第6章「重なる傷」
ここ数日、覚えのない痛みが体に現れる頻度は増えていた。
それでも、さとるは痛みや怪我を周囲に隠し、野球部の練習に復帰していた。
「魂で投げろ!」という父の熱血な顔が脳裏をよぎるが、この奇妙な現象だけは誰にも打ち明けられない。
今日も練習中、右手の掌に走る鈍い痛みを必死に噛み殺し、何事もないように気丈に振る舞い続けた。
周りにバレるわけにはいかない。
普段の冷静な自分からは想像もできないほど、心は摩耗していた。
練習が終わり、他の部員たちが引き上げる中、さとるは教室に忘れ物をしたことに気づいた。
夕闇が迫り、静まり返った校舎の階段を上る。
自分の足音だけが静かに響く廊下を歩いていると、ふと違和感を覚えて足を止めた。
美術室の前だった。
開いた扉の隙間から、部屋の中をじっと見つめている背中がある。
(……藤原?)
同じクラスの藤原りょうだ。
彼は特に部屋に入る様子もなく、ただ雑雑とした世界から切り離されたような希薄な存在感で、じっと中を見つめている。
その指先が、何かに触れるようにわずかに動いた気がして、さとるは目を細めた。
「おい、藤原――」
声をかけようとした瞬間、藤原は一度も振り返ることなく、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく廊下の角を曲がって消えてしまった。
残されたさとるは、藤原がそれまで見つめていた美術室が気になり、誘われるように中へと足を踏み入れた。
――美術室の静謐な空気は、さとるの心を少しだけ落ち着かせた。
放課後の独特な静けさと、油絵具の匂い。
心を無にして室内を見渡していると、不意に、すぐそばで小さな吐息が聞こえた。
「ふぅ……」
驚いて視線を巡らせると、窓際の席で熱心にスケッチブックを広げている女子生徒の姿があった。
坂本さつき。同じ学年の、絵を描くのが好きな生徒だ。
彼女は完成したばかりの絵を少し離して眺めるように、スケッチブックを両手で持ち上げた。
その瞬間、さとるの視線は彼女の左手の人差し指に釘付けになった。
指先に巻かれた、小さな絆創膏。
それは、数日前にさとるが練習中に感じた、あの「紙で切ったようなピリッとした感覚」が走った場所と、全く同じ位置だった。
(……同じ怪我を)
さとるは、無意識に右手を握りしめた。
そこには、バントの練習中、ミスで作った怪我がある。
あの怪我が起きた直前に、自分の左手に走ったあの奇妙な違和感。
(偶然か……。――もしかして、他にも俺と同じ傷があったとしたら……。)
「あの……」
気づけば、声が出ていた。我ながら、唐突すぎる。
「その指、怪我したの」
さつきは驚いた顔で振り返った。
その瞳は警戒するように、さとるを見つめ返す。
「あ、いや……変なこと聞いて、すみません。坂本さん、ですよね」
さとるは少し気まずくなり、ぎこちなく敬語を混ぜた。
「ええ。宮嶋……くんだよね。私の指、どうかした」
さつきの声は控えめだが、どこか疲弊したような響きを含んでいた。
「……いや、その絆創膏。どこで怪我したのかなって、思って」
「これ……?スケッチしてるときに紙で切っちゃったの……」
さつきの言葉を聞いた瞬間、さとるの背筋に冷たいものが走った。
彼女がスケッチブックを握り直した瞬間。
持ち上げられた彼女の「右手の掌」が、さとるの目に飛び込んできた。
そこには、鈍く青紫がかった痣のようなものが浮かび上がっていた。
(……まさか)
場所も、形も、俺が隠し持っている傷と完全に一致している。
さつき自身はそれをただの原因不明の体調変化として捉えているようだが、さとるの目にはそれが、まるで鏡合わせのように見えた。
部活で気丈に振る舞い、必死に隠してきた自分自身の怪我が、彼女の身体に現れている。
さとるは自分の右手をさらに深くポケットに突っ込み、拳を固く握った。
傷の疼きと、彼女の手にある痣。そのあまりにも不気味な一致に、冷や汗が流れる。
(……ありえない。でも、だとしたら一体……)
さつきが、さとるの様子を伺うように、恐る恐る口を開いた。
「……あの、もしよかったら、連絡先、交換しませんか。私、宮嶋くんと、もう少し話してみたい気がして」
さとるは、自分の掌の疼きを感じながら、深く頷いた。
「ああ。俺も……俺も話したいことがある。坂本さんに」
互いのスマホに連絡先を登録し、その日は別れた。
去っていくさつきの背中を見つめながら、さとるはポケットの中で右手の掌を強く握った。
部活の仲間にも、親にすら隠し通してきたこの確かな「痛み」が、今は別の誰かとも繋がっている。
奇妙で、そして恐ろしい現実が、彼を支配していた。




