3.2
午後4時半。
文也は弘子と別れ、屋敷に戻った。
玄関先では柿沢が車を洗っている。柿沢は文也に気づくと軽く頭を下げた。どうやらすでに真下夫妻たちも帰宅しているようだ。
中に入ると甘い香りが玄関先まで漂ってきている。
早くもキッチンでは明美が夕食の支度を始めているようだ。小雪と明美の明るい声が聞こえてくる。
文也がキッチンを覗くと、明美と小雪が声を揃えた。
「おかえりなさい」
「ただいま。今日は早かったですね」
「今日は沙織ちゃんの帰りが早かったから。待たずに済んだの」
ホットケーキを食べながら小雪が答える。どうやら甘い香りの素はこれらしい。
「まさか、それが夕飯ですか?」
「いえ、夕飯はまだですよ。これは小雪お嬢さんにちょっとおやつを作ってさしあげてるんです」
「三里さんも食べる?」
と小雪が訊く。
「いや、止めときます。今食べたら夕飯が食べられなくなりそうですから。明美さんは平気なんですか?」
「私たち女にとって、甘いものは別腹なんです。それに甘いものの前じゃダイエットなんて無意味無意味」
明美の冗談に合わせて小雪がケラケラと笑う。
どこかホッとするような光景を横目で見ながら、文也は2階の部屋へと向かった。夕食までに、青島に渡すためのこの屋敷の簡単な見取り図を完成させておくつもりだった。
今日も真下夫妻と沙織の二人は部屋に篭っているのだろう。少し離れた沙織の部屋のほうを見ながらドアを開け、部屋の明かりをつける。
ドアを閉めた瞬間、そのドアがいつもと違っていることに気づいた。
(……鍵だ)
鍵がドアに備えられている。
昼過ぎに部屋を出た時には、まだ鍵は取り付けられていなかった。
きっと沙織が取り付けてくれたに違いない。
すぐに部屋を出ると、一番奥の部屋のドアを叩く。
「はい」
声が聞こえゆっくりとドアが開く。黒いワンピース姿の沙織が姿を現した。この家の人たちは普段でもラフな格好をしていることが少ない。
「何です?」
「部屋に鍵をつけてくれたんですね。ありがとうございます」
「欲しかったのでしょう?」
沙織は真っ直ぐに文也の顔を見つめて言った。無表情の顔つき。考えてみたら沙織が笑ったところを見たことがない。
まるで美しいマネキン人形のようだ。
「わがまま言ってすいません」
「いえ。これでゆっくり眠れるのでしょう?」
「ええ」――とは答えたものの、不思議なことにこの屋敷に来て以来、眠れない夜はほとんどない。
「では明日からもがんばってください」
「あの――」
ドアを閉めようとする沙織に慌てて声をかける。
「まだ何か?」
「仕事のことですが」
文也はバイトのことを思い切って訊いてみることにした。
「何か問題でも?」
「こんな調子でいいんでしょうか? あの……ほとんど小雪ちゃんの家庭教師以外何もやってないようなもんだし」
「それでいいんじゃありませんか? もともと三里さんには小雪の家庭教師をしていただくために来ていただいているのですから」
「でも、それなら住み込みである必要もないし、バイト料だって多すぎます」
「住み込みが嫌になったということですか?」
「い、いえ、そういうわけじゃありません」
「それなら何も気にする必要はありません。あなたがバイト料が多いと感じているとしても、私はそう思っていません。あなたの価値に見合ったものをお支払いしているつもりです。余計な気遣いは不要です」
そう言うと沙織はドアを閉めた。
* * *
(幽霊屋敷か……)
弘子の言葉を思い出す。
なぜそんな噂が出たのだろう。ひょっとしたら青島が調べている事件と何か関係があるのかもしれない。
ふとベッド脇にある目覚まし時計に視線を向ける。
午前2時。
そろそろ眠ろうとベッド脇にある壁のスイッチに手を伸ばす。だが、すぐにその手を止めた。
(喉が渇いたな)
すでに真下家の人たちは眠っていることだろう。
薄暗い屋敷のなかをキッチンまで行くことを考えるとゾッとする。
子供の頃から暗闇が何よりも怖かった。眠る時は部屋には必ず鍵をかけ、朝になるまで決して部屋から出ようとしなかった。大人になるにつれ、少しは恐怖感に打ち勝てるようになってきたが、それでも未だに身体の芯にはその恐怖心が残っている。
なぜこんなにも夜が怖いのか、自分でも不思議になる。
文也は喉の渇きを忘れようとするようにスイッチを切りベッドへと潜り込んだ。
だが、すぐに思い直して起き上がると再び部屋の灯りをつけた。一度感じ取ってしまった喉の渇きを忘れて眠ることは難しいように思われた。
ベッドを降りると、そっと鍵を開けて部屋を出た。
薄暗い照明が廊下を照らしている。
大きく深呼吸してから歩き出す。
屋敷のなかは静まり返っている。その静けさがさらに恐怖心を煽る。誰かがどこかに潜んでいるような、そんな気がしてくる。
(バカだな……俺)
自分自身が情けない。
階段を降りてキッチンへ向かう。
屋敷が広いとこういう時に面倒だ。部屋用の冷蔵庫を買うことを検討してみるのもいいだろう。
薄暗い通路の明かりを頼りにシンク脇にあるコップに手を伸ばす。
その時――
「誰?」
厳しい口調と共にキッチンの明かりが灯る。
思わずビクリとして飛び上がった。
沙織だった。
