第7章「第三の痛み」
家に戻るなり、さつきは自室のベッドに座り込んだ。
さとるとの会話。彼の左手の指先に巻かれた絆創膏、そして右手の掌の痣。
(宮嶋くんは気づいていたみたいだけど……)
さつきは、さとるの視線が自分の指先に釘付けになっていたことを見逃さなかった。
彼は論理的に分析しようとしていたようだが、さつきはもっと直感的だった。
彼が右手をポケットに隠したあの瞬間、自分の中に流れた「熱」の正体を、彼女は確信していた。
「お父さん、お母さん。ちょっといい?」
夕食後、さつきは意を決してリビングに両親を呼び止めた。
放課後の出来事。
自分と同じ場所に、同じような覚えのない痛みを持つ少年がいたこと。
それが一箇所ではなく、何度も重なっていること。
「……これって、本当にただの偶然かな?」
少しの期待と、溢れ出しそうな不安を込めて語るさつきの言葉を、両親は身を乗り出すようにして聞いていた。
「さつき、それは……本当なのか?」
いつもは穏やかな父が、珍しく眉間に深い皺を寄せていた。
母はさつきの右手の痣をそっと撫で、その手を震わせている。
二人の反応は、さつきが予想していた「そんなの気のせいよ」という突き放したものではなかった。
むしろその逆「娘が苦しんでいるのに、原因を特定してやれない不甲斐なさと、得体の知れない事態への恐怖」が、痛いほど伝わってきた。
「ごめんね、さつき。お母さんたちも、お医者様と同じで……そんなことが起こるなんて、信じられないというか、どうしていいか分からなくて」
母の目は真っ直ぐにさつきを見ることができず、ただ困惑したように父と顔を見合わせるばかりだった。
父もまた、言葉を選びあぐねて、ただ小さく首を振った。
「変だよ、お父さん。病院でも異常なしって言われて、でも現にこうして痣になってるし、同じ痛みを持つ人までいたんだよ?」
必死に問い詰めるさつきに対し、父は重い口を開いた。
「……すまない。本当に、何も分からないんだ。さつきのような症状を得意とする病院を探してみよう」
父は嘘をついているのではなく、本当に「何も知らない」のだ。
しかし、母の握りしめる手の力がわずかに強まったのを、さつきは感じていた。
これ以上追及しても、二人を困らせるだけだ。
さつきはそれ以上、さとるのことや痛みの話を重ねるのをやめた。
その夜、さつきは天井をじっと見つめていた。
さつきの中で、一つの決意が固まった。
さとるに出会ったことで、この不可解な現象は「自分一人の孤独な病」ではない気がしていた。
「宮嶋くんには……まだ、内緒にしておこう」
彼のあの反応は、まだ疑念の段階だ。
なら、私が先に答えを見つけてみせる。
――数日後の週末。
天気予報は「来週から本格的な梅雨入り」を告げていた。
リビングで母が「雨が続くようになる前に、おばあちゃんたちのお墓の掃除に行っておかなきゃね」と話しているのを聞いて、さつきはいつものように「あ、じゃあ明日、私が代わりに行ってこようか?」と口を開いた。
昔からさつきは、よく自ら進んでお墓掃除に行っていた。
母は「いつも助かるわ、ありがとうね」と、お墓の掃除用具の入った小さなバッグをさつきに手渡した。
翌日の午後。
初夏の風が吹き抜ける、穏やかな霊園にさつきは立っていた。
木々の青葉が日差しを浴びて濃い緑の影を落とし、入り口には梅雨を待つ大ぶりの紫陽花が、みずみずしく咲き誇っている。
さつきは手慣れた様子でバケツに水を汲み、墓石の前に立った。
墓石に溜まった埃を丁寧にブラシで洗い流していく。
冷たい水が手に触れるたび、モヤモヤしていた頭が少しずつ冴えていく感覚があった。
お墓をすっかり綺麗にし終え、新しいお花を供えて静かに手を合わせる。
