1.4
「なんじゃこりゃ」
アパートを訪ねてきた栗原修は部屋に入るなりそう言った。1DKの部屋の隅にはダンボール箱が積まれ、明日の引越しを待っている。
栗原は大学からの付き合いのある友人の一人だ。大学卒業後、証券会社に就職したのだが、つい先月会社を辞めてしまい文也と同じフリーターの仲間入りを果たした。父親は大企業の社長らしいが、栗原はそのことに関してはあまり話そうとはしない。仕事も一切父親とは違う道を進むつもりでいるらしい。大学入学とともに家を出て、大学に通う学費も生活費も全てバイトで稼ぎ出してきた。今は趣味のバイクいじりがこうじて、今はアパート近くのバイク屋で働いている。今日もバイトの帰りなのか、ジーンズの裾にオイルのシミが出来ている。
「おいおい、いったい何を始めたんだ? 大掃除にゃちょいと早いんじゃないか」
「明日引っ越すことになったんだ」
「明日? ずいぶん急な話だな」
栗原は玄関前に置かれたダンボール箱を避けながら奥の部屋へと入っていった。「どうしたんだ? 心境の変化ってやつか? けど、ここに引っ越してきてまだ1年も経ってないんじゃなかったか。気の変わりやすい奴だな」
「そんなんじゃないよ。仕事の都合でね」
「仕事? バイト増やすのか?」
栗原は買ってきた缶ビールの入った袋をテーブルの上に置き、その横にあぐらを組んだ。
「増やすんじゃないよ。今までのは辞めるんだ」
「どうして? 割と他のとこより時給が良いって言ってたんじゃなかったっけ? 何か問題でも起こしたのか?」
栗原は袋のなかから取り出した缶ビールを空け、グビリと飲みながら訊いた。
「問題なんてないさ。それに時給が良いって言っても50円くらいじゃないか」
チェストから取り出したジーンズをダンボールに詰め込みながら文也は答えた。
「それに可愛い子がいて仕事に行くのが楽しいとか言ってなかったか?」
「あの子は2週間前に辞めたよ。そもそもあの子には彼氏がいたし……よくそんな話覚えてるな」
「それで今度、何すんだよ?」
「住み込みのバイト」
「はぁ?」
栗原は目を丸くした。
文也は栗原に真下家のバイトについて話して聞かせた。ただ、それが青島の紹介ということだけは伏せることにした。栗原はビールを飲みながら黙って聞いていたが、文也の話が終わると、鼻先で笑うようにして言った。
「おまえも変わってんなぁ」
「そうかな」
「そうさ。住み込みなんていったら24時間仕事しなきゃいけないようなもんじゃないか。普通なら真っ先に避ける仕事だぜ」
栗原が言うのももっともだ。自分も普通ならば決してこんなバイトを引き受けはしないだろう。だが、青島のことは栗原に喋るわけにはいかない。
「けど、空いてる時間は自由に使っていいらしいし。一度くらいそういう仕事を経験してみるのもいいんじゃないかと思ってね」
文也はガムテープでダンボール箱の蓋を閉じると、栗原が買ってきた缶ビールに手を伸ばした。
「大丈夫なのか? おまえ、わりと神経の細いとこあるからな」
「なんとかなるよ」
そう答えたものの、そのことは文也自身心配していることだ。昔から他人の家に泊まりにいくのは苦手だった。それが例え友人の家だとしても、妙に気が張り詰め眠ることが出来なくなる。しかも、今度はそれが毎日続くことになるのだ。
「なんでわざわざそんなバイト受けるかなぁ。ま、おまえは前から変わってるからな」
「変わってないよ」
「変わってるさ」
なぜか栗原はぼんやりと脇に詰まれたダンボール箱のほうを見つめている。
「どこが変わってるって?」
「だったらこれは何だ?」
そう言うと栗原はダンボールの隙間に落ちていた紙を引っ張り出した。それは先日、夢のなかで見た絵本のなかの話を書きとめたものだった。
「それは――」
慌てて奪い返そうとしたが、栗原はその手をさっとかわした。
「詩……いや、青い鳥ってことは童話か? お菓子の家……あれは違うな。そうか、チルチルミチルだっけ?」
「違うよ。あれじゃない」
「じゃあ何だ?」
「……わからない」
その答えに栗原は呆れたように文也を見つめた。
「何だ、そりゃ? これ、お前が書いたんだろ?」
「この前、急に思い出したんだ」
「何を?」
「わからない。ただ、ずっと前に誰かにそんな話を聞かせてもらったような、そんな気がするんだ」
「青い鳥って言えば童話じゃないのか?」
「違う。あまりはっきりとは思い出せないけど、その話とは違うんだ。図書館で調べてみたけどわからなかった。おまえ、何か知らないか?」
「俺がわかるわけないだろ。童話なんてはいて捨てるほどあるからな。で? これの続きは? まさかこれでおしまいってわけじゃないだろ」
「憶えてない」
記憶しているのは夢のなかで聞かせてもらったほんの一部だけ。
「なおさらわかるわけないな」
「よこせよ」
文也は手を伸ばして栗原から紙を奪い取った。
「俺はてっきりおまえがまた幻覚でも見たのかと思ったよ」
「幻覚?」
「この前、天使を見たとか言ってたじゃないか。幻覚はほどほどにな。まさか変なクスリでもやってるんじゃないだろうな」
栗原はそう言って笑った。沙織と初めて会ったあの日のことを文也は栗原に話してあった。
「あの時は本当に見えたんだ」
ムキになって文也は答えた。「それに……」
「それに?」
一瞬、言うべきかどうか迷ってから文也は口を開いた。
「彼女は本当に実在した」
「なんだぁ?」
栗原は意味がわからないという顔をした。
「彼女、今度、僕がバイトに入る家のお嬢様だったんだ。面接をしてくれたのも彼女だった。こんな偶然っていうのもあるんだな」
「それじゃおまえ、その女に釣られたってわけか?」
呆れたように栗原が言った。
「そういう言い方するなよ。ただの偶然だったんだから」
「偶然ねえ……」
疑うような目で文也を見る。
「当たり前じゃないか。僕が嘘ついてるっていうのか?」
「別にぃ。おまえがそんな器用な嘘をつけるとは思ってないよ」
栗原は口元をニヤつかせながら2本目のビールに手を伸ばした。「で? 羽は生えてたか?」
「……ないよ。でもこの前は見えたんだから仕方ないだろ」
「はいはい。そうムキになりなさんな。天使と同棲かぁ。どうりではりきって引越しの準備に励むわけだ」
「あのなぁ――」
「まあいいさ。おまえのこれからの仕事のために乾杯しようぜ」




