3.4
日下部から連絡があったのは金曜の昼だった。
午後3時に渋谷の駅前にやってくるようにと一方的な電話だった。
幸か不幸か、日中はいつも暇を持て余していることには違いなく、文也は昼過ぎに屋敷を出ると電車に乗って渋谷へと向かった。
午後2時45分に渋谷のホームに降りると、階段を上がり駅を出る。
タクシー乗り場の近くで待っていろと日下部からは言われている。
ぼんやりと駅前に立っていると一台の黒塗りのクラウンがゆっくりと近づいてくるのが見えた。運転席には日下部が座ってハンドルを握っている。
文也が車道に近づいていくと、車はその横にピタリと止まった。フロンとには薄めの、リアウインドーには濃いスモークが貼られ、中の様子を見ることが出来ない。
(刑事がこんな車で問題ないのか?)
そんなことを思っていると助手席の窓が降り、日下部が顔を出した。
「乗れや」
まるでチンピラのような言い方だ。文也が助手席のドアを開けようとすると――「ちゃう、後ろや」
そう言って窓を閉めた。
文也が後部ドアを開けると、奥の座席に青島が乗っているのが見えた。
「青島さん」
乗り込んでドアを閉めると、すぐに車が動き出した。
「やあ、久しぶりだね。あの家での生活はどうだね? うまくいってるかい?」
「ええ……まあまあです」
「どこがまあまあや? まだ何にもわかっとらんやないか」
ハンドルを握る日下部がちゃちゃをいれる。
「焦る必要はない。君がやっているのは実に大切な調査だ。慎重にやってくれ。ただ、出来るだけ急いでくれ」
日下部の言葉を無視するように青島は柔らかな口調で言った。
「青島さん、忙しいんですか?」
「どうしてだね?」
「いつも日下部さんが来るようですが……」
「なんや? 俺じゃ嫌や言うんか?」
バックミラー越しに日下部が睨む。
「いえ、そういうわけじゃないですけど……」
「すまないな。前にも話したと思うが、あの家のことはまだ公になっていない。警視庁内部でも極一部の人間しか知らないことだ。私も他に事件を抱えていて、あの家のことばかりに時間を割くわけにはいかないんだ。何かあれば日下部に何でも話してくれ。これでも優秀な男なんだ」
「はぁ……わかりました」
文也は渋々頷いた。
「今日は少し時間が取れてね。それに日下部からの話じゃ君がなかなか苦労していると聞いたんだが」
「そう簡単にはいきませんよ」
「難しい仕事であることは確かだ。だが、弱音を吐かれても困るな」
「べつに弱音ってわけじゃないですが……」
「君には期待してるんだ。期待を裏切らないでくれよ」
そう言ってポンと文也の肩を叩く。
「それなら、そろそろ青島さんが何を調べているか教えてもらえませんか?」
すると青島は途端に表情を厳しくした。
「それはまだ早い」
「どうしてですか? まだ僕のことが信用出来ないってことですか?」
「そういうことじゃない。だが、君はまだあの家族について何も調べてくれてはいないじゃないか」
「そんな……何を調べればいいのかもわからないのに調査なんて出来ませんよ。それにやる気だって起きませんよ。教えてください」
「ダメだ」
青島は突っぱねるように言った。
「物事には順序言うもんがあんのや。聞き分けないガキみたいなこと言う取ったらあかん」
ハンドルを握る日下部がバカにするように笑う。その日下部の態度に文也は思わずカッと頭が熱くなった。
「だったら僕はおります。このバイト辞めますよ」
思わず口走ったその言葉に青島は眉をひそめた。
「辞める? どうしてだ?」
「なんか気味悪いじゃないですか。こんなスパイみたいなこと。いったい何の捜査なのかもわからないし……」
「おまえなぁ、大概にせえよ」
日下部が声をあげた。
「どうしてですか?」負けずに文也も言い返す。
「おまえは黙って言われたとおりしとったらええんや!」
「僕は警察官じゃありません! 別にあなたにそんな言われ方しなきゃいけない理由はないと思います」
車はちょうど赤信号で止まり、日下部が目を吊り上げて振り返った。
「なんやと! 大人しくしとる思うて――」
「ちょっとおまえは黙ってろ!」
青島が一喝した。
鋭い青島の声に日下部は一瞬、文也を睨んだが、それでも大人しく口を噤んでハンドルを握りなおす。青島は隣に座る文也のほうへ少し体を傾けると――
