1.2
夢を見た。
不思議な夢だった。
目の前には広げられた絵本。そして、誰かの声が聞こえてくる。
青い鳥が空を飛ぶ。
地上の人々を見下ろしながら。
人々は希望に満ちた瞳で青い鳥を追いかける。青い鳥には人々の願い事を叶える力があると噂されているから。
そのなかに一人の少年がいた。
――おいで、おいで。僕のところに。
少年は手を広げ、草原を駆け抜け、青い鳥を追いかける。
その少年もまたひとつの望みを持っていた。
少年の望みは一つ。大好きな少女の命を助けること。
少女は重い病気にかかり、明日をもしれない命。少年は少女のために青い鳥を探して度をしているのです。
大雨に降られ、大風に吹かれ、魔物の住む森を抜け、砂蟲が潜む砂漠を走り、それでも少年は青い鳥を追いかける。
全ては少女を救うため。
その強い気持ちを持って少年は旅を続ける。
目が覚めた時、頬を涙が伝っていることに気がついた。
夢を見て涙を流すなんて生まれて初めてのことだ。
なぜあんな夢を見たのか、まるでわからなかった。
あれは何だったのだろう。
* * *
カラリと晴れ渡り、空には青空が広がっている。
三鷹から電車で西に40分、そこからさらにバスに乗り10分ほどいったところにその家はあった。
つい最近になって住宅地として開発されはじめたらしく、周囲には新しく建てられた同じような形の家がいくつも立ち並んでいる。
その中で少し異質な雰囲気を漂わせている一画があった。
周囲にはまるで芸能人の屋敷のように高いコンクリート塀が覆われ、中の様子を垣間見ることは一切出来ない。屋敷の正面には来客を拒むかのように大きな黒いアルミの扉が設置され、その脇の門柱の高い位置には防犯カメラが備え付けられている。
屋敷の前に立ち大きく息を吸い込む。すでに自分の姿はあのカメラに捕らえられ、この屋敷の誰かによって見張られているのかもしれない。
会社を辞めて以来着ていなかったスーツが妙に息苦しい。そもそもただのバイトの面接にスーツで来る必要もなかったのかもしれない。
すでに昨日のうちに電話で約束を取りつけてある。
――では明日、家まで来て下さい。
名前を聞き忘れたが、電話にでた女性にそう言われた。
ポケットから携帯電話を取り出し、そのサブディスプレイで時間を確認する。大学入学の時に親戚からお祝いでもらった腕時計は、使い始めて1年で壊れて押入れのダンボール箱のなかに押し込んである。それ以来、腕時計はしなくなった。
午前10時。
約束の時間ピッタリだ。
(よし!)
文也はすぅっと息を吸い込んでから、門の脇にあるインターホンのチャイムを押した。息をゆっくり吐き出しながら反応を待つ。
10秒もたたずに返事が返ってきた。
――はい。どちらさまでしょう?
「あの、昨日電話した三里といいます。バイトの面接に来ました」
少し緊張しているようで、自分でも声が擦れそうになるのがわかった。
――わかりました。少々お待ちください。
プツリと音声が切れる。
文也はその閉ざされた門を見つめ、じっと門が開くのを待った。
やがて門の脇にある小さなドアが開き、コバルトブルーのエプロンを着けたショートカットの20歳半ばの若い女性が顔を出した。
「三里さんですね? こちらへどうぞ」
「失礼します」
小さく頭を下げてからドアを潜る。
高い塀で外からは見えなかったが、小さな庭の向こう側にゴツゴツとしたブロックをいくつも無造作に重ねたかのような特徴的な屋敷が目の前に現れた。しかも、幾つかの面には外壁が貼られ、そのほかの面はコンクリートがむき出しになり、それが一風変わったアクセントになっている。外壁の汚れ方を見る限りそう新しいものではないようだが、流行のデザイナーズマンションでもこれほどの奇抜なデザインはないだろう。
その瞬間、妙な感覚が文也を包んだ。
胸をギュッと鷲づかみにされたような奇妙な感覚。うなじの産毛が逆立ち、思わず体を反転させて逃げ出したくなるような衝動に襲われた。
屋敷を見上げて立ち止まっている文也に女性が声をかけた。
「こちらへどうぞ」
その声に文也は我に返った。得体の知れない感覚も、スゥッと体のなかをすり抜けるように消えていく。
「あの……あなたは?」
「この家で働いている烏丸明美っていいます。お嬢様がお待ちですよ」
「お嬢様?」
「はい。面接するのはお嬢様なんです」
烏丸明美はそう言いながら文也を屋敷のなかへと案内していった。
玄関を開けると、そこは外見ほどの奇抜なデザインではなかったが、それでも大理石の床に2階までの吹き抜けの天井と、内装もシャレた感じに造られている。
明美はリビングに文也を通すと――
「では、こちらでお待ちください」
そう言って部屋を出て行った。
ソファに座り部屋を見まわす。部屋は確かに広い。ただ、置かれている家具は木製のテーブルに黒い革張りのソファ。外から見た印象に比べ、それほど金持ちの屋敷という印象が強くない。
部屋を眺めていると、やがて背後のドアがゆっくりと開いた。
それに気づき文也が立ち上がって振り返る。
若い女性が冷たい眼差しで文也のほうを見つめながら部屋に入ってきた。シンプルな白いブラウスに白と黒のチェックのフレアスカートを身に着けている。
