第2章「呼吸する絵」
坂本さつきは、校門をくぐってからちょうど一ヶ月が過ぎた校舎の空気に、少しずつ身体を馴染ませていた。
五月の風は、少しだけ肌寒さを残しているけれど、真新しい制服の匂いは、教室の喧騒や廊下の埃と混ざり合い、いつの間にかさつきの一部になっていた。
入学式の日に感じた、胸を締め付けるような緊張感は、今では少し遠い記憶のように思える。
さつきは、放課後の美術室の重いドアに手をかけた。
中学三年の冬、美術部の活動実績を見て、この高校で絵を描くことだけを目標にしてきた。
今日まで毎日、放課後のここに来ることが、さつきの高校生活のすべてだった。
がらりとドアを開けると、ツンとした油絵の具と溶き油が混ざった、あの独特の匂いがさつきを出迎える。
窓際の定位置。
イーゼルにキャンバスを立てかける時、さつきは背筋がピンと伸びるのを感じる。
でも、筆を握ると、途端に心臓がトクンと嫌な音を立てた。
中学の頃のさつきは、ある意味で無敵だった気がする。
キャンバスに向き合えば、頭の中にある情景が勝手に色になって、指先がそれをそのまま描き出してくれる。
あのお祭りの絵のように。
描くことは魔法みたいで、息をするのと同じくらい自然なことだった。
でも、高校は違った。
ここには、さつきよりもっと上手い人たちが当たり前のようにいる。
目の前には、白くて冷たい石膏像が置かれている。
隣の先輩のキャンバスを盗み見る。
そこに描かれている石膏像は、まるでそこに実在するみたいに重厚で、冷たいはずの石の質感がリアルに伝わってくる。
自分の描く石膏像は、どうしてこんなに薄っぺらいんだろう。
線は歪んでいるし、影はただの汚れのようだ。
自分でもよく分からないけれど、明らかに「何か」が足りない。
「……違う。ここじゃない」
さつきは筆を置いて、頭を抱えたくなる。
かつて自分が頼りにしていた「感覚」という名の魔法は、この場所では通用しない。
先輩たちは、「光がここから当たっているから、影はこう回り込む」「石膏の質感を出すなら、ここはこういう色を置くべき」と、言葉や理屈で絵を描いている。
上手くなりたい。
あんな風に、世界を正確にキャンバスに写し取りたい。
でも、いざ目の前の石膏像を描こうとすると、手は鉛筆を握ったまま固まってしまう。
感覚だけで描こうとすれば、形が崩れる。
先輩の真似をして理屈で追おうとすれば、絵から命が消えていく。
さつきは、自分が持っていた「描き方」を一度全部、捨てることにした。
放課後の美術室で、誰もいなくなった後も一人で残った。
ひたすら目の前の石膏像と向き合う。
光の角度を測り、影の濃淡を頭に叩き込む。
描いては消しゴムで消し、紙の表面がボロボロになるまで線を引く。
これは、あの中学時代の楽しいお絵かきとは違う。
自分自身の未熟さと向き合う、苦しい作業だった。
上手くいかないと、無性に悔しくて涙が出そうになる。
なんで私にはできないんだろう。
どうしてあんな風に描けないんだろう。
指先は鉛筆の粉で真っ黒で、手は震えている。
でも、筆を置くことはできなかった。
ここで逃げたら、一生、本当の絵なんて描けない気がしたから。
そんなふうに、自分を追い込んでいるさつきを、教室から呼び戻してくれるのが由美と香織だった。
美術室のドアが勢いよく開く音。
「さつきー!また引きこもってるでしょ!今日は絶対に一緒に帰るって約束したじゃん!」
由美が呆れたような顔で笑う。
その後ろで、香織が手にコンビニの袋を持って微笑んでいる。
「今日も頑張ってるね。……ちょっと顔色悪いよ?大丈夫?」
香織がスケッチブックを覗き込んで、さつきの手元を心配そうに見る。
そこには、光の当たり方を分析するために描き殴った、石膏像のデッサンが何枚も並んでいた。
「うわあ……これ、本物みたい。すごいよ」
香織の言葉に、さつきは首を振る。
「ううん、全然。影の捉え方が変だし、まだまだなの」
それでも、二人の明るい声を聞くと、さっきまでキャンバスの前で抱えていたモヤモヤしたものが、すーっと消えていく。
美術室という張り詰めた聖域から、彼女たちのいる「普通」の世界へ。
その境目を行き来するのが、今のさつきには救いだった。
三人で歩く帰り道。
由美が今日の数学の先生の失敗談をして、香織がそれに笑う。
さつきはただ、その横顔を眺めているだけで幸せだった。
「さつきが描く絵、好きだよ。優しくて、空気が見えるみたいで」
香織がふと言ったその言葉に、さつきは胸がぎゅっとなる。
どんなに悩んでいても、どんなに理屈にぶつかって泣きそうになっても、この言葉があれば、さつきはまた明日も筆を握れる。
――五月の終わり。
さつきは、全高展に向けた準備の途中で、小さな手応えを感じていた。
毎日毎日、影の色の混ぜ方を試して、線の引き方を工夫して。
感覚だけじゃなくて、目で見たものを素直に追う練習を続けていた。
ある日の放課後、ふとキャンバスの中の石膏像が、ほんの少しだけ実体を持った気がした。
筆先がキャンバスの上を滑る。
理屈じゃない。
でも、感覚だけでもない。
頭で理解したことと、指先の感覚が、ほんの一瞬だけカチリと音を立てて重なる感覚。
「……できた」
誰もいない美術室で、小さく呟いた。
心の中にあったイメージが、ようやく目の前のキャンバスの上で呼吸を始めた。
あんなに苦しかったのに、手が震えるほど上手くいかなくて泣きたかったのに、今はただ、目の前の作品が少しだけ愛おしい。
努力すれば、ちゃんと報われるのかもしれない。
そんな小さな手応えが、さつきの心をいっぱいに満たしていた。
さつきは筆を洗い、パレットを片付ける。
夕日のオレンジ色が美術室を温かく染めている。
充実感に胸を弾ませて教室を出ると、廊下の先で由美と香織が手を振っていた。
「お待たせー!」
二人の声が、廊下に響く。
なんてことない日常。
努力が少しだけ形になる喜び。
待っていてくれる友達。
さつきは駆け寄る。
明日も、明後日も、この時間が続いていく。
さつきは、心からそう信じていた。




