1.5
真下沙織に言われるままに、翌日、文也はアパートを引き払い真下家に引越しすることになった。すでにバイト先の店長には電話で連絡してあったため、挨拶と最後のバイト料を受け取りに行った。店長は少し嫌味を言ったものの、それでもちゃんと一昨日までのバイト料を出してくれた。
午後1時に引越し業者のトラックが2台アパートの前に停まった。しかも作業者の人数はなんと10人。荷物の量とはまるで吊り合わない。
洗濯機に冷蔵庫といったものは捨てていくことにしていた。これは以前、大学の先輩から譲り受けたもので相当古いものだ。とてもあの屋敷に持っていくわけにはいかない。この際、捨てていくのも仕方ないだろう。
引越しの費用は全て真下家で負担してくれることになっている。しかも引越しの費用全てを真下家で負担してくれるだけでなく、支度金として20万を渡されている。さらにバイト料は週5万という破格の金額だ。
なんとも贅沢な話だ。
作業員たちはテキパキとした見事な連携プレイで、少ない荷物をあっという間にトラックに積み込むと、文也だけを残して去って行った。
からっぽになった部屋を見届けてから、文也はすぐ近くに住む大家に挨拶を済ませると真下邸へと向かった。
夕方、屋敷に着くと、烏丸明美が出迎えてくれた。
すでに引越し業者は去った後で、荷物は2階の部屋に運び込まれていた。
文也に与えられたのは屋敷の2階にある6畳間だった。決して広いわけではないが、それほど荷物を持たない文也には十分の広さだ。
午後5時40分。
部屋で荷物を片付けているとドアがノックされた。
烏丸明美だった。
「どうですか? 片付きました?」
「ええ。もともと荷物少ないから」
「ホント」
明美は部屋を見渡して笑った。
「明日からよろしくお願いします」
「こちらこそ。三里さんって小雪お嬢様の家庭教師をされるんですよね?」
「家庭教師? さあ……そういう話はまだ聞いてないです。小雪お嬢様って?」
文也は聞き返した。
「沙織お嬢様の妹さんですよ。今、小学6年生なんです」
「そうなんですか。じゃ沙織さんは何歳なんです?」
「27歳ですよ」
文也より二つ上だ。「私と同い年なんです」
「え? そうなんですか? もっとずっと若いと思った」
先日の沙織の姿を思い出しながら文也は言った。確かに大人びた雰囲気をしてはいたが、それでもてっきり二十歳前後かと思っていた。
「よく言われるんですよ。私って若作りだから」
明美はそう言って笑った。どうやら自分のことを言われたのだと勘違いしたようだ。だが、明美も一般的には若く見えるほうだろう。
「そういえば、今日、ここの人たちはどこに行かれたんです? まだ帰られないんですか?」
窓の外はすでに夕闇が迫っている。
「みなさん、じきに戻っていらっしゃいますよ」
「烏丸さんもここに住んでいるんですか?」
「いえ、私は通いです。この近くにアパートを借りてもらってるの。さすがに住込みじゃ精神的にストレス溜まっちゃいそうで……あ、ごめんなさいね」
明美は文也を気遣うように言った。
「いえ、俺はむしろ住込みのほうがありがたいから。キッチンは使っても構いませんよね?」
「どうぞ自由に使ってください。朝、夕の食事は私のほうで作ります。何かリクエストがあればどうぞ言ってくださいね」
「ホントですか? ありがたいな」
「三里さんにはがんばって長くいて欲しいなぁ」
明美が微笑みながら言った。「これまでも何人も来たんだけど、すぐに辞めさせられちゃったんですよ」
「何か問題でもあったんですか?」
「別に何かあったわけでもないんですけどね。ただ、気に入られなかったみたい。中には三日で辞めさせられた人もいたんですよ」
そんな話を聞かされては少し不安になる。
「旦那さん、ずいぶん厳しい人なんですね」
明美はすぐに大きく首を振った。
「いいえ、旦那様じゃありませんよ。沙織お嬢様のほうです」
「ああ、あの人……」
あの冷たい眼差しを思い浮かべる。そういえば先日の面接の時も一度もニコリともしなかった。
「大袈裟な言い方をすると、人事権を握ってるのは沙織お嬢様なんです。ずいぶん厳しい方ですよ。ちょっとでも気に入らないと追い出されちゃうんです。三里さんも気をつけなきゃ」
「脅かさないでくださいよ。もうアパートも引き払っちゃったし、そんな簡単に出て行けって言われても困るなぁ」
「でも、きっと大丈夫ですよ」
「どうして?」
「うーん……なんとなくですね」
明美はそう言って大きく笑った。まるで根拠のない励まし。それでも少しは嬉しいものだ。
「期待を裏切らないようにがんばらなきゃ。とりあえずもう少し片付けないと……」
