第8章「傷だらけの正義」
「お母さん、たけし君はまた他校の生徒と揉め事を起こしました。幸い相手に大きな怪我はなかったようですが、これ以上ケンカが絶えないとなると、うちとしても退学処分を考えざるを得ません」
薄暗い放課後の進路指導室。
パイプ椅子のきしむ音がやけに大きく響く。
担任の先生の言葉を、寺下たけしの母親は膝の上で細く震える手を何度も握りしめながら、真っ直ぐに受け止めていた。
母親は深く頭を下げ、消え入りそうな声で、けれど我が子を庇うように言葉を返した。
「本当に、申し訳ありません……。でも先生、あの子は、ただ暴力を振るいたいわけじゃないんです。本当は正義感が強くて、誰かが理不尽に虐げられているのを見ると、放っておけない不器用な子なんです。家のことも、いつも手伝ってくれて……」
「しかし、理由がどうあれ暴力は暴力です。学校としての秩序もあります」
「はい……分かっています。私から、もう絶対に手は出さないようにと、強く言い聞かせますので……どうか、もう一度だけチャンスをいただけないでしょうか」
母親の言葉には、息子の本質を誰よりも信じながらも、差し迫る退学という現実に怯える痛々しさが満ちていた。
――翌朝、まだ薄暗い新聞販売所の裏手。
朝焼けの冷たい空気が漂う中、たけしは片付けられた配達用バイクの横で、親方の前に立っていた。
コンクリートの作業台の上には、白い封筒がぽんと置かれる。
親方が私費で用意した、わずかばかりの餞別だった。
「寺下。お前が身体の弱い母親のために、毎朝誰よりも早く来て、真面目に配達をこなしてくれたのは分かっている。根性もある。……だがな、なによりお前の体調が心配だ。運転中にうずくまったり、ハンドルを握れなくなったり、いつ事故を起こしてもおかしくない」
親方はたけしの作業着の袖を見つめ、苦渋をにじませた。
「一度、でかい病院へ行け。今は身体をちゃんと治せ。……ただ、悪いが、これ以上はうちでもお前を雇い続けることはできない。万が一のことがあったら、お前の家族だって路頭に迷うんだぞ」
自分を心配してくれているからこその突き放し。
それが、たけしの胸に重くのしかかった。
ここで食い下がっても、親方の決意が変わらないことはその表情が物語っていた。
「……お世話になりました」
たけしは唇を血が出るほど噛み締め、その封筒を掴むと、何も言わずにその場を後にした。
家族の生命線だった稼ぎ口が、今、手のひらから滑り落ちていった。
その日の帰り道。
肩を落として寂れた裏通りを歩いていたたけしは、住宅街の狭い路地裏から聞こえる、聞き覚えのある罵声に足を止めた。
見ると、学校の同級生である直哉が、他校の先輩数人に囲まれ、コンクリートの壁に押し付けられていた。
直哉は恐怖に顔を歪め、小遣いをむしり取られそうになって小さく震えている。
たけしの脳裏に、昨日の母親の後ろ姿や、今朝の親方の「もう問題を起こすな」という言葉がよぎる。
(――クソが)
だが、考えるより先に彼の身体は一瞬で動いていた。
「おい、何やってんだ」
低い地を這うような声とともに、たけしはいじめっ子たちの襟髪を後ろから容赦なく掴んで引き剥がした。
「あ?なんだお前――」
たけしは、激昂して殴りかかってくる先輩たちの拳をかわす。
仕事で鍛え上げた身体のバネを使い、相手の懐に踏み込んで鋭い一撃を叩き込んだ。
怯んだ隙に、もう一人の鳩尾に拳を叩き込む。
圧倒的な体格差と凄みに恐れをなした男たちは、仲間を抱えながら這うようにして路地の奥へと逃げ去っていった。
「て、寺下……!」
地面に座り込んだまま、直哉が怯えと感謝の混ざった声でたけしを見上げた。
「ありがとう……。でも、大丈夫なのか?あいつら、隣町のタチの悪いグループの奴らだ。寺下、仕返しされるんじゃ……。学校に変な噂が流れたら、今度こそ……」
たけしは地面に落ちていた直哉の鞄を拾い上げると、手についた砂を払ってぶっきらぼうに手渡した。
「仕返し?させるかよ。悪いのはあっちだ」
小さな声だった。
けれど、怯える同級生の目を真っ直ぐに見つめ、包み込むような優しい声で続けた。
「お前は何も悪くない。……そのままでいろよ」
翌日の朝、学校の職員室前。
たけしを呼び止めた担任の先生が、彼の顔や腕に増えた真新しい傷を見つけ、ため息混じりにたたみかけた。
「寺下。お前、またケンカか?母親があれだけ頭を下げていった直後にこれとは、どういうつもりだ。これ以上、親を悲しませるな。自分の立場が分かっているのか」
先生なりの、彼を退学にさせたくないという気遣いからの言葉だった。
だが、その傷は、昨日のケンカで負ったものではなかった。
最近になって突然、自分の身体に前触れもなく現れるようになった、あの「原因不明の、謎の赤みと疼き」だった。
昨夜も、寝ている間に皮膚の裏側をじわじわと焼かれるような痛みが走り、朝起きたら生々しい痕が浮かび上がっていたのだ。
何も知らないくせに。
病院でも異常なしと言われたこの気味の悪さを、誰が分かってくれる。
じろじろとチェックされる煩わしさに、たけしの中で何かが切れた。
一瞬、鋭い三白眼で先生を真っ直ぐに睨みつける。
先生が思わずその気迫に気圧された瞬間、たけしは視線を外し、ぼそっと呟いた。
「……ケンカじゃねえよ」
それだけ言い残し、呼び止める声を無視して背を向けて歩き出す。
周囲の勝手な誤解や心配。
家族を支えたいのに、謎の変調のせいで仕事すら失ってしまった現実。
何もかもが空回りし、上手くいかないことばかりが重なって、たけしの精神は完全にすり減り、参り切っていた。
その日の深夜。
弟妹たちが川の字になって眠る、静まり返った質素な平屋の自室で、たけしは一人、ベッドの上でスマートフォンをいじっていた。
画面の青白い光が、彼の傷だらけの顔を寂しげに照らす。
この狂ったような身体の疼きと、理不尽な現実。
どこへもぶつけることのできない怒りと孤独を吐き出すように、彼は検索画面を閉じ、非公開の暗いタイムラインに向かって、震える指先で言葉を打ち込み始めた。
画面の中で、文字が静かに明滅する。
どうせ誰にも伝わらない。
そう思いながら、たけしは吐き出すように投稿ボタンをタップすると、スマホを枕元に放り投げ、深いため息をついた。
しかし、その画面の動向を、別の街の、暗い部屋で静かに見つめている「一つの瞳」があった。
暗闇の中、たけしの打ち込んだ画面を無言で見つめる、輪郭の定まらない影。
その影は、手元にある古い羊皮紙のような薄暗いノートを開き、そこに記された古い文字の羅列へと視線を落とする。
「……見つけた」
低く乾いた声が、誰もいない部屋の壁に吸い込まれて消えた。
そして、冷たい指先でスマートフォンの画面をなぞり、ゆっくりと、次の奇妙な操作を開始した。