肩まである艶やかな黒髪。白い肌。すっきりした二重の目。
その顔を見て思わず息を飲む。
(彼女だ)
すぐにそれが以前、駅のホームで見た天使だということに文也は気づいた。
あの時、陽の光に輝いていた天使の羽を今は見ることが出来ない。だが、それでも今目の前にいるのは紛れもないあの時の女性に違いない。
ずいぶん若く見えるが、その表情だけは不思議と大人びている。
女性は呆然とする文也の前に立つと口を開いた。
「あなたが三里さん?」
声をかけられハッと我に返る。
「は、はい。三里文也っていいます」
「私は真下沙織です」
その名前を心のなかに刻み込む。
「父の秀光は本日、仕事で手が離せませんので私がお話を聞かせていただきます。どうぞ座ってください」
そう言いながら自らもソファに腰を降ろす。
あの時のことを彼女が憶えているはずがない。そもそもあの時は自分が一方的に彼女の美しさに目を惹かれたに過ぎないのだ。
文也は鞄から履歴書を取り出すと、沙織の前に差し出した。
「よろしくお願いします」
沙織は履歴書を手に取ると、黙ってそれを見つめた。そして、顔をあげると――
「どうしてここに? 誰かの紹介ですか?」
「いえ、違います」
青島のことを言うわけにはいかない。
「ではどうして? ここでバイトを募集していることをどうして知ったんですか?」
「駅のベンチに置かれてたチラシを見ました」
「駅? なぜチラシが駅に?」
「誰かが忘れていったんじゃないでしょうか」
そう言って文也はポケットから求人のチラシを取り出してテーブルに置いた。それは青島から渡されたものだ。
沙織はちらりとそのチラシに視線を投げる。
「……そう」
その瞳からは何を考えているのか読み取ることは出来ない。
「けっこう良いバイトかなって思って……」
「良いバイト? どうしてですか? ここには金額も書いてなければ詳しい仕事の内容も書いていません。なぜ良いバイトだと思ったんですか?」
冷静な口調で沙織は指摘した。
言われてあらためてテーブルの上のチラシに視線を向ける。確かに沙織の言う通りだ。そこには『バイト募集』と『住込み可能な方』の二つしか書かれていない。
「えっと……住込みで働けるなら部屋代かからないじゃないですか。それだけ金が浮きますから」
慌てて補足する。沙織はそれには何も反応を示さず、履歴書に視線を落とすと――
「25歳ですか。なぜ就職をしないんです?」
これは予測していた質問だ。これまでもバイトの面接に行く度に聞かれてきた。
「前に一度だけ就職してたことありますよ。けど、就職すると自分の時間が取れなくなりますから。それが嫌なんです」
こんなことを言えば相手によっては嫌われることも多いこともわかっている。それでもバイトとして割り切って働くためには最初にこちらの意思をはっきり伝えておいたほうがいい。
「仕事ってそういうものでしょ?」
「そりゃそうなんですけどね……ただ、自分自身、何をしたらいいのかわからないんです。いつも何か忘れ物をしているような気がしてしまって……だからそれを探すための時間が欲しいんです」
「忘れ物ですか。見つかりそうですか?」
「さあ、どうでしょうね。何を忘れてるのかもわからないくらいだから、なかなか難しいです。でも、そういう意味でもいろんなバイトを経験してみるのっていいんじゃないかって思うんですよ」
そう言って相手の表情を伺う。だが、沙織の表情には何の感情も浮かばない。冷めた様子で履歴書に視線を落としている。
何を考えているのだろう。沈黙が続くことに耐えられずに口を開く。
「それにしても、この家ってずいぶんデカイですよねぇ。何人くらいの人が住んでるんですか?」
「ずいぶん好奇心が旺盛のようですね」
途端に沙織が冷たい眼差しで文也を見る。
「あ……いや……」
どうフォローしていいか頭のなかで言葉を捜す。だが――
「お帰りください」
「え?」
「申し訳ありませんが、あなたに働いていただくつもりはありません」
沙織はきっぱりと言った。
「……どうしてですか? 出来ればなぜダメなのかを教えてもらえませんか? 年齢ですか? それとも――」
「それは関係ありません」
「それなら何ですか?」
「適していないと感じたからです。ただ、それだけです」
冷めた口調で沙織は答えた。とても取り付く島もないという雰囲気だ。これでは諦めるしかなさそうだ。
「そうですか……」
「これは本日の交通費です」
沙織が茶封筒を差し出すのを文也は素直に受け取った。
「ありがとうございます」
「では、失礼します」
沙織が立ち上がる。
「あの――」
無意識のうちに声をかけていた。
「何か?」
この前見た沙織の姿を思い出す。背中に大きく広げられた白い天使の羽。あれがただの幻覚であることは理解している。
だが、なぜそんなものが見えたのか、それがわからない。
「羽が……」
「羽?」
「いえ、何でもありません」
言いかけて途中で止めた。沙織に訊いてみても答えが見つかるはずもない。頭がおかしいと思われてしまうだけのことだ。
文也は諦めて言葉を切った。




