1.3
屋敷を出ると、バス停へ向かってゆっくりと歩きながらネクタイを外す。さらに肩の凝りをほぐすように大きく2、3度首を回した。
これで同時に青島の仕事もなくなったことになる。
(二兎追うものは一兎をも得ずってか)
今回のケースとは少し違ってはいるが、そんな言葉が頭に浮かぶ。残念ではあるが、それでいて不思議にホッとする気持ちもある。
もともと自分からどうしてもと望んだバイトではないのだ。それほど残念に思う必要はない。むしろ怪しげなバイトに手を染めなくて済んだことに喜ぶべきかもしれない。
真下沙織。彼女の顔を見た時は何か感じるところもあったが、それもバイトを断られてしまったということは、しょせんそれだけの縁だったのだろう。
沙織に渡された茶封筒の中を確かめると、1万円札が1枚入っていた。これだけでもバイトを休んで面接に来た甲斐があるというものだ。
(それにしても――)
あの屋敷の門を潜った時のあの奇妙な感じ。あれはいったいなんだったのだろう。懐かしいような、それでいて背筋が寒くなるような感じ。あんな感じを受けたのは初めてのことだ。
その時――
「三里さぁん」
その声に振り返ると、走ってくる烏丸明美の姿が見えた。慌てた様子で文也に手を振りながら駆け寄ってくる。
何か忘れ物でもしただろうか。
文也は立ち止まり、明美が近づいてくるのを待った。
「どうしたんです?」
明美は文也の前にやってくると息を切らせながら――
「あの……沙織お嬢様からの……伝言です」
「何か?」
明美は息を整えるように大きく息を吸った。
「えっと……バイトの件、お願いしますって……」
「え? でも、断られたんじゃないんですか?」
「気が、変わったんだそうです」
明美はさらにポケットのなかからメモを取り出し、それをちらりと見てから言った。「バイト料は週に5万円。明後日から働いて欲しいそうです。それで明日にはこちらに引っ越してくるようにってことです。他に何か希望があれば仰ってください。どうでしょう? 大丈夫ですか?」
「本当ですか? そりゃ僕のほうはありがたいですが、でも、明日引越しなんて無理ですよ。業者だって捜さなきゃいけないし、アパートのほうも――」
「業者はこちらで手配します。必要な費用は全てこちらで負担します。明日中に引越しを済ませば、明後日から働くことが出来ますよね。明日の朝には業者をそちらのアパートに向かわせますので、今日中に荷造りをしておいてください」
「ずいぶん一方的なんですね」
「すいません」
明美が頭を下げるのを見て文也は言いなおした。
「あ、いえ……雇っていただけるならこちらとしてもありがたいですから」
「では、大丈夫ですね?」
念を押すように明美が訊く。
「はい」
「では、これが支度金です」
明美は封筒を文也に手渡した。中を覗くと一万円札が何枚も入っている。文也は驚いて聞き返した。
「こんなに? 何か間違ってませんか?」
「20万入ってるそうです」
「でも、多すぎじゃ――」
「いいじゃありませんか。もらえるものはもらっておいたほうがいいですよ」
そう言って明るく笑う。その笑顔につられるように文也も微笑んだ。
「わかりました。いただいておきます」
「それじゃ、よろしくお願いします」
もう一度明美が頭を下げた。雇う側と雇われる側の違いはあるものの、真下沙織の態度とついつい比べてしまう。
「こちらこそ」と文也も頭を下げる。
「それじゃ――」
と言って立ち去ろうとする明美に文也は声をかけた。
「あの……すいません」
「はい?」
「何かあったんですか?」
「何かって?」
キョトンとした顔で明美は聞き返した。
「さっきはきっぱりと断られたのに、こんな短い間で気が変わるなんて」
「申し訳ありません」
さらに明美は頭を下げる。
「いえ、それは構わないんですけど……でも、どうしてなんですか?」
「さあ……」
と明美も首を捻った。「ま、いいじゃありませんか」
* * *
烏丸明美と別れた後、バス停で時刻を確認すると次のバスまで30分以上あることがわかり、少し考えてから駅まで歩くことにした。
駅への道を歩きながら、文也は彼女のことを思った。
(真下沙織)
その名前を頭のなかで繰り返す。
一ヶ月前、偶然にホームで彼女の姿を見かけて以来、文也はずっと駅のホームに立つといつも彼女の姿を探してきた。
あの時、彼女の背に見えた天使の羽。あれはほんの一瞬の幻なのかもしれない。だが、彼女の存在そのものが幻覚とは思いたくなかった。自分にとって何かもっと特別な意味を持っているような気がしてくる。こんなふうにして再会出来ることがそれを証明しているように思える。
「あ……いけね」
青島から面接の結果を連絡するように言われていたことを思い出し、文也はポケットから携帯電話を取り出すと青島に電話した。
青島はすぐに電話に出た。
「三里です。今、バイトの面接を受けてきましたよ」
――どうだった?
「合格しましたよ」
――本当か?
その声は少し驚いているようだ。
「明後日から働くことに決まりました」
――そりゃあ良かった。それで? 誰と会った?
「娘さんです」
――娘? 名前は?
「真下沙織さんです。まだ二十歳前後だと思いますよ」
その名前を口にするだけで、自然に沙織の姿が頭のなかに思い出される。
――沙織……そ、そうか。それで? 屋敷には他に誰がいた?
興奮気味に青島は訊いた。
「いや……家政婦さんには会いましたけど」
――それだけか?
「まだ今日、面接に行ったばっかりですから」
――そうか……そうだな。
自分自身を納得させようとするように青島は言った。
「それで僕は何をすればいいんですか?」
――まずは真下家にどんな人が暮らしているかを調べてくれ。名前、年齢、職業、他にどんな些細なことでも構わない。
「それだけですか?」
――とりあえずはね。最初のうちは真下家での仕事に励んでくれ。そのうち君が真下家の人間に信頼されるようになれば、いろいろやってもらうことも出てくる。
「いろいろって?」
――それはその時になれば話す。期待しているよ。彼らのことがわかったら教えてくれ。
そう言って青島は電話を切った。
携帯電話をポケットに押し込み、駅への道を急ぐ。
明後日には引っ越さなければいけない。不動産屋にも連絡しなければいけないし、荷造りも今日中に終わらせなければいけない。
ふと、左側に細い路地を見つけ、本能的にそちらへ足を向ける。
(あれ?)
歩きながら妙な感じを覚えた。
この町に来るのは初めてだ。それなのになぜかこの路地が駅に向かう近道だということを知っている。
思わず立ち止まり今来た道を振り返る。
この雰囲気、前に感じたことがあるような気がする。
(デ・ジャヴ?)
ただの気のせいだろうか。それとも以前にこの町に来たことがあるのだろうか。
思い出せないまま文也は路地を急ぎ足で歩いていった。