「三里さん? いったい何してるの?」
「あぁ……沙織さんですか……びっくりした」
文也は胸を押さえ、大きく息を吸い込んだ。たったこれだけのことなのに心臓がドキドキと波打っている。
「何してるの?」
沙織はもう一度訊いた。
「す、すいません。ちょっと喉が渇いたものですから」
「だったら明かりくらいつけたらどうです?」
「ええ……水を一杯飲んだらすぐに部屋に戻るつもりでいたので……沙織さんはどうして?」
「ちょっと眠れなかったのでお酒でも飲もうかと思って。どうです? 一緒に飲みませんか?」
ふと見ると沙織の手にはワインボトルが握られている。
「え? いいんですか?」
沙織の誘われたことに文也は驚いた。
「グラスを取ってください。そこの棚にワイングラスがありますよね」
沙織はそう言いながらワインのコルクを抜いた。文也が食器棚のなかから取り出してテーブルに並べると、そのグラスにワインを注ぎ込む。
「どうぞ」
沙織は一つをテーブルの向かいに立つ文也に渡し、自分もグラスを手に腰を降ろした。そして、そっとグラスを唇に運ぶ。
文也も椅子に座ると、その沙織の姿を眺めながらワインをゴクリと飲んだ。乾いた喉を潤しながら良く冷えた赤いワインが身体に染み込んでいく。
「あの――」
「何ですか?」
沙織はその黒い瞳を文也に向けた。
「小型の冷蔵庫って部屋に置いてもいいですか?」
「冷蔵庫?」
「ええ。そうすればこんなふうに夜に部屋を出てくることもないので……ダメですか?」
「いえ、好きにして構いませんよ。それにしてもさっきはずいぶんびっくりしていましたね」
「すいません……俺、昔から夜って苦手なんです」
文也は照れ隠しに笑いながら言った。
「どうして?」
「どうしてでしょうね。理由はよくわからないけど、子供の頃からなぜか夜が怖いんです」
「子供の頃、何かあったのかしら?」
沙織はじっと文也のことを見つめながら訊いた。
「さあ。よくわかりません。俺、子供の頃のことってあんまり憶えてないから」
「記憶がないの?」
「いやぁ、そんな大げさなもんじゃないですよ。誰だって子供の頃のことなんてそんなに憶えているものじゃないし」
「……そうね」
「憶えてるのは小学校3年の頃からかな。その前はさっぱり。そのおかげで昔よくからかわれましたよ。今ではだいぶよくなってきたけど、小学校の修学旅行の時なんて夜一睡も出来なかったですから」
「大変ね」
沙織は無表情のままゆっくりとグラスを回してワインを飲んだ。
「こんな歳になって、恥ずかしいですよね」
「いいえ、そんなことありませんよ。恐怖心ってなかなか消えることはないですからね。子供の頃の記憶は特に」
「恐怖心なのかなぁ。それすら思い出せないですよ。何か思い出すことが出来ればいいんだけど」
「無理に思い出す必要もないんじゃありませんか? 忘れてしまったほうがいいこともあります。もう少し飲みますか?」
沙織はほとんどなくなった文也のグラスを見て、ボトルを手にするとグラスにワインを注ぎこんだ。
奇妙な感じがしていた。
こんな形で沙織と話をしていることも妙だったが、あまりに自然に話が出来る自分にも不思議だった。
相変わらず沙織はまったく感情を見せようとしない。それなのになぜか沙織の優しさが伝わってくるような気がする。
初めて沙織を見た時に見えた天使の羽。あれが再び彼女の背に大きく広がるような気がしてくる。
なぜ、こんな感情を抱くのだろう。こんなことを栗原に言えば、彼女に恋していると思われてしまうかもしれない。
だが、これはそんな単純な感情とは違っている。
真下沙織とは何者なのだろう。
その視線に気づいたのか、沙織が視線を文也に向けた。
「どうかしました?」
「あ……いえ……そういえば、日中、みなさんはどちらに行かれてるんです?」
文也は思い切って訊いてみた。
「どうしてですか?」
「いえ、理由は別にないんですが……」
小雪同様、やはり家族のことについては何も教えてはくれないのだろうか。
だが――
「父は仕事で、母はその手伝いをしています。父は建築士の仕事をしているんです」
沙織は意外にもあっさりと答えた。
「建築士ですか」
「この家を設計したのも父です」
「お父さんが? でも、この家はずいぶん前に建てられたんじゃ――」
「もう22年になります。父が建築士になって一番最初に造った家です。今となっては懐かしいものです」
「それでこの家に引っ越してきたんですね」
「……ええ」
沙織は小さくうなずいてワイングラスに口をつけた。
「変わった家ですよね」
「父は子供の頃、忍者屋敷に憧れていたんだそうです。だから小さなところにいろいろ工夫や仕掛けがされているんですよ」
「それじゃ壁に抜け穴があったりして?」
「さあ、どうでしょうね」
そう言ってまたワインを飲む。
沙織が答えてくれたことに胸を撫で下ろしていた。些細なことではあるが、これで青島に報告することが出来る。
だが、同時にこんなことをしていていいのだろうかという気持ちが沸いてくる。この家の人たちは本当に警察が調べなければいけないような何かがあるのだろうか。少なくとも沙織に対してだけはそう思いたくない。
胸の片隅に小さな罪悪感が生まれていた。