文也は部屋を見回した。荷物は少ないほうだが、このままいつまでもダンボール箱を積み重ねておくわけにもいかないだろう。
「それじゃ、何か必要なものがあれば遠慮なく言ってくださいね」
明美はそう言って部屋を出ようとした。
「あ……」
「何かあります?」
立ち止まって振り返る。
「この部屋って鍵はかからないんですか?」
文也がドアを指差して言った。
「鍵? そうですね。この部屋にはつけられていませんね。お嬢様たちの寝室には鍵がかけられるんですけど。必要ですか?」
「いえ、どうしてもってわけじゃないんだけど、昔から鍵をかけて寝ないとなんか落ち着かなくて」
「そうですか。後で沙織お嬢様に相談してみたらどうです?」
「僕が?」
「ええ。大丈夫ですよ。厳しい人だけど、怖い人じゃありませんから」
明美はいたずらっぽく笑った。
「そうですね」
その時、窓の外からエンジン音が聞こえてきた。
「お帰りみたいですね」
明美が窓に近づいて言う。文也も立ち上がって明美の横に立つ。黒塗りのリムジンが門を潜り玄関前に止まるのが見えた。
「どうすればいいです? 僕もお迎えに?」
「いえ、とりあえずこちらで待っていてください。あとで呼びに来ますから」
そう言うと明美は足早に部屋を出て行った。
(小雪お嬢様……か)
頭のなかでその名前を繰り返す。
以前、どこかでその名前を聞いたような気がしていた。
* * *
10分も過ぎた頃、再びドアがノックされた。
ドアが開き、現われたのは明美ではなく、先日、面接の時に会った真下沙織だった。
今日はカーキ色のスカートに同色のジャケット、中には薄いブルーのラウンドネックカットソーを身に着けている。
「お世話になります」
慌てて立ち上がり頭を下げる。沙織を前にするとついつい緊張してしまう。
「引越しは終わりましたか?」
沙織が部屋を見回しながら、抑揚のない声で訊いた。
「だいたい終わりました。まあ、もともと荷物は少ないので、引越しの時は楽なんですよ。あとは雑誌や本だからこのまま押し入れに押し込んでしまってもいいし」
「そう」
ニコリともせずに壁際に置かれたダンボール箱をチラリと見てから文也に視線を向けた。「ドアに鍵をつけたいんですって?」
明美が話してくれたのだろう。
「無理にってわけじゃないんですが」
「どうしてですか?」
「えっと……」
どう説明していいか、言葉に迷いながら答える。「癖なんです。昔からの……なんか落ち着かないっていうか、不安になるっていうか」
「癖……」
何かを考えるように視線を落とす。
「気が小さいっていえばそれまでなんですけどね。でも、ダメなら――」
その文也の言葉を押さえ込むように沙織が顔をあげて言う。
「いえ、考えておきましょう」
「ありがとうございます……あの、引越しの費用ですが、先日、20万もいただきましたけど、そんなには使いませんでした。お釣り返しましょうか?」
そう言ってポケットのなかの財布を取り出そうとすると沙織は――
「その必要はありません。あれは引越しの費用としてあなたに渡したものです。自由に使ってください。それより今から家族に会ってもらいます。来てもらえますか?」
「はい」
と答えてから汗と埃だらけの姿に気づいた。「あ……ちょっと着替えてから――」
「そのままで構いません。来て下さい」
そう言うとスタスタと歩いていく。文也は慌ててその後を追いかけた。歩きながらもついつい彼女の背中を見つめてしまう。今日も彼女の背には羽は見えない。あれはやはりただの錯覚だったのだろうか。
階段を降りてリビングへ向かう。
これから真下家の人々に会うのかと思うと、少し緊張していた。高校2年の時、付き合っていた彼女の家に初めて遊びに行った時の気持ちを思い出す。
沙織がドアを開き――。
「どうぞ」
その言葉に促され、部屋に入るとソファに座った中年の男女二人と、その間にいる女の子がパッと顔を文也のほうに向けた。傍らには烏丸明美と中年の男が立っている。中肉中背、際立った特徴のない顔で、歳の頃40代前半といったところだろうか。
「明日からこの家で働いてもらう三里文也さんです」
沙織が皆に紹介する。
「よろしくお願いします」
と、文也は皆に向かって頭を下げた。
「こちらこそ」
ソファに座る男が明るく笑いながら声をかける。どこにでもいる温和な父親像がそのまま抜け出してきたようだ。
男は立ち上がると文也の手をきつく握った。そして――
「私は真下秀光、こっちが家内の恭子で、これが娘の小雪だ。よろしく頼むよ」
と、隣に座る奥さんと子供を紹介する。それに合わせるように女性と少女が小さく頭を下げた。
「それと――」
その後を沙織が引き継ぐと真下秀光は再びソファに腰を降ろした。