お線香の煙が初夏の風に揺れて消えていくのを見届け、バケツやブラシを片付けようと腰を上げた。
いつもなら、ここでそのまま来た道を戻り、帰路につくはずだった。
けれどその時、突風が吹いた。
強めの風が霊園の木々を大きく揺らし、さつきの手元から、お墓に供えたばかりの「花の包み紙」がフワリと煽られて飛ばされてしまった。
「あ、待って――」
風に舞った紙くずは、すぐ隣の区画の、生い茂った植え込みの根元へと滑り込んで止まった。
「もう、変なところに……」
さつきは苦笑しながら隣の区画へと足を踏み入れ、身をかがめてその紙くずを拾い上げた。
そして、何気なく目の前にある墓石を見上げた。
そこにあるのは、真新しいが、どこか古めかしい趣を残した墓石。
木漏れ日の中で、そこに刻まれた文字がさつきの目に飛び込んできた瞬間、彼女の身体は凍りついた。
──「宮嶋」。
「え……?」
宮嶋。さとるの苗字と同じだ。
こんな場所で、またしても偶然なのだろうか。
いや、もう「偶然」という言葉で片付けるには、この一致はあまりに重すぎる。
背筋に冷たいものが走る。
まるでこの墓地そのものが、何か重大な秘密を隠しているかのように思えた。
スマホを取り出し、さとるにこのことを伝えようとした、その瞬間だった。
「うっ、ううっ……!」
突然、心臓を直接握り潰されるような、えぐられるような激痛が全身を駆け巡った。
身体から一気に力が抜け、視界が急速に反転する。
地面が大きく揺れ、足元から奈落へ陥没していくかのような激しい浮遊感。
それは、さつき自身の「紙で指を切った痛み」や、さとるの「掌を打った痛み」とは、次元が違っていた。
もっと重く、もっと深く、誰かが命を削られるような、底知れない「絶望」に近い痛み。
さつきは意識を保つことができず、紫陽花の香りが漂う石畳の上に、崩れ落ちるように倒れ込んだ。
──その頃、さとるもまた、絶望の淵にいた。
野球部の合宿中、午後の練習に向けてグラウンドでスパイクの紐を結び直していたさとるは、突然の異変に襲われた。
頭を直接万力で締め付けられるような、尋常ではない激痛。
「う、ぐぅ……っ」
全身から脂汗が噴き出し、呼吸がままならない。
視界は歪み、目の前の景色が砂嵐のようにかき消される。
周囲の部員が血相を変えて駆け寄ってくるが、返事すらできない。
さとるの冷静な思考は、完全に破壊されていた。
これは体調不良ではない。
自分の体の中で起きた異変でもない。
「外部から流れ込んできた、誰かの巨大な苦痛」だ。
意識が薄れる直前、さとるの脳裏に、あの美術室で出会ったさつきの姿が過った。
(……坂本さん……君も、今、これを感じているのか……?)
二人はそれぞれの場所で、体調不良や病気とは明らかに違う「異常な感覚」の中にいた。
自分たちのあずかり知らぬところで、「別の誰か」の痛みが、自分たちを中継点として
激しく共鳴している。
意識を失い、闇に落ちていく瞬間、二人はそれぞれの場所で、確信していた。
自分たちの身体は、もう自分たちだけのものではない。
この不可解な現象は、もう逃げられない段階に入ったのだと。
――数時間後。
目を覚ましたさつきは、真っ先にさとるへ連絡を入れた。
さとるもまた、部室のベッドの上で、さつきからの着信を待っていた。
「宮嶋くん……大丈夫?」
「……ああ。……坂本さん、あの痛み……」
「私たちが作った痛みじゃなかった。もっと別の、誰かの……」
電話越しに伝わるさとるの呼吸も、さつきの震える声も、同じ戦慄を共有していた。
二人は、自分たちの身体に刻まれる「見えない誰かの痕跡」を徹底的に辿ることを誓い合った。
さとるは、さつきに告げた。
「俺も、協力する。このままじゃ、野球どころか、自分の人生さえ自分のものでなくなる気がする」




