1話
どれほどの時間意識を失っていたのか。
魔王は未だ疲労の極致にあった。
勇者との死闘によって満身創痍となり、泥に沈んだ意識は覚醒を拒絶している。
全身が痛い。骨が軋んで悲鳴を上げている。
筋肉痛も酷い。指先を動かすだけでもやっとだ。
「く、うぅ、はぁ〜」
息を吐いて己を鼓舞する。どれだけ辛かろうと魔王は起きねばならない。
勇者との戦いの結末は。
人族の軍隊は撤退したのか。
魔族の民は無事に北の大地へ逃げられたか。
精神力を総動員して、鉛のように重い瞼を薄く開いた。
チュン、チュチュン。チロチロピー。
小鳥の鳴き声が耳に届く。警戒心の欠片もない、朗らかで透き通った囀りだ。
「あ、うん、はぁ、よいっせ」
右手をついて上半身を起こす。悲鳴を上げたい衝動を歯を食いしばって堪える。魔王たる者、女子供の様に泣く訳にはいかないのだ。
(ここはどこだ?)
土と木が香る。温かな空気が頬を撫で、柔らかい陽の光が瞳に視力を与えてくれる。
(森だ。王都ではないぞ)
周囲は見渡す限りの森。激戦によって半壊した王都ではない。良く見れば植生も魔王国の物とは違う。
魔王は混乱した。
(あの時、漆黒の妙な球体に飲み込まれた気がする。もしかすると、あれは転移の魔法具であったのかも)
魔法も魔法具もある世界だ。瀕死の勇者が逃走の為に魔法具を発動して巻き込まれた。十分に有り得る話だと考察する。
(行動しなければ。とにかく情報を得るのだ)
情報は生命線である。
自身の置かれた状況を正しく知る事が生存に繋がるのだから休んでいる暇はない。
痛みは耐えれば良い。迅速に行動するのが肝要だ。
しかし立ち上がろうとして、痛みとは別の違和感を感じた。
(む? 髪の毛が鬱陶しい)
切り揃えていたはずの前髪が顔にかかる。
首すじにも触ってこそばゆい。
髪が重たくて頭が傾く。
筋肉痛で重い腕に鞭打って髪を触ると、肩のよりも下に伸びているではないか。
(これはどうした事だ)
ここまで髪の毛が伸びるのに1年かそれ以上の時を要するだろう。だがそれはおかしい。そんなに意識を失っていたはずはない。魔王は混乱の中で体を起こし、あひる座りをした。いわゆる女の子座りだ。
「な、なんだ?」
驚愕で思わず声が出てしまう。
魔王の体全体にそれだけの違和感、変化が起こっていたからだ。
(スーツがぶかぶかだ。まるでサイズが合っていない)
所々破れ、血と埃で汚れ、元の純白が失われたスーツ。
魔王の為に特別な素材であつらえた最高級の品であり、完璧な採寸によって肉体にジャストフィットしていたはずなのに、ひと回りどころかふた回り以上はサイズが合っていない。
(訳が分からん)
スーツの袖を折って長さを調節する。同様に裾も何度も折って調整する。ベルトを最大まで絞めて固定すると、その動作の中で信じ難い更なる驚きに直面していた。
(手が小さい。筋肉が無くなって恐ろしく腕が細い。腰も少女のように貧弱だ。と言うか、体全体が小さく縮んでいるぞ)
子供の体格であった。正確には魔王の記憶にある15〜6歳頃の体格と酷似していた。
(これは夢か? いや。我は死んで天上の園へ召されたのか)
少年の頃の魔王は周囲から「姫」と呼ばれる美少年であった。美形の魔族の中でもさらに頭一つ抜けた美貌と可憐な愛らしさを持った魔王。
同性愛が当然の文化である。天女の如き美貌の少年には悪い虫が群がる。何人も変わる変わる、連日の様に攻め側の男が愛の告白をする。
「僕とお付き合いして下さい」
「ごめんなさい!」
「2人で最高の想い出を作ろう」
「ごめんなさい!」
「今夜は冷えるね。一緒にベッドを温めようか」
「はい、猫」「フニャ〜!」
「俺のナニはでっかいぞ!」
「近寄るな変態クズ野郎!」
魔王はノンケである。男として女の子が好きだ。だから男からの愛の告白は完全に絶対にノーサンキューなのだ。
「この見た目が悪いんだ。体を鍛えよう。男らしくなろう。そうだ! 魔王を目指そう!」
一念発起した少年時代の魔王は、長年貯めたお小遣いを握り締めて魔女婆さんの診療所に走った。彼女は生物の成長を研究する第一人者であり、金を払えば身長を伸ばしてくれるからだ。
「男らしくなりたいんです! お願いします!」
白衣を着た婆はお金を一瞥して一言。
「その金額だと190センチをちょい切るくらいだね。それで良いかい」
「それで良いです」
「かなり苦痛を伴うけど本当に良いんだね」
「覚悟は出来ています」
「本当に辛いからね。まともな奴はやらないんだよ」
「大きくならなければいけない理由があるんです」
「イヒヒ、分かったよ。良いサンプルがネギ背負って来たわさ」
身長を伸ばす魔法は魔王に出産級の苦しみを与えた。
一度の処置で10センチ。それを5回繰り返した。
つまり魔王は5回出産級の苦しみを経験した事になる。
そうして身長を伸ばし、他人の何倍も努力して体を鍛える。血の汗を流して、涙を拭かず、白濁してドロリとするバニラ味のプロテインをゴクゴク飲みながら何年も何年も。
やがて時が経ち、20歳を超える頃には精悍な美青年へと変身を遂げた。魔王選抜試験も勝ち残り、時期魔王候補筆頭となったのだが、そうなったらなったで、今度は受け側の男性達から熱烈な愛の告白を受ける事になる。
(ひぇ〜! 外見の可愛さは関係ないんだ! 我は女の子が好きなんだ! 勘弁してくれ〜!)