「君の言う通りだ。確かに君は警察官ではない。君がこの仕事を辞めたいというのであれば、私はそれを止めることは出来ない。だが、君は本当にそれでいいのか? こんな形で目の前にある犯罪に目を瞑ってしまっても後悔はしないのか?」
「あの家の人たち、警察に調べられなきゃいけないようなことがあるんですか?」
「必要があるからこそ君に頼んでいるんだ」
信号が青に変わり、車が再び動き出す。
「だったら事情を説明してください。もし説明してくれないなら俺は降ります」
青島はじっと黙って文也を見つめた後――
「……わかった」
ため息混じりの低い声で言った。「ただし、この件は署内でも極秘裏にやっている調査なんだ。決して他言しないでくれよ」
「わかってますよ」
文也はそう言って身を乗り出した。
「実は20年ほど前にあの家でちょっとした事件があったんだ」
青島は少し声を低くして言った。
「事件ってまさか……殺人とか?」
「そうだ」
「本当ですか?」
「当時住んでいたのは建築士の男とその家族だ」
「建築士?」
「そして、その4人全員が殺された。事件の翌日、親戚が訪ねてきて事件が発覚した。家のなかは荒らされ、金品がなくなっていたことから物取りの犯行と見られて捜査された。盗まれた金品などから犯人はすぐに捕まると考えられていたが、捜査はなかなか進まなかった」
「それで『幽霊屋敷』ですか」
「幽霊屋敷?」
「あの家、近所じゃそう呼ばれてるらしいんです。それで犯人は?」
「未だ逮捕されていない」
「その事件とあの家族とどんな関係があるんです?」
「殺された家族の名前だが……」
と言って青島が手帳を捲る。「真下秀光42歳。その妻で真下恭子41歳。娘の真下沙織、17歳。そして妹の真下小雪9歳」
「え? そんな……そんなバカな……」
そう言った自分の声がわずかに震えていることに文也も気がついた。
「そうだ。つまり20年が過ぎ、殺されたはずの家族とまったく同じ名前の家族があの家に引っ越してきたというわけだ」
「生き返って……?」
「そんなことがあるはずない」
フンと鼻息を吹いて青島は言った。「20年前の事件と何か関係がある奴らに違いないんだ。何を企んでいるんだ?」
「さあ……」
文也が首を捻ると、青島は呆れたように睨んだ。
「頼りないな。だからそれを君に調べてもらうんじゃないか」
「ひょっとしたら――」
「何か知っているのか?」
「いえ……そうじゃないです。ただ、ひょっとしたら20年前の事件の犯人だったりして……」
「彼らがか?」
「可能性ないですか?」
「ま、そういう可能性もあるかもな」
青島はぶっきらぼうに言った。「いずれにしても彼らが何を企んでいるのか、早めに知る必要がある。どうだ? ここまで話したんだ。ちゃんとやってもらえるだろうね」
「ええ、わかりました」
「良かった。今まではあまり君を巻き込まないように事情を説明しなかったが、これからはそうはいかない。いいね」
大きな手を文也の肩に置いて青島が言った。
ピタリと車が動きを止める。
ふと窓から外を見ると109ビルの正面外壁に取り付けられた若手シンガーの巨大広告が見える。
どこをどう通ってきたのか、いつの間に車は再び渋谷の駅前に戻ってきていた。
「降りな」
振り向きもせず日下部が無愛想に言う。文也はドアを開けて外に出た。
「じゃあ、頼んだよ」
車から降りた文也にそう声をかけて青島はドアを閉めた。
ゆっくりと車が動き出す。
去っていく車を眺めながら、青島の話を思い出していた。
20年前に殺された真下一家。そして、まったく同じ家族構成で同じ名前を持つ真下一家。その二つの家族にいったいどんな関係があるのだろう。
車が見えなくなると、文也は駅に向かい歩き始めた。
その時――
ふとその視線の先に、ある男の姿を見つけた。
(柿沢さん?)
若者が溢れている駅の前に柿沢が立っている。いつものスーツ姿とは違い、ベージュのチノパンに黒いセーターを身に着けている。
柿沢はぼんやりと青島が去っていった方向を眺めていたが、文也のほうに一瞬だけ視線を向け、おもむろに体を反転させ駅のほうへ早足で去っていった。




