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第3章「十秒後の傷」

 さつきは、誰もいない美術室の静寂の中にいた。

 窓の外では日が落ちはじめ、教室の床に落ちる影が、黒いインクを流したように長く伸びていく。

 さつきはその様子を、イーゼルの前に座ったままぼんやりと眺めていた。

 描き終えたキャンバスを三歩下がって見つめる。

 そこには、ここ一ヶ月間、ずっと追いかけていた「石膏像の光」があった。

 うまく言葉にはできないけれど、さつきの胸の中には、薄氷の上を歩くような心地よい緊張感と、それを乗り越えたという小さな達成感が同居している。

 筆を洗うために用意した水は、絵の具の色が溶け出して、淡い灰色に濁っていた。

「……よし」

 誰に聞かせるでもなく、さつきは小さく呟いた。

 今日はもう、これで終わりにしよう。

 欲張って筆を入れすぎると、せっかくの瑞々しさが死んでしまうこともある。

 そう自分に言い聞かせて、作業台の上に散らばった資料や筆を片付け始めた。

 リュックサックを床に置き、資料を詰め込む。

 窓から入ってくる風が、乾きかけの絵の具の匂いを運んでくる。

 さつきはこの匂いが好きだ。

 ここに来てから、生活は絵一色になった。

 それ以外のことは、時々どこか遠くの出来事みたいに感じる、今はそれでいい。

 少なくとも、ここにいれば自分自身のままでいられる。

 早く帰って、この手応えを明日に繋げよう。

 そんな明るい見通しが、さつきの動きを少しだけ急かした。

 資料の束を乱暴に揃えようとした時だった。

 紙の端が、さつきの右手の指先にふれ、まるでカミソリのように切り裂いた。

「っ、痛っ……」

 反射的に指を口元に運ぶ。ピリリとした、慣れ親しんだ鋭い痛み。

 さつきは小さく舌打ちをした。

 全く、片付けの最中だというのに。

 人差し指の先を見ると、白い皮膚が薄く割れ、そこから赤い筋がじわりと滲み出ている。

「……ドジだなあ」

 大した傷ではない。

 美術室にはよくあることだ。

 さつきは指を舐め、適当にティッシュで拭って、続きの作業をしようとした。

 その時。

 時計の針が刻む音だけが、やけに大きく聞こえた。


 ——一、二、三……。


 心の中で静かに数字を数えていたわけではない。

 けれど、その間隔が、どうしてか異常に長く感じられた。十秒。

 十秒が過ぎた、その瞬間だった。

 指先の切り傷とは全く違う場所——右の掌に、重い鈍痛が走った。

「……っ!」

 思わず、息を呑んで立ちすくむ。

 身に覚えのない痛みだった。

 掌の奥底で、何かが脈打つような、ズンと重い鈍痛。

 それは、さっき指先を切った時のような鋭い痛みとは別物で、まるで掌の内部に異物が入り込んだかのような、重苦しい感覚だった。

 持っていた鉛筆が、カラリと音を立てて床に落ちた。

 さつきは、右手で左腕を抱えるようにして、しばらくその場に固まっていた。

 冷や汗が、じわりと額に滲む。

 掌の中で、鈍い熱が渦巻いているようだった。

 じわじわと、波が引くように、痛みはゆっくりと薄れていった。

 さつきは、恐る恐る自分の右手を見つめた。

 先ほど紙で切った指先の傷跡がある。

 けれど、それだけではなかった。

 指先の傷とは別に、右の掌に、覚えのない新しい傷跡が、刻まれていた。

 なぜ、こんなところに。

 さっきの鈍痛と関係があるのだろうか。

 自分の皮膚に刻まれた、見覚えのない痕跡。

 ぞわり、と背中に冷たいものが走った。

 これは、普通じゃない。

 ただの怪我や疲労なんかじゃない。

 さつきは震える手でリュックを掴み、中身を整理するのも忘れて、美術室を飛び出した。

 早く、ここから出なければ。

 この場所の空気が、今の自分を落ち着かない気持ちにさせているような気がしたから。

 廊下を走り抜け、階段を駆け上がる。

 向かったのは屋上だった。

 誰もいない場所で、ただ、風に当たりたかった。

 重い扉を押し開けると、冷たい夕風がさつきを包み込んだ。

 あぁ、呼吸ができる。

 フェンスに寄りかかり、荒い息を整える。

 心臓の動悸がまだ収まらない。

 さつきの右手は、強く握りしめられていた。

 まだ、どこか熱を持っているような気がして、それが怖い。

「……え、誰かいる」

 誰かの声がして、さつきはビクリと肩を震わせた。

 屋上の端、フェンスの陰に、一人の人影があった。

 藤原だった。

 クラスで、言葉を交わしたこともほとんどない男子生徒。

 いつも静かで、まるでそこにいないかのように空気と混ざり合っている存在。

 藤原はさつきに気づくと、薄く目を細めた。

 その瞳には感情らしい感情は見当たらない。

 ただ、淡々とそこにいるだけの存在として認識した、という風な無機質な視線。

 藤原が立っていた場所の足元には、何か小さな道具のようなものが落ちているように見えた。

 藤原が、スッと腰を落とす。

 そして、手慣れた仕草でそれを拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。

 一瞬だけ見えた、真鍮のような、硬質な鈍い光。

 藤原は何も言わず、さつきの方を避けるようにして、屋上の入り口へと歩き出した。

 すれ違いざまに、彼が放つ空気が、風よりもずっと冷たいことに気づく。

「……っ」

 さつきは思わず息を呑んだ。

 藤原は何も言わない。

 さつきを見もしない。

 けれど、あの場所に、ただ彼がいたという事実だけで、胸の中には形容しがたい不安が積もっていく。

 美術室で感じたあの、理屈のつかない「掌の痛み」。

 そして、この屋上に漂う奇妙な静寂。

 これらは決して繋がっているわけではないはずだ。

 きっと、単なる偶然が重なっただけ。

 けれど、右手の掌にはまだ、何かの「残響」のような熱が残っている。

 今まで積み上げてきた日常。

 絵を描くという、自分にとっての酸素のような営み。

 それらが、たった今、ひっそりと綻び始めたのだと、さつきは直感した。

 遠くで、誰かが名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 由美だろうか、香織だろうか。

 さつきは返事をすることができない。

 ただ、夕暮れの空を見上げた。

 あんなに鮮やかだったオレンジ色は、いつの間にか、紺色に塗りつぶされようとしていた。

 この不安は、一体どこから来ているのだろう。

 身体は、確かに自分のものなのに。

 何かが、知らず知らずのうちに噛み合わなくなっているような。

 そんな、言いようのない不気味さが、夜の帳と共に、静かにさつきを包み込んでいこうとしていた。

 帰り道の校門を出ると、街の灯りが少しずつ点り始めていた。

 いつも通りの景色。

 いつも通りの家路。

 何も変わっていないはずなのに、自分だけが、何か大事なものを置き忘れてしまったかのような錯覚。

 掌には、まだ痛みが残っている。

 明日はきっと、何事もなかったかのように朝が来る。

 けれど、心のどこかで分かっていた。

 もう、あの「無敵だったさつき」には戻れないのだと。

 空を見上げると、月がいつもより輝いて見えた。

 さつきは歩き出す。

 足音だけが、寂しく響く夜の道。


 ――何かが始まる。そんな予感に背中を押されながら、さつきは暗闇の中へと溶けていった。

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