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電車を降りて改札を抜けると、すでに辺りは夕闇に染まりつつあった。
外に出ると、途端に蒸し蒸しした空気が肌にまとわりつく。
すでに暦の上では秋も半ばにさしかかろうとしているというのに、未だに日中は真夏のような暑さになることが多い。
三里文也はいつものように三鷹駅から出ると、それがまるで当たり前の行為であるかのように駅の隣にあるコンビニへと向かった。
大学を卒業してから早くも3年が過ぎようとしている。
卒業後、3流のコンピュータ会社に就職したが、すぐに一ヶ月に100時間を越すあまりの残業の多さに軽い鬱病になった。
単に仕事が多いということ以上に、自由に自分の時間が取れないことが何より苦痛だった。有休一つ取るにしても上司の嫌味を聞かねばならず、何よりも会社を優先することを強いられる。何も自分だけが大変だったとは思っていない。きっと社会に出るというのはそういうものなのだろう。だが、自分はそんな会社人間に染まることに抵抗があった。
大学にいた頃からサラリーマンになることには否定的だった。かといって、何か特別な夢があるわけでもない。ただ、どこか自分の心のなかに常に物足りなさを感じ、それを埋めることの出来るものが欲しかった。
結局、就職した会社は半年で辞めることになった。だからといっていつまでも遊んでいるわけにもいかない。貧しいわけではなかったが、遊んで暮らしていけるほど裕福な家庭でもなかった。父は仙台にある小さな工場で働き、母もまたスーパーでパートをしている。高校に入学したばかりの妹もあり、まさか大学を卒業した後も生活の面倒を見てもらうわけにもいかなかった。
会社を辞め、フリーターとしての生活が始まった。
毎日、求人雑誌をめくってはバイトを捜し、適当に生活費を稼ぎ出す。そんな生活をここ2年半ほど続けてきた。金銭的な余裕はなかったが、会社勤めをしていた時よりは自分というものを持つことが出来る気がした。
未だに自分がどこへ向かえばいいのかその道を見つけらない。別に自分の選んだ生活に悔いがあるわけではない。それでも、時折自分の未来に不安を感じることもある。
心のなかに矛盾した感情が渦巻き、本当に自分が何を望んでいるのか見えなくなる。
コンビニに入るといつものように雑誌の棚に手を伸ばし、求人情報誌を掴む。
ガソリンスタンドにコンビニ、ファミレスの店員、製造会社の組立工。どれも似たりよったりのものばかりだ。給与が良いのはエンジニアやCADオペレータといった技術職だが、そんな仕事が出来ないことは自分が一番良くわかっている。そもそもそういった職種は皆、バイトではなく正社員の募集で自分の希望とは違っている。
元の残業ばかりに明け暮れる生活に戻る気にはなれない。
その時――
「君、バイトを捜してるのか?」
その声に横を見ると、グレイのスーツを着た男が立っている。まったく見知らぬ40歳くらいの長身でがっしりした体つきの男だ。170センチの文也よりも頭一つ大きく、おそらく180センチ以上はあるだろう。頭はポマードでベッタリとオールバックに撫で付けられ、薔薇の模様のネクタイがいかにもキザっぽい。目鼻がはっきりとした顔立ちで、ホストというにはそれほど若くはないが、その店長と言われれば素直に頷ける気がする。
「……ええ」
軽く答えてすぐに雑誌に視線を戻す。
「君は学生なのか?」
男はなおも話し掛けてきた。オールバックに撫で付けられた髪が店の照明を受けてテカテカと光り輝いている。
「なんですか? いったい」
「君、いつもここでその雑誌読んでいるよね。それ求人誌だろ? 学生? それとも最近流行りのフリーターってやつかな?」
いったい何だというのだろう。
「それが何か? あなたに関係がありますか?」
文也は冷たく言った。どこの誰ともわからぬ男と親しく話す気にはなれない。
「バイトを探しているのなら紹介してあげようかと思ってね」
「なんであなたが?」
「ちょっと事情があってね。君のような若者を捜していたんだ。どうだ? 話だけでも聞いてみるかい?」
