出なかった。
ただただ、人目に隠れてシャドーボクシングをした。
誰とも知らぬ父親を想って殴り。
全知全能の神を想って殴る。
拳の一振り一振りがピーターの涙であったのだ。
母親の葬儀を終えて数日後。
子供のピーターには2つの選択肢が用意されていた。
このまま娼館の下働きとして残り、将来は娼婦になる道。
もう一つは国の孤児養護制度による、奉公先の斡旋である。
娼婦になるのは死ぬよりも嫌だった。
野蛮で汚くて暴力的、栗の花臭かったり、イカ臭かったりする男に抱かれるくらいなら、魔獣の頬袋ハムと結婚した方が1000倍マシだった。
残された道は国の制度を頼って奉公に出ること。
国が認めた奉公先なら娼婦になるよりはまともだろう。
そう決意して、とある伯爵家のメイド見習いとなった。
◇◇◇◇◇
魔王はベッドの中でモジモジ。
朝は不思議と、微睡みの余韻に後ろ髪を引かれる。
毛布に染み付いた自分の香りと温もり。
それがとても良い物に感じられて、後5分、もう5分。
「……いい加減起きるか」
魔王は体を起こしてベッドの縁に座る。
今日は桜家の当主と藤家の相談役が魔王を訪ねてやって来る。
藤家は魔王の身内だと主張しているらしい。
藤家など皆目、身に覚えがない。
やはり魔法を見せ過ぎたのが良くなかったのだろう。
エミリオと出会ったあの時、もっと自重していれば、妙なトラブルに巻き込まれる事もなかったはずだ。
魔王は「ふぅ」と溜め息をついて洗面台の前に立つ。
「浅はかな己から出た錆びだ。今の見た目通り、我の心は幼く迂闊になってしまったのだろう」
鏡に映るのは美貌の姫君。
魔王は自身の姿に嫌悪しながら洗顔ヘアバンドで前髪を上げ、洗顔料を手に取る。
化粧品メーカー『エリュシオン』のオーガニック洗顔料だ。
手のひらに乗せた適量の洗顔料を、少量のぬるま湯で溶いて良く泡だてる。
ふわふわのメレンゲ状になるまで捏ねてから顔に乗せ、決して擦らずマッサージするように優しく洗う。
(この洗顔料、ピーターが用意してくれた物に感触が良く似ていて肌に馴染む。思えば我は長い事、ピーターに助けられていたな)
魔王は念入りに洗顔しながら、初めてピーターと会った時の様子を思い出していた。
魔王が魔王ではなく、肉体改造前の可憐な姫(男)であった14歳の時。
メイド長のヴァロワに連れられた発育不良な幼女が伯爵家にやって来た。
「リムリアスお坊ちゃま、これは本日からメイド見習いとして伯爵家に仕えますピーターでございます」
メイド長のヴァロワは巨乳熟女。
少女の頃から伯爵家に仕えて勤続三十数年。
サバサバした性格でキツイ物言いをする反面、愛情深く面倒見が良い。
隣に立つ幼女は本当に小さく、少し癖のある金髪を安物の紐で束ねて、サイズの合わない中古のメイド服に身を包み、綺麗な瞳を大きく開いて魔王をじっと見つめていた。
「リムリアスお坊ちゃまにご挨拶なさいピーター」
ヴァロワがピーターの背中を軽く押す。
ピーターは一度、ヴァロワの顔を見て、再び魔王の顔を見つめ、それから2人の出会いの初めての言葉を世界に生み出した。
「この人はお坊ちゃまじゃない。お姫様だよ」
それがピーターの第一声。
「まあっ!」と目を釣り上げるヴァロワを気にもせずピーターは続ける。
「俺は男が嫌い。臭くて汚いから嫌い。
でも地平線から登り始めた太陽や、雲一つない澄み切った晴天や、世界を赤く染める夕日や、夜空を埋め尽くす星の光は好き。美しいものは全部好き。
だから姫様も大好きだ」
そう言って笑ったピーターの顔を、魔王は今でも良く覚えている。
そして正直、お姫様と言われて嫌だった。
「え〜と、ピーター? 我は男の子だから、お姫様じゃないよ? 分かった?」
「分かった。俺、姫様の専属メイドになる!」
ピーターは言って聞く娘ではなかった。
とにかく魔王に執着して、魔王のする事やる事先回りしてお世話を焼きたがった。
魔王がお姫様だという狂った主張を曲げる事もなく、魔王が魔法的治療で身長を伸ばすと大激怒して大喧嘩した事もある。
魔王はお姫様なのだから、常に美しくなければと、怪しい健康食品(発酵食品)や、効果はバツグンだが原材料の怪しい石鹸やシャンプーや化粧品を自作して、魔王に使用を強要する。
もう一方では、生まれ持った聖属性魔法の高い適性を大いに活躍させ、貴族を治療して権力者との繋がりを作る。
或いは下町の孤児院に出向いては、子供達や貧困層を無償で治療して聖女と呼ばれ名声を得る。
そうして得た力は、魔王が魔王になる為の裏工作に惜しげもなく投入されていた。
魔王は回想の海から浮上。
洗顔後の化粧水と乳液を済ませ、次はヘアセットと本日の服選びだ。
(新日本国に転移するまではピーターとユートがやってくれたこと。自分で出来ない事もないが、自分でやる程に2人の有難みが良く分かる)
魔王は髪を結おうとして苦戦する。
高位の者との面会に相応しい服を選ぼうにも、センスが足りない。
ないないの足りない物ばかりで、今まで魔王を支えてくれていたセレンティアスやユートやピーターを想って悲しくなる。
「はぁ〜」と再び溜め息を吐くと、部屋のインターホンがなった。ドアホンモニターで確認するとユーリだ。
「おば様、おはよう」
「苦戦してるねリム」
ユーリが魔王に代わって髪を結う。
お姫様らしい服も選んでくれる。
「アクセサリーも着けた方がいい。私の物を貸そう」
「かたじけな……くはない。アクセサリーまで必要だろうか」
「必要だとも。女はいつでも綺麗でありたい。周囲から綺麗だと思われたい。そうだろう」
「いや、我は男の子だから」
「はいはい。リムの自称男の子妄想はその辺で終わり。イヤリングとネックレスと、マニュキュアもしよう」
分かっていて悪ノリのユーリに対して魔王に拒否権など存在しない。テロリストに一度でも譲歩すれば、身の破滅する時まで譲歩を続ける事になるのだから。
ワンピース型のドレスに装飾品。仕上げに薄く化粧をして、魔王は世界で一番可愛い女の子へと変身する。
「準備は完璧。行こうかリム」
「うむ、ユーリおば様、かたじ……けない」
もうすぐ、リムリアスの運命が動き出す。