そんなこんなで。群がる男共を千切っては投げ、千切っては投げ。紆余曲折を経て魔王に就任して、忙しさの中で童貞のまま30歳を超えて、やがて人族との戦争、勇者との死闘へと至る。
◇◇◇◇◇
魔王は自分の体を客観的に確かめる必要に迫られた。
水魔法を使って水球を生み出し、少し工夫して簡易の水鏡を作り自らを映す。
魔族の頂点、魔王である。基本4属性。火、水、風、土の魔法はお手の物なのだ。
「なんだと!」
覗き込んだ水球には、何やら覚えのある絶世の美少女が映っていた。
艷やかな黒髪を靡かせた、可憐で儚く男の情欲を刺激するロリ姫である。
「そんな馬鹿な」
否。それは肉体改造前の少年時代の魔王本人の姿。
長らく忘れていた、消してしまいたい過去の自分。
「はっ、まさか」
魔王は慌てて股間をまさぐる。
理解不可能な異常事態である。万が一、性別まで変わっていたらもうお婿に行けない。生きていけない。もし童貞のまま性転換していたら、森羅万象あまねく神々を呪ってやるぞ、と。
「ほっ。ついている」
男のシンボルは確かに在るべき場所にあった。少年の頃と同じ可愛らしい小象ちゃん。この状況で唯一の救いである。
(本当に死んだのかもしれん。教典には死ぬと祖先の霊や天使が迎えに来るとあったが、来ないな)
緑豊かな森の中。今は太陽が中天にあって明るいが、日が沈めば暗闇に支配されるだろう。
(迎えが来るまでここで待つか)
死んだ前提で考えそうになる。
(いや。死んだとは限らない。状況が不明な今は、生きている前提で行動しよう)
すぐに考え直す。そして立ち上がった。
「痛っ。ん、あ、らめぇ〜」
全身を襲う強烈な筋肉痛。両足は子鹿の如くプルプルと震え、やっとの思いで立ち上がっても、まともに歩けそうもない。
(くっ! 不覚にも妙な声を出してしまった。だが、痛いと言う事は生きている証だ。ならば民達の下へ帰らねばならぬ)
天上の園ならば苦痛から解放されているはず。だから違う。もし冥界ならば、人の罪を責める悪鬼羅刹から身を守らなければならない。そして魔王国のある大陸以外なら、そこは敵地の可能性が高い。
(どのみち進まねばならん。我には前進しかないのだ)
魔王は少しでも痛みを和らげようと不得意な聖属性魔法を試してみる事にした。
聖属性魔法は癒しや浄化を司る。傷を治し、病を癒し、瘴気を浄化する。生命に干渉するこの魔法は、適性者の少ない高等魔法であり、魔王の最も苦手とする分野である。
(我の回復魔法では痛み止め程度も役に立たぬであろうが、やらないよりはやる方が良い。重ね掛けでなんとか効果を上げてみよう)
体内で魔力を練って回復魔法の発動を念じる。
魔王レベルになると長たらしく恥ずかしい詠唱不要、無詠唱で発動出来るのだ。
「回復」
発動条件となる魔法名だけは声に出す。それだけは如何ともし難い。
「えっ? えっ? えっ? なんだ?」
不得意なはずの聖属性魔法。なのに様子がおかしい。魔力が滑らかに、かつ大量に流れている。
「まさかこれは高等回復?」
魔王の体の周囲に眩い黄金の粒子が舞う。
幻想的な光の舞いは、瞬きする間に魔王の体に吸い寄せられて消える。
「馬鹿な、あれ程の痛みがすっかり消えた」
驚愕すべき事態である。雀の涙程度の適正しか無かったはずの聖属性魔法が、突如として高等回復を発動する。それは絶対に有り得ない。あってはならない事態であった。
(少年時代の肉体に戻り、聖属性魔法の適性を得る。一体何が起こっているのだ)
考えても分からない。でも考えなければならない。そして考えるとお腹が減る。魔王のお腹が「ぐ〜」と鳴いた。
(喉もカラカラだ。水は魔法で生成出来るが食料を手に入れなければ)
食べ物を求めて魔王は当てもなく森を歩き始めた。
◇◇◇◇◇
「はぁ、はぁ、ふぅ〜。もう歩けない」
30分ほど歩いて息が切れた。
若返った肉体は鍛える前のものなので、見た目通りに貧弱なのだ。歩行速度は遅いし、木の根や少しの凹凸で転びそうになる。とりあえず太陽の動きから方位を推測して東に向かってみたのだが、元の位置から1キロ少々しか進めていない。
(苛立たしいが分かった事もある。この周辺はかなり先まで平地だ。それだけは助かる)
もし起伏の激しい山地であったなら、貧弱な体ではすぐに怪我をするか立ち往生して遭難しただろう。
生い茂った巨木や草が歩みを妨害しているものの、平地のお陰でなんとかなっている。
(焦りは禁物。一休みするか)
巨木の根本に魔王がすっぽりと嵌まる良い感じの窪みがあった。「うんしょ」と座り、木にもたれる。それから水魔法と火魔法を合わせてお湯の水球を作り、髪を軽く洗い、顔を洗い、口を濯いで一息ついた。
(情けない体だ。まさに黒歴史だな)
思い通りに動かない体。不明な状況。空腹。不安。
いくつもの感情が入り混じり、考えが纏まらない。
やがて疲労からウトウトと船を漕ぎ始める。
(眠っては駄目だ。ここは安全ではない。まだ、眠っ……)
意識は再び泥の中に深く沈んで行くのであった。