軽い口調で男は言った。世の中そうウマい話があるはずがない。子供の頃から親にそう教えられてきた。何かヤバイ話かもしれない。
「いや、いいですよ」
文也はそう言って目を背けた。
「おや? 怖いのかな?」
鼻で笑うように男は言った。洋物のコロンの香りが鼻をつく。
「別に怖いわけじゃありません」
「だったら話くらい聞いたらどうだね? そう悪くない仕事なんだがね。とりあえず話だけ聞いて、やるかやらないかはそれから決めればいい。決して君にとって損な話じゃないはずだ。話を聞く勇気もないというのならば仕方ないけどね。どうだい? それでもまだ怖いかな?」
まるで文也を試しているかのようだ。さすがにここまで言われてしまうと断りづらくなる。
「……わかりました」
そう言って文也は雑誌を棚に戻した。
「そうこなきゃな。一杯飲みながら話でもしようか」
* * *
文也は男に連れられ、すぐ近所にある駅裏の居酒屋に入っていった。
どこかわからぬような事務所に連れて行かれるよりはよほど良い……が、まだ安心は出来ない。何しろ男の目的がまだはっきりとわからないのだ。
週末ということもあってか、店内は割りと込み合っている。いくつもの若者のグループが大きな笑い声をたてている。それでもさすがに待たされることもなく、文也たち二人は奥の座敷へと通された。
文也は油断することなく男の動きを観察した。男は機嫌よさそうにメニューを眺めながら近づいてきた店員に注文している。
仕立ての良さそうな黒いスーツ。そして、薄いブルーのシャツにバラの模様のネクタイ。おそらく全てがブランド物であることは間違いないだろう。平々凡々なサラリーマンにはとても見えない。
この男は一体何者なのだろう。それなりの筋の人間である可能性も高い。
やがて、店員が注文を聞いて離れていくのを待って文也は訊いた。
「それで話って何ですか?」
まだメニューを眺めていた男は顔をあげて文也を見た。
「ん? ああ、君は気が短いんだな」
「あなたとゆっくり飲んでいても仕方ないでしょう」
「そう警戒しなさんな。べつにとって食おうってわけじゃあない。君、名前は?」
文也に訊きながらメニューをテーブルの脇に片付ける。
「……」
「名前くらい教えてくれても良いんじゃないか。名前もわからないんじゃ話もしづらい」
「あなたは?」
文也が聞き返すと男はニヤリと笑って――
「用心深いね。良いことだ。私は青島修平。君は?」
「三里文也です。話してください。バイトって何ですか? 変なことじゃないでしょうね?」
「変なことって? 君、何を想像してるんだ?」
相変わらず口元をニヤつかせながら青島は言った。
「麻薬や拳銃の密輸とか……」
すると突然、青島は大きく笑い出した。その大きな笑い声に周囲の客が振り返って文也たちに視線を向ける。
「麻薬ねえ。君、ドラマの見すぎじゃないか? 私はそんなふうに見えるのかねえ。それなら安心してくれて構わないよ。そんなことを君にやらせるつもりはない。そもそもどちらかというと私はそれを取り締まる側だしね」
「取り締まる側? それじゃ――」
「警察のものだよ」
急に青島は声を潜めて言った。
その時、店員がジョッキを二つ運んできた。ハッピのようなユニフォームを着た若い店員は「おまたせしました」という元気な掛け声とともに、文也と青島の間にドンとジョッキを置いて忙しそうにテーブルを離れていく。
「まずはグッといこうか」
テーブルに置かれたジョッキを青島が手に取る。
「待ってください。あなたは本当に警察の人なんですか?」
周囲に聞こえないように小声で訊く。
「そうだよ。私は警視庁捜査一課の刑事だ。安心したかい?」
「安心っていうか……」
「むしろ怖くなった?」
青島の言うとおりだった。さっきまでのとは違う不安感が心のなかを占めている。
「いや……でも、なんで警察が僕に?」
「さっきも言ったじゃないか。君にバイトを紹介しようと思ったんだ」
そう言うと青島はグビグビとビールを煽った。青島がジョッキをおろすのを待って文也はさらに訊いた。
