第5章「理由なき痛み」
その日の練習も、いつものように完璧な調和の中にあった。
部員たちが放つ掛け声、グラウンドを擦る足音、力強い打撃音。
すべてが心地よいリズムで流れていた。
さとるはバントマシンの前に立ち、膝を深く折ってバットを差し出した。
さとるは、その一球一球の軌道に魂を乗せるようにして、丁寧にグラウンドへと転がしていく。
今日という一日の流れも、頭の中で完全に把握していたはずだった。
しかし、次の一球に対し、バットを構えたその瞬間だった。
左手の人差し指に、場違いなほどの鋭い痛みが走った。
それはバットを握る指先の痺れや、使い古したマメが裂けるような痛みとは全く違っていた。
まるで、薄い剃刀の刃で神経を直接なぞられたような、小さく、けれどゾッとするほど冷たい鋭さ。
「……っ!?」
グリップを握る左手の中で起きた、野球中にはおよそあり得ない異変。
その異質な痛みに、反射的にさとるの全身が硬直した。
バットを狙い通りに動かすはずのコンマ数秒の判断が、その一瞬で狂わされる。
反応が遅れた。
バットで捉えるはずだった硬球が、左手を庇おうとバットから離した右の掌を直撃した。
ゴッ、という鈍く重い音が骨に響く。
無防備な掌を、石のような硬球が打ち砕いたのだ。
声にならない呻きとともに、バットが手から零れ落ちる。
右の掌に殴られたような重い衝撃が走った。
「おい、宮嶋!大丈夫か!」
部長が血相を変えて駆け寄ってくる。
さとるは左手で右手を庇いながら、必死に冷静さを装って首を振った。
「……すみません、大丈夫です。少し反応が遅れて、ボールが手に当たっただけです」
自分の集中力の欠如が招いたミスだ。
そう自分に言い聞かせ、さとるは震える手を押さえつけてベンチ裏へと向かった。
利き手の怪我は致命傷になりかねない。
早く冷やさなければならないという焦燥だけが、彼の行動を支配していた。
翌日以降、さとるの体には奇妙な痛みが現れ始めた。
脇腹がジンジンと鈍く痛んだり、なにかにぶつけたような痛みに襲われる。
これまでの人生で経験してきた、練習による「怪我」や「疲労」の感覚とは、どこか決定的に異なっていた。
痛みには必ず原因があり、原因があるからこそ対処法がある。
しかし、今のこの痛みには、明確な「因果関係」が欠落しているのだ。
誰にも話せず、さとるは一人、この謎を抱え込むしかなかった。
練習を休み、ベンチで練習を見つているさとるに部長が歩み寄ってきた。
「宮嶋。手、まだ痛むのか?」
「……はい。すみません、部長」
「気にするな。焦らなくていい。治るまでしっかり休んでくれ」
部長の優しく、けれど力強い言葉に、さとるは小さく頷いた。
しかし、部長はすぐにその場を離れようとはしなかった。
さとるの顔からいつもの自信が消え、どこか遠くを見るような、落ち込んだ瞳をしていたからだ。
部長はそんなさとるの肩をポンと叩き、「何かあればいつでも俺に言え」と、その背中に視線を向け、心配そうに目を細めていた。
――そんなさとるの様子を見かねて、父が立ち上がった。
地元の建設会社を経営しながら、かつてさとるが所属していた野球チームのコーチも務める父。
作業着の匂いと、大柄で無骨な背中。
さとるにとって、この父こそが最も信頼できる「現実」の象徴だった。
「いつまでも痛がっているわけにもいかんだろう。隣町に良い先生がいる。一度、観てもらうか」
車で一時間。
たどり着いたその病院で、医師は親身になってさとるの体を確認してくれた。
しかし、診断の結果は「打ち身や切り傷、捻挫」といった、どこにでもありそうなものだった。
「休養を取ればすぐに治るよ」と渡された薬を手に取り、さとるは呆然とした。
自分の体の中では、もっと別の何かが起きているような気がしてならなかったからだ。
「ちょっと遠回りして帰るか。気晴らしだ」
父の提案で、車は山奥へと進んでいった。
窓の外には手つかずの雄大な自然が広がっている。
季節の変わり目の深い緑と、せせらぎの音。
さとるはその風景に、吸い込まれるように目を奪われた。
「ちょっと待っててくれ」
突然、父はそう言うと、車を路肩に止めて十分ほどその場を離れた。
静寂の中で、さとるはどこか懐かしい気持ちになっていた。
しかし、それ以上に、自分の体で起きている異変の正体がわからないという不安が、ぐるぐると頭の中を渦巻いていた。
しばらくして戻ってきた父の手には、さとるが好きなオレンジジュースがあった。
父はそれを無造作に手渡すと、豪快に笑った。
「くよくよするな。帰るぞ!」
父の熱のこもった言葉に、さとるの心は少しだけ晴れかけていた。
これなら、明日には何事もなかったかのように戻れるかもしれない。
だが、その願いとは裏腹に、左の足首にふっと、焼けるような熱い痛みが走った。
さとるは口を真一文字に結び、痛みを噛み殺した。
それはまるでーー目に見えない何かに、じわじわと内側から蝕まれているような体験だった。
彼がずっと信じてきた「普通の明日」は、音を立てて崩れ始めていた。