「そっちが柿沢さんと烏丸さんです。二人とも以前からうちで働いてもらっています。烏丸さんは知ってますね」
明美が小さく微笑んで小さく頭を下げる。
「柿沢信彦といいます」
柿沢は一歩前に出て頭を下げた。その挨拶の仕方に生真面目さが滲みでている。
「三里さん、私の家庭教師してくれるんでしょ?」
夫婦の間にちょこんと座っている小雪が文也を見上げて言った。
「そうよ」
と沙織が答える。「日中は家のことをやっていただきますが、夜は小雪のための家庭教師をやっていただきます」
「それじゃ働きづめじゃないの? いいんですか?」
恭子が優しく声をかけた。
「大丈夫ですよ」
と答えたのも沙織だった。「日中働いてもらうといっても、柿沢さんや烏丸さんのお手伝いをしていただくくらいです。空いている時間は自由にしていただきます」
まるで沙織がこの家の全てを仕切っているようだ。
「あの……ところでお休みは?」
恐る恐る文也が訊く。
「そうですね。あなたの好きなときに休んで頂いて構いませんよ」
「好きな時ですか?」
「ええ。週末でも平日でも。小雪の家庭教師以外は何か用件がある時だけお願いしますので、それ以外の時は自由にしていてください。ただ、休んでどちらかに行かれるようなことがあれば事前に仰ってください」
「それじゃよろしくお願いしますよ」
そう言って真下秀光が立ち上がった。「私は仕事が残っているのでこれで失礼するよ。烏丸さん、あとで部屋にコーヒーでも持ってきてくれないか」
すると、真下恭子も合わせるように――
「私もちょっと疲れたわ。先に休ませてもらいます」
そう言って秀光とともに席を立つ。そして、二人で並んで部屋を出て行った。
「それでは私も今日は失礼します」
柿沢も小さく沙織に頭を下げ、リビングから出て行く。
「えっと……今日、俺は何をすればいいです? あとで勉強見ますか?」
文也が沙織と小雪の顔を見ながら訊いた。
「家庭教師は明日からでしょ」
小雪はピョンと飛び跳ねるようにしてソファを降りてそ知らぬ顔で走り去っていった。
沙織が文也に顔を向けた。
「今日は引越しなどで疲れたでしょう。仕事は明日からで構いません」
そして、チラリと壁にかかった時計に視線を向け――「私たちはすでに夕食を済ませてきました。三里さんはまだですよね? でしたら、明美さんにお願いして何か作ってもらいますか?」
「いいんですか?」
「構いませんよ」
明美が優しく声をかけてくれた。「すぐに仕度しますから一緒に食べましょう」
* * *
その後、結局真下家の人々がそれぞれの部屋から出てくることはなかった。
食事の後、明美は文也としばらくの間雑談した後帰っていった。文也は明美をを見送ってからシャワーを浴び、家の戸締りを確認したうえで部屋に戻った。
文也の部屋は階段からもっとも近く、その奥には小雪、沙織、真下夫婦の部屋と続いている。
午後9時。
ドアにもたれて大きく息をつく。
いろいろなバイトは経験しているが、住み込みで働くのはこれが初めての経験だ。
個室を与えてもらっているといっても、所詮は他人の家であることに違いはない。なかなか気を緩めることが出来ない。
明日からは毎日、この生活が続くことになる。
(早く慣れなきゃな)
まだ整理がついていない荷物が部屋の片隅に置かれている。文也はその中から雑誌が入ったダンボール箱を二つ重ねてドアの前に置いた。
これで深夜に誰かが忍び込んでくることだけは防ぐことが出来るだろう。もしやってきたとしても、すぐに目を覚ませるはずだ。
(いったい誰がやってくるっていうんだ?)
自分で自分に問いかける。
それでも昔から部屋の鍵をしっかりとかけたことを確認しないと気持ちが落ち着かなかった。誰かが突然、部屋のなかに侵入してくるような気がしてしまう。
昔から環境が変わると緊張で眠れなくなることが多かった。きっと今夜はゆっくり眠ることなど出来ないだろう。
隣の部屋からは微かにテレビの音が聞こえてくる。おそらく隣の部屋の小雪がまだ起きているのだろう。
ベッドにごろりと横になると白い天井をぼんやりと見つめる。
――あの家族のことを調べてくれ。
青島の言葉を思い出す。
いったい真下家の人々は何者なのだろう。警察に調べられるような特別な存在なのだろうか。
瞼が重く感じ、ゆっくりと瞳を閉じる。
(不思議だな)
てっきり眠れないものと覚悟していたのに、予想に反して次第にウトウトしてきている。引越しで体がいくぶん疲れているせいかもしれない。
妙にこのベッドもこの部屋も居心地が良い。
初めてこの部屋に泊まる気がしない。
文也はゴロリと寝返りを打つと、そのまま睡魔に身を任せる。
意識がゆっくりと薄らいでいった。