「バイトって何ですか?」
「君、幾つだ?」
「25です」
「なぜ定職につかない?」
「別に……フリーターじゃいけないんですか?」
理由がないわけではなかったが、そんなことを何者なのかもわからない男に話したくはなかった。
「いや、ただ興味があっただけさ。それにいざバイトを始めてもすぐに辞められるのも困るからね。やるからには適当は困る。君、飽きっぽい?」
「そう思うなら別の人を捜してください」
文也はムッとして立ち上がろうとした。
「悪かった悪かった。そう短気になるなよ。確認しただけだ。まあ落ち着いて」
宥めるように青島が言う。仕方なく文也は再び腰を降ろした。
「早くバイトの中身を教えてください」
「実はちょっと変わったバイトでね。君に手伝ってもらいたい」
そう言って青島は身を乗り出した。
「何ですか?」
「まずは君にこのバイトの面接を受けてもらいたい」
青島は上着のポケットから一枚のチラシのようなものを取り出すと文也の前に置いた。見ると、そこには『バイト募集 住み込みで働ける人』と書かれている。
「なんですか? これ」
「見ての通り、バイト募集のちらしだよ。ある家で使用人を募集しているんだ。君、ここで働いてみてくれないか?」
ちらしは至って平凡な求人広告にしか見えない。
「ずいぶん遠いですね」
ちらしに書かれている住所は東京の西のはずれのほうだ。ここからでも電車で30分以上かかるだろう。
「パスポートが必要なほど遠いわけじゃない」
冗談のつもりか青島は軽い調子で言った。
「これが警察の仕事に関係があるんですか?」
「いや、誤解しないでもらいたいが、今回のバイトと警察とは直接関係はしていない。これは警察というよりも私個人の依頼だと思ってくれたほうがいい」
「あなたの?」
「そうだ。実は今、私は内密にある事件を捜査している」
「事件? どんな事件ですか?」
頭のなかで最近起こった凶悪事件を思い出そうとする。
「いや、正確にはまだ事件ということは出来ない。何しろ実際に犯罪が起きているというわけではないからね。どちらかというと犯罪を未然に防ぐための捜査だ。だからこそこうやって密かな捜査が必要になってくる」
「僕は何をすればいいんですか?」
文也は緊張して訊いた。警察の仕事を手伝うことになるかもしれないということが気持ちを少し興奮させている。
「それはまだ話すわけにはいかない」
青島はそっけなく言うと、ポケットから煙草を取り出すと口に咥えた。
「え? 教えてはもらえないんですか?」
「まずはそのバイトの面接を受けてきてくれ。それが第一歩。面接に合格しなければ仕事にならない。君はバイトを探していたんだろう? ちょうどいいじゃないか」
煙草に火を灯しながら言う。
「そりゃそうですが……」
「もちろんタダでとは言わない。それなりの礼はするつもりだよ。つまり君にとっては二重のバイトというわけだ。悪い話じゃないだろう?」
そう言って青島は鼻から紫煙を吐き出した。
「一つ訊いてもいいですか? どうして僕なんですか?」
「別に」
「別にって……」
「こう言っては悪いが、君を選んだことにさしたる理由はない。君が毎日あのコンビニで求人雑誌を読んでいることに気づいたから誘ってみただけだ。正直言って君がどんな人間なのか、私にはよくわからない。信用しているとも言えない。だから、あまり細かな話をするつもりはない。そのうち君が本当に信頼出来ると思えるようになったら、私が何を捜査しているのか話してあげるよ。どうだね? やってみる気はあるかい?」
その青島の表情を見つめ、文也は迷った。
ヤバい仕事だろうか。だが、裏を返せば面白そうな仕事と言えるかもしれない。しかも相手は警視庁の刑事だ。犯罪に手を染めるわけじゃない。やってみてもしヤバそうだと感じた時は、すぐに降りてしまえばいいだろう。
少し考えた結果、文也は覚悟を決めた。
「わかりました」
そう答えた時、ちょうど店員が焼き鳥を運んできて二人の前に置いた。
「よし、それじゃ前祝といこうじゃないか」
青島がニヤリと笑い、再びジョッキを手にした。




