第4章「勝利の法則」
グラウンドの土の匂いと、春の陽気を含んだ風。
宮嶋さとるにとって、高校の野球グラウンドは世界で一番心地よい場所だった。
金属バットがボールを捉える快音。
守備陣が送る掛け声。
それらすべてが、ひとつの巨大な交響曲のように調和して耳に届く。
彼はその中心であるマウンドに立ち、深く息を吐いた。
さとるが野球を続けている理由は、単に勝ちたいからだけではない。
彼が野球に出会ったのは、地元の少年野球チームでコーチをしていた父親の影響だった。
父は「魂で投げろ!」「もっと声を出せ!」と叫ぶような、根性や気合を重んじる昔ながらの指導者だった。
幼い頃、父に半ば連れられるようにしてボールを握り始めたさとるは、父の教えをただがむしゃらにこなすだけだった。
だが、練習を重ねていくうちに、さとるはその面白さに気づき始めた。
どうすれば手元で鋭く曲がる変化球を捉えられるのか。
自分の身体の動かし方一つで、白球の軌道が劇的に変わる。
父の言う「気合」の裏側にある、緻密な物理と理詰めの世界に、さとるは次第にのめり込んでいった。
小学生でエースになり、中学生でもチームの柱となった。
そうして野球を深く知るにつれ、彼は自分なりの「上手くなるための法則」を見つけるようになった。
名門校から推薦を受けたのも、その日々の積み重ねと、自分自身と向き合う姿勢が認められたからだ。
自分を含めた9人の選手、ベンチにいるメンバー、監督。
その全員が同じ方向を向き、ひとつの目標のために呼吸を合わせる。
その「一体感」が何よりも好きだった。
積み重ねてきた努力が、試合という極限の舞台で「目に見える形」となって結晶化する、あの鳥肌が立つような瞬間への渇望が、彼を突き動かしているのだ。
練習の合間、さとるは自分のグラブの紐を丁寧に締め直しながら、一人の同級生の姿を追っていた。
レギュラー入りを強く願う一ノ瀬だ。
彼は打撃練習で何度も空振りを繰り返し、苛立ちを隠せない様子でバットを地面に突き立てていた。
さとるは立ち上がると、一ノ瀬の元へ歩み寄った。
「一ノ瀬、さっきの打席。腰の開き、ちょっと早いかもな」
一ノ瀬が顔を上げ、少し気まずそうに鼻を鳴らす。
「……そうか?」
「ああ。今のスイングだとボールを捉えるまでに距離がありすぎるだろ。重心をもう少しだけ右足に残す意識で振ってみろよ。それならもっと楽に振り抜けるはずだ」
さとるは自分のバットを手に取り、軽くスイングの軌道を見せた。
あくまで、自分が試して上手くいった「発見」を共有するスタンスだ。
「ためしてみるか……」
一ノ瀬は半信半疑ながらも構え直し、さとるのアドバイス通りに重心を意識してスイングした。
鋭い快音が響き、打球は力強くセンター方向へ抜けていく。
「あ……本当だ。全然違う」
「いい打球だったぞ。今の一ノ瀬ならいける」
さとるが笑って背中を叩くと、一ノ瀬もつられて笑った。
「まじで助かるよ。なんでそんな細かいところまで見てるんだよ」
「好きだからな。野球は、ちゃんと考えて向き合えば、ちゃんと応えてくれる」
さとるは照れくさそうに頭をかいた。
彼は、誰よりも観察し、どうすれば上手くなれるかを考え、実践する時間を惜しまないだけだった。
練習後、部室へ戻ろうとするさとるを、野球部部長であり、チームの絶対的エースで4番の工藤が呼び止めた。
「宮嶋!来週の練習試合、絶対勝つぞ!」
「部長!はい、絶対勝ちましょう!」
工藤は練習着をタオルで拭いながら、ギラギラとした闘志を瞳に宿してさとるに歩み寄った。
妥協を許さない、チームの魂ともいえる男だ。
「相手の投手、手強いらしいな。だが、俺が力でねじ伏せてやる。お前も投げる準備はいいか?」
「もちろんです。工藤さんがいてくれれば、僕もマウンドで思い切り腕を振れます」
さとるは、自分にはない「熱量」でチームを鼓舞する工藤を心から尊敬していた。
ふと、工藤の闘志に触発されたのか、さとるは思い出したように口を開いた。
「そういえば、相手投手、セットに入るとき、右足の位置をわずかにずらす癖があるんですけど、そのときは恐らく内角にシュートかスライダーを投げてきます。見逃して狙い球を絞れば、工藤さんなら必ず捉えられますよ」
「……お前……すごいな!?」
工藤は驚きに目を見開き、そして豪快に笑った。
さとるが少し照れて苦笑いを浮かべると、工藤は力強くその肩を叩いた。
「お前の分析にはいつも助かってるぞ。サンキュー!」
さとるは、部室を出て、校門へと向かう。
夕焼けが校舎をオレンジ色に染め上げていた。
今日の練習でも、自分の投球内容はほぼ完璧だった。
狙ったコースに、狙った球速で、狙った回転の球を投げ込める。
芯で捉える打球が次々と鋭い音を立ててグラウンドへ飛び出した。
自分の身体が、自分の意のままに動く。
その「支配感」こそが、さとるを野球に突き動かす原動力だ。
空を見上げた。
澄み渡った空には、ぼんやりと白い月が浮かび始めている。
「今日もやり切った。明日は、もっといい野球が出来るはずだ」
さとるは小さく呟いた。
努力が報われると信じて疑わない日々。
チームメイトと笑い合い、勝利を夢見る日常。
カバンを背負い直し、軽やかな足取りで家路についた。
明日の朝も、五時に起きる。
そう決めていた。
それが、宮嶋さとるという少年の、もっとも幸福な日常の姿だった。




